学術雑誌『大本教學』コンテンツ contents of the academic journal ‘Ōmoto Kyōgaku’
4. 『大本教學』管見
管見といっても,これを達成するにはかなりの時間を要する筈である。全部読み込んで理解した上でなければならない。ここでは,目次を作成したりちょっと覗いただけでの文字通りの管見を示したいと思う。
4.1 総長京太郎一派による『大本教學』廃刊
なんといっても廃刊になってしまったことが残念である。某氏からは次のように。
和明さんの『第三次大本事件の真相』208頁には次のように書いてあります。
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『大本教学』第一九号は五五年九月大本教学研鑽所より発刊された。内容は私の執筆した『考証・出口直伝』を主とし、付録に『瑞月校閲・大本教祖伝(開祖の巻)』が掲載された四五四頁にわたる書である。『考証・出口直伝』は私が『大地の母』完結いらい長年月かけ、多くの私費を投じて取材し執筆したものであり、教学研鑽所の要請に応じて出版を認め、しかも印税も辞退した。また教団内における私の立場を考慮して著者名を出すことも遠慮し、大本教学研鑽所編として出版した。それでもたちまち発行禁止になり、まぼろしの書になる。しかも著者に対してその理由の説明もなく今に及ぶ。一度は発行された『大本教学』第一七号、第一九号はすでに廃棄処分になったのか、どこかに死蔵されているのか、知るよしもない。
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また,別の某氏によれば,
教学17号は、当時総長になっていた京太郎さんのご機嫌に適わず、発禁になった号でした。
第十八号のp. 165にあたる編集部のおわびの文からも相当の圧力があったことが見えるのである。
第十七号は,昭和五十二(1977)年万教同根シンポジウム特集号である。王仁三郎作耀盌を主とする英国での作品展に始まって,出口うちまるそしてその後継になった栄二の愛善運動が実を結び,大本祭式が合衆国ニューヨークのカソリック教会で実施されたことなどの状況を踏まえてのことであろう。
このシンポジウムは,その成立経緯から,栄二が主導して当然のものであったろう。『大本教學』第十七号について,総長出口京太郎がキレる内容なのか,流し読みしたが,全くそういう兆候はない。総長出口京太郎の出番も用意している。栄二の性格ゆえもあろう,目立っているのは確かであるが,大本の社会的宣伝には総長とすれば,喜ばしいことである。なんとも,情けないことであった。
『大本教學』第十九号の前半では,出口うちまるの長男,出口和明の地道な調査が結実している。「考証出口なお伝(上)」で終わったことはなんとも残念ということで,さらに別の某氏にお尋ねしたら,八幡書店から,『いり豆の花』大本開祖 出口なお伝,として出ているということであった。https://www.hachiman.com/shopdetail/000000000360/
大本教開祖 出口なお 艱難と愛に満ちた八十三年の生涯
いり豆の花 出口和明=著 5,126円(本体4,660円+税10%)
開祖出口直は、聖師出口王仁三郎とともに、大本教団の二大教祖とされる。にもかかわらず直昇天七十七年、王仁三郎昇天四十七年を経た平成七(一九九五)年現在でも、本格的な『開祖伝』『聖師伝』は、教団から一冊だに編纂されていない。
本書執筆の意図は、すべての資料を吟味し、点検し、時には今まで事実とされていたものを崩し、不明は不明とする。また主人公の残した足跡を、足で確認し、できる限り資料は資料として散逸しないように活字に残しておくことである。
『大地の母』執筆の始まった昭和四十二年頃から取材にかかり、完成後も、本書執筆の意図をもって断続しながらも取材を重ねたため、今では知り得ぬ貴重な事実の発見をその取材記録の中に蓄積してきた。それらも本書の中に随所にちりばめたつもりである。(著者あとがきより)
中古で3000円で入手可能である。タニハにあったような。探したい,
出口伊佐男(うちまる)は和明の父である。王仁三郎が大正十三年の入蒙直前に『錦の土産』といういわば遺書を書いた。そこでは,伊佐男は王仁三郎の霊的な子供であり,全権を二十歳の伊佐男に託している。三代教主よりもより高い位置づけであった。同年,三女八重野と結婚し,若干二十一歳ですぐに二代および三代両教主の教主補佐(出口和明,1986: p. 187)となっている。第二次大本事件では投獄され,王仁三郎、澄子と共に6年8か月の獄中生活を送った。昭和三十三(1958)年には総長を辞任し,次の教主直美の夫栄二を推挙している。自らの長男和明を推薦することも権力的には可能ではあったと思われる。
栄二は出口伊佐男の平和運動を受け継いでその急進性ゆえにとして,昭和37(1962)年,三代教主から総長を解任される。昭和57(1982)年には,王仁三郎が決定した四代直美とともに追放されるのである。
前述のように,『大本教學』第十八号の発行年月日は昭和五十五(1980)年二月四日である。この時にはまだ第十七号は出ていない。ところが手元の第十七号を見ると,発行年月日は昭和五十三年七月十二日となっている。結局,第十七号は印刷されたが,総長命令で,お蔵入りになったと考えて良い。栄二と王仁三郎決定の四代直美が追放されたのは第十八号の翌年である。
改めて第十九号の発行年月日を見ると,昭和五十五(1980)年九月三日となっている。和明の語るところではこの十九号も日の目を見なかったことになる。
『大本教學』というよりも,三代教主とその長男京太郎による栄二,和明排撃の真っ最中であった。王仁三郎が定めた四代教主直美が生まれたら京太郎一派の立身が立ち行かなくなる。そういう文脈での『大本教學』廃刊であった。
4.2 大本教祖伝 開祖の巻
聖師出口王仁三郎伝は和明流に言えばいまだ公にされていないということになるが,和明はこの聖師伝のための調査も進めていた。出口京太郎の巨人伝もある。ぼくは伝記よりも教えに注力すべきとは思っている。
新約聖書にはかなりの数の伝があるが,その中核は伝記的なものよりも,教えである。教えゆえに世のバイブルになっているのである。
さて,この文の流れとは異なるが,昭和三十二(1957)年一月十五日付の『稿案 大本教祖伝 開祖の巻 大本教学院』がタニハには残っている。ここでは『神の国』掲載日付が正しく記載されている。これを使って,第十九号の日付を検証した。修正した結果を上記第十九号に反映させている。
以上,2025年2月6日。
4.3 王仁三郎のオリオン三つ星と手相
第十一号の口絵写真には,王仁三郎の背中のオリオンの三つ星(図6)と手相(図8)が掲載されている。これについて,ぼくが納得すべく,ネット上での情報を拾いつつ,ここに示したいと思う。
『霊界物語』全七十二巻とは別に,霊界物語特別編として,山河草木入蒙記がある。校訂版のあとがき(p. 384)には,もとは上野公園著『王仁蒙古入記』として大正十四年二月十四日蚕都新聞社から出版されたもの,と注記されている。
『霊界物語』特別編の「第九章 司令公館」の一部を次に引用する。
——— 引用〜『霊界物語』特別編の「第九章 司令公館」pp. 84-86
盧占魁は日出雄が支那服を誂へた時、ソツと被服商の主人に言ひ含め,支那にて有名なる観相学者を呼んで来て,古来伝説にある救世主の資格の有無を調べむため,日出雄の骨格や容貌や, 目,口,鼻,耳等の形から胸のまはり,手足の長短等から,指の節々,指紋等に至るまでを仔細に調べ させた結果,いはゆる三十三相を具備した天来の救世主だと言つた観相家の説に,随喜の涙をこぼし,いよいよ蒙古王国建設の真柱と仰ぐに至つたのである。かかる注意の下に盧占魁が日出雄の身体を調べ てゐるに拘らず,日出雄は索倫山の本営に行つて盧占魁が自白するまで,そんな事とは気が附かなかつたのである。観相者は特に日出雄の掌中の四天紋(してんもん)と指頭の皆流紋(かいりうもん)を見て,左の如き断定を下した。
掌中四天紋=乾為天
大哉乾元万物資始乃統天雲行雨施品物流形大明終始六位時成時,時乗六竜以御天乾道変化各正性命保合太和乃利貞出庶物万国咸寧。
指紋皆流=坤為地
至哉坤元万物資生乃順承天,坤厚載物徳合旡彊,含弘光大品物亭牡馬地類行地旡彊柔順利貞君子攸行,光迷失道,後順得常西南得明乃与類行東北喪明乃終有慶安貞之吉応地旡彊。
盧占魁は更に,日出雄の掌中に現はれたるキリストが十字架上に於ける釘の聖痕や,背に印せるオリオ ン星座の形をなせる黒子等を見て非常に驚喜した。そしてこの次第を哥老会の耆宿 (きしゆく) 揚成業(やうせいげふ)や蒙古王の貝勒(ばいろく),貝子鎮国公(ばいしちんこくこう) を初め、張彦三(ちやうげんさん),張桂林(ちやうけいりん),鄒秀明(すうしうめい),何全孝(か ぜんこう),劉陞三(りうしようさん),大英子児(タアインヅル),賈孟卿(ジヤムチン)等の馬賊の 頭目や,張作霖(ちやうさくりん)部下の将校連(しやうかうれん)にも之を示し,天来の救世主だ,この救世主を頭に戴いて内外蒙古に活躍すれば成功疑ひなしと,確信してゐたのである。それゆゑ日出雄は蒙古に入つても凡ての 上下の人々より、非常な尊敬と信用を受けたのである。
引用〜おわり ———
第十一号の口絵写真には,ここで言及されている「背に印せるオリオ ン星座の形をなせる黒子(ほくろ)」と「掌中の四天紋(してんもん)と指頭の皆流紋(かいりうもん)」が提示されている。
なお,『入蒙記』引用中の漢文はPerglexityを使って,邦訳した。次にそれを。
——— 引用〜Perglexityを使って
掌中四天紋=乾為天について:
なんと偉大であることか、乾元(けんげん)は万物が生成を始める源であり、それによって天を統べる。雲が巡り雨を施し、万物が形を成して流通する。始まりから終わりまでを明らかにし、六つの位(六爻)がそれぞれの時に応じて完成する。時に六竜に乗り、天を自在に治める。乾の道は変化し、それぞれの性質や命を正しくし、大いなる調和を保つ。これが正しき道であり、万物の繁栄と万国の平和をもたらすのである。
この文章は『易経』の「乾為天」における彖伝(たんでん)の一節を基にした翻訳,とある。
指紋皆流=坤為地について:
なんと偉大であることか、坤元(こんげん)は万物が生じる源であり、天に従うことでその道を成す。坤は大地のように厚く万物を載せ、その徳は無限である。広大で包容力があり、光り輝き偉大である。万物は調和し、牝馬(めうま)のように柔順で、地の性質に従い行動する。地は無限に広がり、柔順で正しい行いを助ける。君子はこの道を歩むべきである。
もし迷い道を失えば、後に順応することで常道を得る。西南の方角では明るさを得て仲間と共に行動できるが、東北の方角では明るさを失う。それでも最終的には喜びと安定が訪れ、正しい道を歩むことで吉兆となる。このように坤の徳は無限である。
この文章は『易経』の「坤為地」に基づく内容で、大地の徳や柔順さ、従順の美徳を強調しているとある。
引用〜おわり ———
翻訳を見る限り,とくに手相の特徴は記されていない。ここでの観点では役に立たない。
まずは,第十一号口絵写真⑦オリオンの三つ星についてである。聖師の背中に,三つの黒子(ほくろ)が並ぶ。図7として,オリオンの三つ星の天文写真を並べている。ニュージーランドクライストチャーチ夏季滞在中は,自宅からほぼ毎晩眺めてきた。百八十度ひっくり返っているのであるが。

次に,口絵写真 ⑦聖師が大正13年2月3日節分に四十八人の信徒に授けられたもの(三分の二大,両手形)について確認したい。

図8では,墨の乾かないうちに手形紙を重ねてしまったのであろう。残念ながら上下の墨が付着してしまっている。キリストが十字架上に於ける釘の聖痕,にあたるところに王仁の字が重なっていて,見ることができない。右手だけに注目したい。
図10で,5本の指の第1関節の指紋の部分について特に赤丸で囲っている場所には,皆流指紋が見られる。画像としてはボタンが付着しているように見えている。図9, 10の左上の指紋は,親指で押された拇印にあたる。これが☉を示すのである。印肉とは違って,墨が入り込んでいて丸く抜けてはいない。繰り返し墨塗りをした結果でもあろう。


「皆流紋」という表現はかつて使用されたもののようで,次の長谷部(1944)の人類学的研究成果で見られる。ここには,須田昭義がほぼ四千人の男子の左右手について調査した結果が記されており,これによれば,頻度からすると皆流紋は珍しいものではない。王仁三郎の指紋がかなり指先に近い部分に配されているようにも見えるのではあるが。
長谷部言人, 1944. 我國の手相學書に記された指紋手式に就いて. 人類学雑誌,Vol. 59, No. 11, pp. 415-417. https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase1911/59/11/59_11_415/_pdf

四天紋(木庭次守の表現では五天紋)という表現は現在のネット上には存在しない。『大本教學』第十一号は昭和四十七年二月に発行されている。この時はぼくが大学3年生にあたるのであるが,ぼくが中学生時代に父が聖師の手相についてぼくに語りかけたことがあった。聖師には天下線があると言う。そのとき,子供ゆえと許していただきたいが,爪で天下線を自らの手の中指に描いて父にすぐさま見せたのである。父はじっとみてなんとも言わなかった。今でもその時の父の顔が浮かぶ。
四天紋(木庭次守の表現では五天紋),が父が天下線と言ったものだと思う。天下線をネットで見ると,このぼくの右手の写真にみえる「ますかけ線」をさすようである。父の言う天下線は運命線が手首近くから指先に向かって伸びる線のことである。それで図10に,父の言う天下線を捉えようとしたがなかなか難しい。どうも聖師には父の言う天下線がない。ますかけ線ならば図8を見ると,両手にあるかもしれない。ぼくの長男には両手がますかけになっている。そう珍しいことではないのではないか。
四天紋(木庭次守の表現では五天紋),が父が天下線と言ったものであるが,これはますかけ線のことではないだろう。名前からすると,「運命線が手首近くから指先に向かって伸びる線」のことである。これを持つ人の例はいまだない。聖師がそれに当てはまるかどうか。

ネット上には図12,13の画像が溢れているが,おそらく信頼できるもののようである。図12の手首から指先に伸びる「天下線」は秀吉が刀で自ら切り込んだという説が有力である。ますかけ線はあるらしい。別の掛け軸の画像からそう読み取れる。図13の家康の手形には,ますかけ線があるが何か糸状のものを渡したように見える。

とにかく,図12,13からすると,手相には昔からかなりこだわりがあったことは確かで,天下線(天下取り線)とされるのは,家康のこだわりの手形からすると,ますかけ線と考えて良いように思う。
聖師には,このますかけ線が(両手に)あったのは確かなことであったが,運命線の延長が第1関節に達する掌中の四または五天紋は図8の手形ではわからない。聖師の活動を振り返ってみて,手そのものを撮影した写真もあるのではないかと想像するのであるが‥‥‥‥‥‥‥。見つからないのだろうか。
以上,2025年2月7日。
4.4 在庫と父のメモ
電子化のための裁断が必要で,自宅とタニハの在庫を確認した。No. 19までの電子化は,Nos. 1(元晴), 2(い飯塚弘明), 3(出口三平), 5-12(飯塚弘明)は,完了している。残りのNos. 4, 13-19,のうち,大部なNos. 17, 19を除いて,元晴が電子化の予定である。Nos. 13, 14, 15, 16,18はタニハに3冊以上あったので自宅に持参した。No. 4は自宅とタニハで計4冊あるので,裁断利用が可能になった。


タニハでの『大本教學』の在庫を調べている際に父の修正メモを






以上,2025年2月11日。



