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山城国葛野郡の地形と桂川灌漑域 geomorphology and Katsura River Irrigation System of Kadono District in Yamashiro Province 

はじめに  秦氏(大山咋命)の根拠地である葛野の範囲を特定したいと思う。この範囲は古代のそれである。丹の海Part 1では,丹の海干拓の時代を古墳時代後期としており,丹の海干拓の時代は,古代という枠組みよりも遡るが,この古代の範囲と古墳時代後期の範囲が近似するという前提でここに,秦氏の活動範囲を想定する。  亀岡盆地の丹の海干拓となぜ葛野がつながるのか。ぼくは大山咋命の丹の海干拓に関わる事業の当初の目的は,葛野への導水にあったと考えるからである。保津峡の亀岡盆地の入り口付近(請田口)は,硬岩存在ゆえの滝または早瀬があって,葛野は渇水年には稲作が困難な状況であった。それゆえ,葛野の灌漑のために,請田口の滝(硬岩)開削が必須と考えられ,実際に実現されたと思うのである。そして亀岡盆地側からすると,盆地底が干拓されることになり,耕地と生活地上圏拡大という結果になったと思われるのである。 古代タニハ「丹の海」とその排水プラグを 地形発達史から復元: Part 1 「丹の海」復元 (教養) 木庭元晴(著) 形式: Kindle版   さて,この葛野の領域がそのまま,研究対象にはならない。そこから,保津川による灌漑域を想定することになる。 1. 山城国葛野郡の範囲  根拠は次の引用の次に示す。 ——— 引用〜山城国葛野郡の範囲(GeminiPlus)古代律令制下の山城国葛野郡(かどののこおり)は、現代の地図上で見ると京都盆地の西北部エリア(京都外盆地西側および右京区・西京区を中心とした地域)に該当します。 地図上の主な範囲 現在の行政区画に照らし合わせると、以下の地域が概ねかつての葛野郡に該当します。 地形・河川による四方の境界目安 引用〜おわり ——— ——— 引用〜山城国葛野郡範囲の根拠(GeminiPlus)『和名類聚抄』(和名抄)(平安時代中期/源順 編) 『延喜式』神名帳(平安時代中期/延長5年・927年成立) 『日本書紀』・『続日本紀』・『日本後紀』などの六国史 引用〜おわり ———  さて,

第12回古代丹波歴史研究会と懇親会に初参加 enjoyed the 12th seminar and the reception of ancient tamba history research institute 

はじめに  昨日(2026年9月19日),宮津市の「みやづ歴史の館」文化ホールで開催された第12回古代歴史研究所の2026年セミナーと,その後,近隣のミップル5Fの「山海屋」の懇親会に参加した。カローラで,箕面グリーンロードを使って423号線沿いに亀岡盆地に出て,京都縦貫道の亀岡ICから宮津天橋立ICまで,そして宮津市営立体駐車場まで。11時過ぎに出発しなんとか会場まで1時半開演の時間に間に合った。園部を過ぎてからは一車線である。追い越し車線がいくつか設けられているがリスキーであった。  5時半から7時すぎまで懇親会に出てノンアルコールビールを飲んで,立体駐車場から出たのであるが支払額200円だった。5時間無料である。途中,「道の駅 京丹波味夢の里(京丹波PA)」に寄ったこともあって,帰宅は午後10時前だったか。道の駅でソフトクリームを食べようしたがすでに閉店していて,土産物センターで峰山高校が作ったきなこクリアイスを食べた。食べ慣れたここのソフトクリームよりも美味しかった。宿泊も考えていたが,連休開始日ゆえか一泊5万円を超えるものしかなかった。ジャランと楽天サイトでの検索である。懇親会で隣席した大阪市から参加された歯医者さんは4500円の宿に泊まるということであった。ぼくの世間知らずが暴露されたことではあった。  このようなセミナー参加は初体験であった。発表者の一人の出口三平さんの案内で参加することになった。講演者は全四名で,三平さんにお願いしてぼくの丹の海の論文の抜き刷りをお渡しすることができた。この研究会の丹波と繋がっていると考えたからである。四人目の発表者の伴とし子さんからは丁寧な対応があった。 1. みやづ歴史の館とクロマツ  台風25号の影響か,うす曇りであった。  この埋立地の開発時期からすると,図1〜4のクロマツはかなり若い。(2年苗+5年植林)生ぐらいか。この「みやづ歴史の館」は2000年9月に開館しているから,2000年頃の植林のあと,なんらかの問題があったのではないかと思われるが,もちろん,新たにクロマツを植えようとなったのかもしれないが,成長したら眺望は失なわれるかもしれない。  入館の際には開演ギリギリだったので気づかなかったが,玄関に入ってすぐに,枯れた老木の断片が展示されていた。倒木(26m高)だったようだ。小女郎(こじょろう,化女狐)の松と称していたようだ(図7)。名前があった。 2. 研究会と懇親会と  【研究会】古代丹波歴史研究所 2026・第12回研究会に掲載されているプログラムから次に。 講演1「穴穂部間人皇女と東漢直駒はなぜ丹後に逃れてきたのか〜ヤマトを構成する三つの王家の再統合と内紛〜」 関 裕二 氏 歴史作家、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。『蘇我氏の正体』『藤原氏の正体』ほか著書多数。千葉県生まれ。東京都在住。 講演2「古代丹波史に絡む大本・出口王仁三郎の世直し世界」 出口 三平 氏 1946年佐賀県生。京大文学部哲学科卒。1973年「大本」に入信。出口姓となり、教学部門で活躍。教団改革運動に関わり、王仁三郎提唱の「愛善苑」を同志らと再興。1997年以来組織から離れ、王仁師のいう「一人旅」を志している。現住所、綾部市。 講演3「丹後の古代地名」 斎藤 喜一 氏 1947年舞鶴市生。京都府連合青年団副団長の頃より郷土の若者を育てる側として、サイトを立上げ独学で地名、歴史を学び始める。丹後王国の根拠地や周辺の地名を調査。Webサイト『丹後の地名』マスター。 講演4「伝説と歴史の狭間〜ホムチワケ皇子を中心に」 伴 とし子 氏 大丹波王国(丹後王国)論を展開。著書『古代丹後王国は、あった』『ヤマト政権誕生と大丹波王国』『卑弥呼の真実に迫る』ほか。 友情出演 山﨑昭典のギターとカタリコトの歌。シャーマンシスターズ。  図10〜15は,講演風景である。  今回の四名の講演者のうち,伴とし子さんの発表が最もわかりやすかった。女性で比較的若い(1955生)ので声の通りが良いこともあった。聴力が落ちている僕にとっては男性高齢者の声はすごく聞きづらい。文系の発表者の手順はぼくは好きではない。老婆心ながら,発表の基本を次に示したい。  パワポが用意されているはずなのに,発表の進行過程でパワポが適切に使われていなかった。別にホワイトボードが捕捉的に使われたりもしたが,それはほぼ読めなかった。文系の発表は紙のレジュメもあるので,紙中心に進めて,画像などが必要の場合にパワポでも提示して,手先ではなく指示棒や電子ポインターを使用すべきだろう。発表者がその手先で指示しても,聴衆の目線とは無関係である。この頃,NHKでも指示棒を使わず,どこを指しているのかわからない。変な時代になった。指示棒が視聴者の反感を招くのだろうか。 パワポで系図などが提示されてはいたが字が小さくて読めなかった。その系図がレジュメにはあっても,聴衆は話者の論理をしっかりとは追えていないので,聴衆の誰でもがはっきりと読める大きな字で示し,指示棒で場所を特定しなければならない。  パワポでは,ロジックの要点だけを大きな字で!だらだら文章表現をしない!  図15は,伴とし子さんの若い仲間による伴とし子作詞の歌謡ショーである。舞台中央に伴とし子さん,周囲の若者?は伴とし子さんがリクルートした人たちである。皆嬉しそうに歌って踊っていた。こういう世界を作り出したのは,言うまでもなく,伴とし子さんである。  懇親会では写真撮影していない。懇親会全出席者が挨拶できた。遠方からの人々が結構多い。地元からは役場関係にからむ人々,伴とし子さんのサポーターなど。セミナーの受付や会場で動画や写真を撮影する人々も,当事者意識が強い。誰かに動かされているのではなく,自らの仕事として動いているかのように感じた。  関係者でない方々の挨拶から,歴史好きを強く感じた。ぼくは鉄ちゃんではないが,鉄ちゃんの集まりって,こんなのじゃないかなあ,と感じた次第である。多数は伴とし子さんファンで次に関裕二さんファン。ほかに,近所にこんなもんがあって,絶対に歴史的意義が大きいとか,小さい時からいろんな場所に何かが潜んでいるように思えて斉藤氏の丹後地名辞典はバイブルだったとか。自らをアッピールする場と考えている方々も多数。  今調べてみると,斉藤さんは,ウェブサイト「丹後の地名」の運営をされているようだ。 ——— 引用〜GeminiPlusから 旧丹後国(舞鶴市・宮津市・京丹後市・伊根町・与謝野町)および旧丹波国の一部の地名・集落名・伝説・社寺について、あいうえお順で網羅的に考察・解説を掲載しています。累計アクセス数が800万回を超えるなど、地域の歴史研究者や住民の間で広く参照されているデータベース的なサイトです。引用〜おわり ——— 3. 伴とし子所長  セミナー参加費は2000円である。それに図16のものが付いていた。天(あま)のかけはし,の奥付を見ると,古代丹波歴史研究所所長 伴とし子,2024. 天のかけはし・倭国の源流 タニハ ー古代丹波歴史研究所10周年記念誌ー,多島海社(代表 水野孝典). 税別1500円。  CDロムの書誌は,伴とし子,2021. 卑弥呼の祈り永遠(とわ)に. ℗2021 Studio Farm made in Japan.著作権は判とし子,原盤権はStudio Farm。税込1000円。 おわりに  図16に示したお土産は,当日本タニハ文化研究所に保管しようと思う。伴とし子さんの研究の流れはタニハ研究の本流ではないかと感じた次第である。 父は王仁三郎研究の流れである。三平さんと同じだ。  ぼくも残された時間で,自らの方法論を使って,タニハ研究方面でもいい仕事をしたいと思っている。アマゾン検索窓で「木庭元晴」と入力していただければありがたい。当ウェブサイトにも断片的なものを積み上げている。大作はほぼできていて,後に公開したい。 なお,この旅は図17のように200km余りであった。 以上,2026年9月21日更新。

羽蟻がティッシュ箱に attracted to white: flying ants found in a tissue box

はじめに  暗くなるまで外で草を刈っていた。居間にしている部屋の天井灯はつけっぱなし。居間に入って,テーブル上のティッシュペーパー箱のなかに複数の蟻が見える。ティッシュを蟻ごと取り出しても,まだティッシュに蟻がいる。八月十七日のお祭り後の掃除ができていなくて,外から侵入したと思ってテーブルの周りの畳の上を観察すると蟻道のようなものが見える。掃除機を取り出して畳を掃除して,テーブル上を観察すると,電動歯ブラシの純白のケースにも蟻が集まっている。他のものには蟻はいないようだ。  汗だくなので着替えようとして洗濯したブラウスをテーブルの上に置いていたために,これにも蟻が。パンツ一丁になったが,肌に蟻がひっつく,背中でも這っている。テーブル上を片付けて,雑巾でテーブルを繰り返し拭いた。かなりの蟻がひっついている。マイペットを入れたバケツ水で繰り返し雑巾を洗った。テーブルは外側から内側に渦を巻くように拭くことを繰り返す。その後,テーブルを立てて,周辺や裏側を拭いた。  一応完成したと思ったが,畳にまだ蟻が蠢いている。明らかに大きな女王蟻をみつけて,写真を撮ろうしたが逃げられたら困るのでティッシュで潰した。ティッシュ箱は丸々ポリ袋に入れてゴミ箱に捨てた。テーブルを戻して,天井灯の光で透かして見るとまだテーブル上を蟻が蠢いている。また雑巾で拭く。これを繰り返した。畳も見ると数匹の蟻が。  こんなことで1時間以上,パンツ一丁で作業をした。そしてこの羽蟻が外から飛んできたことを理解した。木製の網戸なので2枚の網戸の間に隙間がある。ここから侵入したのだと考えた。 1. 蟻を撮影  やっと,パニックめいた気持ちから平常心に戻ることができた。バッグの手提げ付近に一匹が歩いている。やっとiPhoneカメラでヴィデオ撮影した。それが,次のものである。  これは,iPhoneで撮影した動画を写真アプリとQuickTimePlayerアプリで簡易編集,で得たものである。「左の文字「羽蟻range_time_trimmed」をタップすると,このページ上で再生することができる。右の「Download」のボタンをタップするとmovファイルがダウンロードされる。再生時間は14秒。ぼくのバッグの上を羽蟻が歩いている。バッグのメッシュサイズはほぼ1.5mm。」 2. キイロシリアゲアリYellow Crematogaster Ant  この動画ファイルを添付してGeminiPlusに質問したら,キイロシリアゲアリだという。ネット検索すると,ヒアリと間違い易いとか,害虫駆除会社と繋がる。  GeminiPlusさんによればシロアリではないので安心とか,女王アリを殺したから,もう大丈夫,安心せよと。 ——— 引用〜GeminiPlusさん  この羽アリは、体長約2〜3mm(新女王アリは6〜7mm)、全体が淡い黄色〜黄褐色をしている特徴から、キイロシリアゲアリ(の有翅虫)と判断できます。木造建築を害するシロアリではなく、クロアリの仲間です。 キイロシリアゲアリの生態と発生時期 今すぐできる・今後の対処法 建築物に被害を与えるシロアリとは異なり、発生は一時的な風物詩のようなものです。数日〜1週間ほどで結婚飛行のピークは収まりますのでご安心ください。 バッグの生地の目が約1.5mmという基準で見直すと、虫の大きさは2mm以下(1.5mm前後の超小型)ですね。 一般的な網戸の網目は標準的なもの(18メッシュ)で約1.15mm〜1.4mmですので、体をすぼめるようにして網目を直接すり抜けて侵入してきた可能性が極めて高いです。 女王アリを含めて掃除・駆除を済まされたとのこと、手早いご対応でお見事です。 網戸を抜けてくるほどの微小な羽アリに対しては、発生シーズン中(9月中旬頃まで)以下のような対策が有効です。 女王アリを駆除したことで、室内で新たに巣を作られる心配もありません。発生のピークは数日〜短期間で落ち着きますので、どうぞご安心ください。 引用〜おわり ———  安心できた。網戸の目が粗く,網を潜って侵入したらしい。「より目の細かい網戸(24〜30メッシュ等)への張替え」は検討事項だ。木製の古い網戸なので,アルミサッシのように単純ではない。 以上,2026年9月14日記。

日本の世界的使命と人類愛善運動 Japan’s Global Mission and the Movement for Universal Benevolence

はじめに  父木庭次守の投稿した原稿のコピーを,一昨日(2026年9月7日(月)),未整理資料の山からみつけた。おそらく『おほもと』誌ではないか。依頼原稿である。まずはこれをテキスト化して,その後,人類愛善運動と皇道運動などについて考えたいと思う。さて,,原稿の最後に,昭和五十五(1980)年十月二十五日記,とあった。同封のぼくの手紙に同封されていた地理学評論の抜き刷りも同年発行であった。ぼくが博士論文に取り組んでいる年である。  書き出しには,「本会の初代総裁出口王仁三郎聖師は」と続くので,大本愛善会または人類愛善新聞に掲載された原稿のようにも思えるが,「おほもと」誌での特集を構成する論文の可能性もある。  かなり大きなテーマであるが,ぼく自身の学びの導入としたい。なお,木庭次守の原稿には章番号などがなく,追加してわかりやすくと思っている。  開祖の大本神諭と聖師の霊界物語には,ぼくが『』を挿入している。なお,助詞などの使用に対してぼくに違和感がある場合,変更している場合がある。本論文の構造が明確になるように一部,章立てについては工夫している。原稿には見出しの上下が明記されていない。  なお,独特の文体である。以前,国立国語研究所から連絡があり,父の文章をデータベース化したいと。了解の旨,文書で伝えた。  なお,次のテキストでの( )はぼくの注記である。 1. 日本の世界的使命と人類愛善運動 by 木庭次守 第1章 三様の日本国  本会の初代総裁出口王仁三郎聖師は「日本国の意に三様あり。大宇宙を大日本と呼び,全地球を中日本と呼び,日本列島を小日本と呼ぶ」と教えられている。それは宇宙創造の構造であって,宇宙の創造神は,大宇宙と地球と日本列島を同型に創造されたというのである。大宇宙と同型に日本列島を創造し,日本列島を雛形として全地球上の大陸を想像されたと続くのである。  葦原の 中津国の 日の本は 紫微天界の 固まりなりけり 日の本と いへど地上全体の 葦原国の 称えなりけり 日本列島はじめ全地球は,実は,神の理想世界である紫微天界の理想の凝固したものであると説くのである。  神の紫微天界そのままに,全地は移写して創造されたものと説示している。 <日本国の使命>  総裁は重ねて白う(「白う」は「告げた」の意)。「地球上の生民(せいみん)=人種民族は,生まれた土地で得たものを使って自給自足すべきものである。世界の各国土には,それぞれの,国魂神がましまして,守護される。」 従って,国土にふさわしい生民に使命天職があるというのである。  日本国は天国の理想世界をそのまま具現したものである。従って,日本国の使命は大祓祝詞にある如く,「豊葦原の瑞穂国を安国と所知食(しろしめす)」すなわち,全世界の治平(ちへい,太平)にある。世界各国の治国安民の使命がある。『大本神諭』に「世界の天災も戦争も日本の人民の改心ができぬからであるぞよ」と啓示されてある。  日本人が天賦の使命を自覚して,第一に日本国に理想世界を建設し,つづいて,世界全体に治国安民の経綸を伝達して,自給自足の国家が建設される様に,進めることである。 第2章 神示の指導原理  世界中が今日,求めているものは,新しい指導原理である。すべての宗教教祖も,政治理念も,経済機構も,悉く野蛮至極のものであることが,(それぞれの指導原理)実行の結果,露呈した今日である。世界中の指導者が真剣に求めているものは,大宇宙の法則に合致した指導原理である。  日本国日本人の使命は,『古事記』に潜(ひそ)められた「邦家の経緯(ほうかのけいい),王化の鴻基(おうかのこうき)」である。宇宙創造の根本原理である。大本教祖,出口直子刀自,出口王仁三郎聖師が,幽の幽の神の啓示をうけて伝達した,『大本神諭』,『霊界物語』こそは,『古事記』神文の「本教」である。その内容は,宇宙の真相と人生の本義を解読し,世界各国の経綸を示されたものである。  日本国,日本人の使命は第一に,惟神の大道である。「本教」の研鑽である。  日本人は第一に,『大本神諭』と『霊界物語』を研鑽して,日本人自身が神子神孫の資格を備えることである。そして,第一に日本の社会をして,天国に化す努力をすることである。神示の理想世界を実現しつつ,人格の完成した人たちを世界各国に派遣して,世界の指導者に,新しい指導原理を伝達することである。国家社会づくりに助言することである。これこそ人類愛善の実践である。 <経済立て直しへの助言>  新しい指導原理の一部であるが,崩壊する財政立て直しの方法へ,いち早く世界各国に伝達して,先ず,財政的の危機を救うことである。 <日本の跡をふむ世界>  聖師は,「これからは日本のあとを踏む世界」と染筆されている。明治二十五年国祖国常立尊御再現以来,日本は,世界にさきがけて地球上に,神意に従って樹立される経綸の中枢となって動き出した。和光同塵の世の了りをつげて,五六七(ミロク)の神代に突入した。  王政復古によって,天皇の御名によって,日本建国以来はじめて,統一された。参照: 『霊界物語』第64巻上の第5章 至聖団。  明治維新には問題点もあるが,神意にもとづくものである。明治はまさしく,日月ならび治る年となった。(「明」は日と月からなる) 殊(こと)に(明治)二十五年からは,十が二つ出現する謎が実現され始めた。(開祖の言葉からだろう)  『大本神諭』には,地上天国建設のプログラムの大綱が示されている。この大予言は,着々と実現した。日清戦争,日露戦争,第一次世界大戦,第二次世界大戦,終戦まで明示されている。  『霊界物語』には,数万年先まで明示されている。すなわち,本格的に神代が樹立されるプログラムはもとより,その継続まで,詳細に示されているのである。  人類愛善運動は,以上の地上天国実現の大要を紹介するものである。すなわち,新しい指導原理の存在を宣伝する運動である。  愛善の 道は宇宙に みちみちて 神の国を あかしいるかも 愛善の道とは,神による新しい指導原理である。愛善運動はこの道を紹介する運動である。  世界中の出来事は,悉く,先ずは大本教団にあらわれ,第二に日本国に移写され,第三には世界に実現するという。一口で言えば,世界中,日本の跡を踏んで,地上天国が実現されるのである。 <大掃除と正月>  例えて言えば,世界中の大掃除大洗濯,立て替え立て直しが必要である。日本の建て替えは,飢饉,病気,戦争の小三災(せうさんさい)で行われると示されたが,第二次世界大戦中のものは日本国内ではまさしく,その通りであった。  世界の立て替えは大三災で行われるという。風,水,火(天災地変のこと)である。いつまでも反省せず今日の状態を続けたら,天使たちはいかなる快挙に出られるかも知れない,天災地変による見せしめは恐ろしい,とある。人類が(できるだけ早く)改心して,これは是非御免を蒙りたいものである。早く大掃除を済まして,ミロクの世,地上天国の御代をお迎えしたいものである。  掃除は,床間(とこのま)を丁寧に掃除し,次いで座敷を箒で掃き,庭先は竹箒で強く清掃する。日本は床間だから,穏やかに済まされた。中国は座敷だから,少し手荒に実行される。中国の周囲は庭先のために,竹箒が使われている。指導者の改心ができれば,大難も無難となすこともできる。『大本神諭』に,「上の人民ばかりでない。下の人民も心が汚い」とある。一般の人民も心を清く持たなければ,本当の天国は地に降らない。 <世界を救う使命>  日本人が神の子たる自覚をして,弱小国,後進国を助けることが大切である。経済大国とまで言われる日本の人々が動く時は,必ず,相手に幸福と平和を分たねばならない。欧米先進国は弱小民族や国家を搾取したが,日本は決して行ってはならない。 <敵愾心を取り去る>  真の平和の実現のためには,敵愾心を取り去ることである。明治維新にあたり,統一せられた日本人の間から,敵愾心が排除された如く,異なる宗教国間や人種間の敵愾心は根本的に取り去られねばならない。   人類愛善の大旗を掲げて,世界中から,根本的に敵愾心を取り去る運動に徹することである。 <世界の国民生活の改善>  世界史の上でも,名君といわれる人たちは国民生活の安定をもって,政治の眼目とした。日本の世界的使命は,国内での国民生活安定の確立だけでなく,世界中の後進国の国民生活が安定するように助力することである。 <万教同根>  今日まで,世界の人種民族を精神的に支配してきたのは宗教である。宗教家の間,教団の間の敵愾心が戦争の原因となっている。敵愾心を取り払わずして平和は訪れない。万教同根の真理を各宗教家,各教団に伝えて,敵愾心を取り去ることが最も大切である。  日本人は,世界で最も文化全般への理解者である。宗教についても最も寛容ある理解者である。神道,儒教,仏教,キリスト教,ユダヤ教,回教などの理解者である。日本人こそは万教同根の最も良き理解者である。日本人が立ち上がる時は,世界中の宗教との交遊連絡によって,宗教上の敵愾心を世界中から取り去ることができるのである。日本人は平気で神像も仏像もキリスト像もマホメット像も礼拝できるが,それはその使命が日本人に付与されているからである。  日本人には,あらゆる方面で世界にまたがって,物質面・精神面の両面にわたり貢献すべき使命がある。 <国常立尊>  言霊学から見ると,国常立尊は,国=世界各国,常立=天壌無窮,万世一系,尊=神勅,を意味する。国祖国常立尊の神勅が『大本神諭』である。これは,天祖にます天照皇大神,伊邪那岐神,伊弉冉神の大神勅をそのまま伝達されたものである。日本人はこれを自覚し,地球上最も火と水と土に恵まれたことを知覚しつつ,日本の国土に地上天国を築き,その余力をもって,世界各国の繁栄のために活躍しなければならない。これが日本人の生き甲斐になり得るのである。 <日本人の肉体>  人類学からも日本人という人種を設定する必要があるほどに,日本人の肉体は恵まれている。(現代の人類学では,日本人は遺伝的文化的にまとまりのある集団として捉えられている。)寒帯でも熱帯でも活動できる能力を持っている。多産にして優秀である。この肉体と優秀なる頭脳により,世界の平和,人類の幸福に貢献すべき天賦(=生まれつき持っている才能)をもっているのである。それゆえ日本は,世界中の民族と人種を独立させ,自給自足させるために大いに活躍すべきなのである。 終章  『大本神諭』に「日本の人民三分になるぞよ。七分は外国にやるぞよ」とある。日本民族の三分は日本国土に定住して神業に奉仕し,七分は世界各地に移住してその民族を助けて,その国土を天国に化すべく奉仕しなければならない。 昭和五十五年十月二十五日記 2. 木庭次守論文について  日本人を選民としている。日本を世界の中心としている。このような世界観は,戦前には,確かにあったのである。そして,この文章が書かれた頃は,日本が敗戦からの急激な復興さらに発展を遂げた時代であった。戦前とは違うが,日本人としての自身または自覚が父だけでなく,社会にあったのだと思う。  さて,開祖=出口なおの予言は当たった。王仁三郎の予言も当たった。1935(昭和十)年の第二次大本事件で,青年木庭次守は郷里熊本およびその周辺で布教活動をしていて,事件の取り調べに対して「協力的でなかった」ためか,京都市中立売書に護送されることになった。この青年は長大な『霊界物語』をほぼ暗記し尽くすまでに学んでいたので,推薦と求めに応じて弁護資料のうち,教義について,資料を作ることになった。  世界の指導者の指導しうる宣伝使(キリスト教の宣教師にあたる)を世界に派遣して,世界を救うという観点は,王仁三郎の『霊界物語』にある。その免許皆伝書が『霊界物語』なのである。父から聞いたことである。  世界の指導者が改心すれば,その地が救われるという観点は,ヨーロッパなどにもあったかも知れない。朱子学もそれに類するものかも知れない。江戸時代には,朱子学が積極的に取り入れられた。古くは『日本書紀』や『続日本紀』にも類する考えがある。  人々を救うには,世界の指導者が改心すれば済むという,観点そのものが,今や疑問と言わざるを得ない。ぼくも父から『霊界物語』を読むように言われて,時々,読み進めてきた。それを理解することも多少可能になった。予言書である。それをぼくなりに発見してきた。  父の『霊界物語』の表向きの解釈がこの論文に繁栄されている。一般人に理解してもらうことが前提になって論を進めている。しかし,今や,一般人に,もうこの方向で理解してもらうことは難しいであろう。 3.追記:ドナルド・トランプ旋風からすると  前章の記述の流れいわば社会科学的分別のような臭いがある。実世界は,現状のドナルド・トランプ旋風から学ぶ必要がある。アドルフ・ヒットラーしかり。プーチンしかり,習近平しかりである。事実,独裁者が法を破り,平気で嘘をつき,国民を支配している。ちょっと気に入らない者がいたら故なく首を切る。擦り寄る者には席も金も与える。USAのような勢力が拮抗する二大政党的情況であっても,独裁的体制は可能なのである。  大衆煽動者が独裁者になりうる。このように考えると,指導者を改心させるというロジックは必ずしも荒唐無稽ではない。父から聞いたことがあるが,宣伝使が指導者を改心させるのではない。その背後に天使がいて,神がいる。そういうことだ。父の論文にはそのような表現はない。『霊界物語』ではそういう世界が描かれているのである。 4. 人類愛善新聞記事の例  戦前と戦後の新聞の具体例を今後示したいと考えている。 戦前の例:昭和九年四月二十三日号, 戦後の例:昭和三十五年四月二十一日号。 他のテーマでの研究を優先するため,ここで擱筆ではなく,中断したい。いつ戻れるかとは思うが。 以上,2026年9月11日。    

亀岡市1万分の1地形図『埴生』 1:10,000 Topographic Map of Kameoka City: “Habu”

はじめに  昨日(2026年9月7日),草刈りを中止して,資料整理を始めた。亀岡市1万分の1地形図『埴生』があった。他の同梱物の一つの新聞の抜き刷りの日付からすると,これは1972(昭和47)年頃に父が亀岡市役所で得たようだ。タニハの開所は,1974(昭和49)年10月18日だから, ほぼ二年前のことだ。工事開始直前にあたる。  当時の1万分の1地形図は,この頃発行が始まった二万五千分の一地形図よりも精度は高いとは言えないようである。父がこれを取得した頃はまだ新しいこの地の二万五千分の一地形図は発行されていないのだろう。 1. 『埴生』図幅  図1の市役所職員のメモからすると,『埴生』(はぶ)図幅になる。メモでは「図副」とあるが正しくは「図幅」(ずふく)である。図2のインデックスの4番にあたるが,この範囲は不思議なことだが,かならずしも亀岡市にはあたらない。このインデックスの範囲は何なんだろうか。図4のように,中世の埴生(はぶ)城がある場所にあたり,前の船井郡園部町,現南丹市に位置している。発行年月は図2の地図枠の右手に見えるように,1968(昭和43)年11月である。  図3には×印がある。父が記した日本タニハ文化研究所の設置予定場所である。等高線間隔は10mで設置予定場所は谷壁の狭い水田域であったことがわかる。×印の南西部には農業用溜池がある。この南西に伸びる谷筋を上流に辿ると355.9mの標高点をもつ山塊がある。この谷筋こそ,原谷だろう。タニハの住所は亀岡市本梅町平松原谷の由来になる。  埴生は,「はぶ」と読む。埴生城は,はぶじょうと読む。「神尾山城」の支城のようだ(図4)。奈文研のデータベース(図5)や日本歴史地名大系26『京都府の地名』(平凡社,1981: p. 452)では城主の名をとって野々口(ののぐち)城と呼んでいる。江戸時代の史料では埴生村・大谷村付近は本目(ほんめ)と呼ばれていたと同大系に記されている。図5の最も大きなオレンジ色で塗られた場がその城跡でこの北側が埴生村の集落域で,図5の中央を南東流する川は現本梅川にあたる。本梅川沿いの一般国道は372号線である。「本目」地名は埴生付近から由来したようである。なお,「埴生」地名は土器(埴輪)の材料になる土の産地を意味している。 以上,2026年9月8日。 2. 亀岡市域の地形図について  5万分1,2.5万分1地形図の新旧緯度・経度対照表(索引図:京都及大阪)には,図6が示されている。図2の1〜7の区画は図6の地形図区分とは異なる区分になっているようであるが,この図6と図2のインデックスを比較対照して,図2のインデックスが亀岡市域をカバーしていることが明らかとなった。亀岡市域は,図6の二次メッシュである2万5千分の1地形図の図幅名称でいうと,行(緯線方向)単位で北から南へ,殿田,埴生,亀岡,京都西北部,妙見山,法貴,京都西南部,高槻,の8図幅,にまたがっているのである。  2万5千分の1地形図『埴生(はぶ)』図幅が初めて生まれたのは,1920(大正9)年測量(初版)で,ぼくが知っているカラーが使用された2万5千分の1地形図は,1978(昭和53)年7月資料修正・改刷(昭和50年代の主要な部分修正版)にあたるようで,これが発行されておれば,父は京都駅北の東本願寺の北隣の小林地図でこれを購入したことであろう。小林地図はすでに現在,解散している。ぼくも帰省すると学生時代よく出かけたものである。 3. 地名「本梅」の由来  日本歴史地名大系26『京都府の地名』(平凡社,1981)でみると,「本梅町」も「本梅村」も存在しない。  本梅村(南桑田郡)の成立は,1889(明治22)年4月1日(町村制施行に伴い、西加舎村・東加舎村・井手村・平松村・中野村が合併して成立)である。そして,亀岡市発足に伴って昭和30年(1955年)1月1日には本梅町となった。  さて,「本梅」地名の由来が気になるところである。上記地名辞典にはなぜ「本梅」がないのか。この辞典の「全巻の凡例」の六(ページ凡例4)には,次の記述がある。 ——— 引用〜全巻の凡例の六 近世には,全国に約六万五千の村々が存在した。その村名の多くは今日まで,大字名として残っている。本大系はこの近世村が基本的な行政単位として分布していた事実に基づき,これを過去と現在をつなぐ最小の地域項目として,全国一律に採用した。項目名は,全国の村名を網羅する天保郷帳を一応の基準とし,地域によってはより妥当と思われる資料によって修正することを原則とした。引用〜おわり ———  国立公文書館デジタルアーカイブの,丹波国郷帳を参照した。辞典に掲載された郷名は必ずしもこの郷帳の順ではないが,辞典に掲載された郷に対応している。亀岡市については,平松村などは存在するが,「本梅」は見られない。  上記のように,明治の本梅村は天保時代の5郷から構成されており,新たな名称「本梅」村が創出されているのである。「本梅」(ほんめ)は「本目」(ほんめ)に由来するのは確かなことであろう。父から,ある時,ポツッと,「本梅は元は本目と称した」と言っていた。それを受けて,漢字の確認などしたが詳細は覚えていない。  『国語大辞典』(小学館1981,p. 2213)には, ——— 引用〜本目網(ほんめあみ) こま結びによる結節によって網目を構成する網地。またそれを用いた魚網。引用〜おわり ———  とある。本目(ほんめ)は,網地の結節の一種。細結(こまむす)びによる網目。編みやすく,結び目がかさばらない,という。前述のように,「江戸時代の資料では埴生村・大谷村付近は本目(ほんめ)と呼ばれて」いたそうだが,何故そう呼ばれていたかはわからない。図5には周囲を河川に囲まれた丘陵が見える。こういう地形は環流丘陵と呼ばれているが,上流からの河川がまとまって合流する結節点を評したものかもしれない。 AIさんに相談すると次のような推定があった。 ——— 引用〜「本梅」地名 明治22年(1889年)の町村制施行に伴い新設された「本梅村(ほんめむら)」の名称は、自然発生した単一の地名ではなく、明治の大合併時に新しく作られた合成・佳名地名です。 名称の成り立ちには、主に以下の要素が関わっています。 また、この地域を貫流する本梅川(犬飼川の上流部)の名も、自治体名である本梅村に由来するか、あるいは川の旧称・地域呼称にちなんで村名が採られたものとされています。引用〜おわり ———  AIがどこからか引っ張ってきた情報である。「江戸時代の資料では埴生村・大谷村付近は本目(ほんめ)と呼ばれて」いたことについての言及はない。河川名はそれぞれの地域で別の呼称があったと思うが,河川の結節点としての本目という地名から本目川が生まれ,埴生周辺が水運の中心的役割を果たしていたのであれば,呼称「本目川」が現在の本梅町でもそう呼ばれていた可能性がある。  「本目」から「本梅」への漢字表記の変化についてはわからない。音は「ほんめ」で変化がない。さて,またAIさんに質問した。その回答を次に。 ——— 引用〜本梅を「ほんめ」と発音することに対する違和感は 関西弁(近畿方言)の音律や撥音化の観点から見て、「ほんうめ(Hon’ume)」を「ほんめ(Homme / Honme)」と発音・表記することに違和感はまったくありません。 むしろ、地名としての歴史や方言学的な変化の流れに非常に適った自然な発音です。 1. 関西弁における「N + U」の撥音・連声現象 関西弁をはじめとする日本語の音韻変化では、「ん(n)」の後に母音「う(u)」が続くと、音が引き寄せられて融合・撥音化(または連声化)し、「ん・う(n-u)」が「む(mu)」や「め(me)」に変化する現象がよく起こります。 2. 実際の地名・行政名の読み 現在、亀岡市の「本梅町」や旧「本梅村」の公式な振り仮名は「ほんめ(Honme / Homme)」となっています。 つまり、「Hon’ume(ほん・うめ)」と真面目に一音ずつ区切って読むよりも、関西の地元で日常的に発音されて定着した「ほんめ(Homme)」こそが正式かつ自然な標準の読みとなっています。 ですので、「ほんうめ」と書かれていても地元感覚や関西の発音で「ほんめ」と読むのは、ミスではなく極めて理にかなった読み方です。引用〜おわり ———  まあ,本梅町を「ほんめちょう」と呼ぶ違和感はぼくにもなかった,のではあるが。さて,誰かが「本目」を「本梅」と表記して,それが気に入られた可能性は高いとは思う。  地形図『埴生』図幅との出会いから,「本梅」地名の由来に及ぶことになった。 4. 図幅名として『埴生』が何故選ばれたか  AIさんに聞いてみた。次の回答はすごく納得できるものであった。そして,本目川という名称はこの下流域にも浸透していたと解することができるのではと思った。 ——— 引用〜図幅名『埴生』 国土地理院(旧・陸地測量部)が発行する1/50,000地形図「埴生(はぶ)」図幅(亀岡図幅の西隣)において、主要な城下町や集落ではなく「埴生」が図幅名として選ばれた背景には、当時の陸地測量部による図幅名の選定基準と、当地の地理・交通上の位置づけが関係しています。 1. 交通の要衝・山陰街道の宿場(立場)としての知名度 埴生(現・南丹市園部町埴生)は、古くから京都と山陰・摂津(能勢・池田方面)を結ぶ山陰街道(摂丹街道・西国街道への分岐点)の要衝でした。 2. 陸地測量部における図幅名選定の規則 明治から昭和初期にかけて陸地測量部が5万分1地形図を整備した際、図幅名には以下の明確な命名優先基準がありました。 「埴生」図幅の範囲は、東側が亀岡市西端(旧本梅村・東本梅村)、西側が篠山盆地東縁、北側が船井郡(旧西本梅村周辺)に跨がっています。この矩形(図幅)のちょうど中央付近に位置し、街道上の拠点として存在感があったのが「埴生」でした。 3. 「園部」や「篠山」が選ばれなかった理由 その結果、亀岡図幅と篠山図幅の間に位置するこの地域の図幅名として、地域を代表する街道上の中心集落であった「埴生」が最適として選定されたという経緯があります。引用〜おわり ——— おわりに  父が購入した『埴生』図幅から「本梅」地名の由来に及んだ。大阪都心の梅田は,もとは埋田であった。湿地帯そのままの地名であったが,字面の悪さを避ける江戸時代の地名選定意識(好字化)によって生じたものという説がまあ妥当だろう。本目から本梅への好字化は,記録される地名としてはなかったのであろうが,江戸時代には音として普及していたのかもしれない。隠語表現として「本目(ほんめ)」という表記を用いれば、「サイコロの出目」「賭場での真剣勝負・本命の目」といったイメージを十分に想起させるため,農村で普及していた博打的用語が忌避された可能性もある。さらに,野々口城から本目地区をみると,河系の集まる交通の要衝であり,軍事的観点で本目と呼ぶことは大いにありえたと思う。中世からそう呼ばれた可能性が高いと思われるのである。 以上,2026年9月9日。2026年9月11日修正追記。

夏の終わりから:草木にたちむかう As Summer Fades: Taking On the Overgrowth

はじめに  繰り返す作業です。いつまで可能なのかわからない。メンテができなくなれば,次の写真どころではない。 1. 玄関先と道路沿いを粗っぽく 2026年9月5日  車の通行を阻害するほどではないが多少その兆候が。  特徴的な植生を次に。シンテッポウユリ(図5)が最も可憐で鳥のフンから発芽したものであろう。ヌスビトハギ(図6)のひっつき虫は厄介ではあるが花は可憐ではある。図7のキレハノブドウの茎は太くそのツルの成長速度は雑草のダントツではないだろうか。ヨウシュヤマゴボウの実で顔に赤く塗りたくった子供時代があって懐かしい。  気温は30℃ほどで落雷の心配もなく,出かけたのであるが,気力がもう一つで,粗っぽく通行の改善を図っただけではあった。  夕焼けだ。 以上,2026年9月6日記。 2. 刈り取った草の片付け 2026年9月7日  前日の天気予報では雨だったが,深夜にみると曇りになっていたので,タニハに出かけたが,途中雨が降り出してレーダー情報を見ると止みそうになく断念して,屋内での資料整理にかかっていたら,近所の知人の来訪。楽しく,「宗教」談義で時間を過ごした。  図14〜16に,再びシンテッポウユリ,ヌスビトハギ。ハゼランではない。  雨が降り始めて主に軒先で座って作業した結果が図18である。何とか,駐車関係のスペースは確保できたので,次回は駐車が可能になった。  資料整理を再開。父が亀岡市役所に出向いて取得した1万分の1地図情報に関連して,亀岡市1万分の1地形図『埴生』を新たに作成しつつある。 以上,2026年9月8日記。

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