恒例のタニハ祭 annual Taniha event
はじめに タニア祭の2026年現在のようすをちょっと。 1. お玉串の準備 2026年8月15日 暑いが何となく秋の気配を感じる。この時期が最もアカマツは元気で,玉串にも形のいい枝を採取できる。アカマツの上方への成長芯を伐るのが習慣になっている。天頂には虹がかかっていた。午後4時半ごろか。図5の伐った大枝は,図1と図4を比較すると,欠落した大枝にあたっている。 2. 玄関玉砂利の草抜き 2026年8月15日 日暮寸前にはじめて日が暮れて疲れ切った。玉砂利付近のみだ。明日はお祭りだ。 以上,2026年8月16日記。 3. タニハ祭と三十三年祭 長女は久しぶりに参加(写真は長女撮影のものを拝借),その次男は初めて参加。図8は玉串を作成するために,松の小枝に幣をつけているところだが,幣が松葉に配置されるべきことをを告げた。 お供えを運ぶ様子を図9に。大皿を両手で運んでいる。これまでは,まずは準備台で,三方の上に皿載せて,それに神饌を載せて,神棚に運んでいたが,神饌を乗せた三方のスペースがたらなくなるなどの不具合があって,先に三方を神棚に配置するようにした。 図10は大神さまの祭壇だが,長く三吉堂への特注大型の鏡餅を2枚✖️3セットお供えをしていたが,三吉堂が畳むことになって,そのまま,タニハも中止することにした。隅田さんの十五年間のあとのことだったように思う。 図10と図11にはお供えが見えるが,未完で,最上段に御饌神酒などは入った三方を四宮それぞれの御前に配置する。図11のように,隅田さん持参の大理石のテーブル上に父や一部の縁ある人の遺影も置いている。図12では長男夫妻とひろきがお祭りに参加できずご挨拶。 御饌神酒用の三方に定番の神酒容器(図16)は大きくて見かけは重厚感をもたらすのであるが,構造上,容器内の清潔を保つことは難しく,思い切って廃棄することにした。その代わり,グラスを使用することにしたのである。図13はそのグラスを抜いたあとの様子で,図14は棚の拭き掃除のちに,グラスを戻した様子である。上段左端に置いている。今後は日本酒ではなくて,ワインを気軽にお供えすることができるようになった。全部で6ヶ所の三方にそれぞれ1本ずつお供えすることにしたい。 図15はお祭り後の御饌神酒三方を戻したところであり,図17は神酒容器を廃棄してさっぱりとなったところである。大皿も左から,大神さま用,祓戸さま用,父用,に配置した。産土さま用の御饌(みけ)用の一皿が以前割れているので,小さな皿で誤魔化しているが。 昨日(2026年8月25日),さらに片付けを進めた。図18と図19のように,旧神棚(横町時代)コーナーを少し整理した。蝋燭を図20のカッボード下段から出して,それを図19のように棚に載せて,空いたところに日頃使う食器類を入れた。文具などと一緒にしていたので,いいアイデアだと思ったり。古い蚊取り線香の容器を整理した。大型が今流行っていて割安だ。スタンダードはColemanの携帯用で使うので相変わらず必要だが,大型を少し使ったものを使うと経済的である。図19に見える火打石と蝋燭はお燈用と蚊取り線香用と兼ねている。 4. 式次第 例年,悩むところなので,はじめて,式次第を作成することにした。出席者は9名。斎主出口三平氏。 5. タニハの神号奉称について おほもとのりと,には,天津祝詞の末尾に, の二柱が並ぶ。 タニハの大神さま神殿には,産土大神(小幡神社)を含めて,もともとは三つのお宮があった。図16には,神酒の容器の底のメモが見える。大大,祓,小である。これに,図16には見えないが,さらに大がある。つまり,大大,大,祓,小,さらに祖である。大大は大天守太神,祓は祓戸四柱の大神(等たち),小は小幡神社=産土の大神,なのであるが,大は何か。おそらく,惟神真道弥広大出口国直霊主命,である。なお,祓戸四柱の大神のお宮は大神さまの神殿の右の神殿に鎮座されていて,大神さまの神殿の左には木庭次守の神殿がある。この左手の神殿はもともと祓戸四柱の大神の神殿があって,右手の神殿は空っぽであった。 父の昇天ののち,この空っぽの神殿の前の廊下に臨時に棚を作って父をお祀りしていた。ある時,隅田さんと山崎さんにご相談して,配置上,上手にあたる大神さまの神殿の右手の空っぽの神殿に祓戸四柱の大神さまがお移りいただいて,跡地つまり向かって左手の神殿域に父をお祀りする神棚を移動することになったのである。御饌神酒の三方は計六個あることになる。隅田さんは木庭次守の土器かわらけに,祖と記されたが,ぼくがお願いしたのは祖霊ではなくて,あくまで木庭次守毘古であった。それゆえ,この関連の新たな土器には,木庭次守の意味でぼくは,木と銘打った。 さて,三代教主が昇天されて後に,タニハのお祭りに行ったら,お宮が一つ増えていた(図10)。右端のお宮は三代教主かと尋ねても回答がなかった。返事がないことはこれまであって,何に差し支えるのかと聞きただすことはしなかった。おそらく新たなお宮の誕生に合わせて,主という土器が増えたものと想像される。主とは主神(すしん)で瑞御霊大神(みづのみたまのおほかみ)である。「瑞」を王仁三郎作の讃美歌では「美都」表現されている。「瑞」は,「みず」ではなく「みづ」である。 父昇天,その後の隅田さん山崎さんの十五年間が終わって,ぼく一人になって,この四宮について考えることになった。左端の産土の大神を除く三宮について,この中央が大天守太神,右(大大から見て左)は惟神真道弥広大出口国直霊主命,左は瑞御霊大神(=王仁三郎,みずのみたまのおほかみ),と考えた。しかし,惟神真道弥広大出口国直霊主命の代わりに,厳御霊大神(=出口直開祖,いづのみたまのおほかみ)もありうると考えて,ぼくの神号奉称の際には,惟神真道弥広大出口国直霊主命の代わりに厳御霊大神と称えることも多い。四宮の御神体は確かめていないが,向かって右から3番目のお宮が瑞御霊大神のお宮として新たに追加されたものなのであろう。 この八月十七日にはタニハで式次第実行の準備で書類の整理をしていて,手許の『おほもとのりと』,を開くと,天津祝詞直後の神号奉称の「惟神真道弥広大出口国直霊主命守りたまへ幸はへたまへ」の下の余白に二行の手書きがあった。 ・瑞御霊大神守りたまへ幸はへたまへ ・産土大神守りたまへ幸はへたまへ この発見があってまもなく午後2時ごろ,出口三平さんが現れて,早速斎主をお願いし,式次第の説明とともに四宮の神号奉称の由来を述べた。式次第からすると神号奉称の機会がないので,「神言」(かみごと)の祝詞のあとで神号奉称することになった。 二柱が追記された『おほもとのりと』には,「口丹波主会」の印がある。父昇天の際には,「口丹波主会」の式執行団(かつて横町の隣家同士でお世話になったミナミ写真店の南陽彦スミコ夫妻も含まれる)がこられた。持参された『おほもとのりと』には,「口丹波主会」の印があった。「口丹波主会」付の『おほもとのりと』を沢山持参されたようであるが,その一冊だけが残っていたのである。 このように考えると,二行の手書きは父によるものではない。父と日頃懇談していた方々のうち,これに拘って行動に移す方であり,大本高槻分所代表の黒川忠行さんによるものと察せられるのである。 式次第中の「木庭次守毘古慰霊祭祝詞」は,黒川忠行さま作成のものと思われ,ここに掲載したいと思っている。隅田さんがタニハで黒川さんにお願いされているのを目撃している。 6. 三代教主宮の一時的導入から開祖宮と聖師宮の分割へ 2026年8月26日記 新たな展開である。昨日(2026年8月25日),タニハに出かけて,お祭りの片付けを続行した。図21に,大神四神の三方のうちの二つの裏書を示す。GeminiPlusに見せたら, ——— 引用〜鑑定結果 ご提示いただいた写真をもとに、左側の三方に書かれた「主神」と、右側の三方に書かれた「開祖」の墨書(文字の特徴)を比較・観察いたしました。 結論から申し上げますと、「同一人物によって書かれた可能性が高い(同一筆者と推定される)」と考えられます。 引用〜おわり ——— とあって,具体的に観察できる筆跡・筆意の特徴と類似点を挙げられているがそれは省略する。 図21を見ると,何度か書き直されている。左のものは当初「三代」になっていて,その後,「主神」に書き換えられた。右の方は「主神」が「開祖」に書き換えられている。 右は,「主神」から「開祖」へ。主神=瑞御霊は王仁三郎,そして開祖=厳御霊は出口なおであるから,大本の歴史からすると上位への変更である。左の「三代」から「主神」への書き換えも上位への変更である。右の三方には元々「主神」とあるので,これを主神にそのままにして,左の三方だけ開祖に替えれば良いのであるが,そうはなっていない。 前章での父へのぼくの質問。「三代教主が昇天されて後に,タニハのお祭りに行ったら,お宮が一つ増えていた(参考:図10)。右端のお宮は三代教主かと尋ねても回答がなかった。」 この回答がなかった理由としてぼくが今考えると,三代教主のお宮は実は,タニハ文化研究所設立の当初からあったのではないか。三代教主は一貫して父の宗教活動を邪魔してきて昇天されたので,三代教主の神通力の欠如を実感して,「三代」を「主神」に替えた。 三代教主昇天前は,もともと大神枠にはお宮は3点しかない。向かって左端は産土大神,のこりは2宮のみ。であれば,3宮の中央は,大天守太神(おほもとすめおほみかみ)であって,右は図21に見える黒々と見える開祖の背後の「開,主神」に当たることになる。土器(かわらけ)に,「大天主」=大大,「天主」=大,と見えており,この表現は大本の教えからすると納得できのである。 まとめると,図21の右の三方は,3宮時代の「天主」=大に当たっており,図21の左の三方は新たに追加された三方で,三代教主昇天の後に,三代教主を祀ったのであるが,ぼくの質問が契機になったかどうかは不明だが,思い直して,主神に替えたのであろう。そして,図21右の「天主」=大は「開祖」になった。 王仁三郎は三代教主については種々手を焼いており,信者の求心力を繋ぎ止めるべく,木花咲耶姫などの粉飾をしてもなんとか教団を守りたいと考えていたと思われ,その聖師の思いを受け留めて父は三代教主に仕えてきたのであって,その究極が三代教主昇天後のお宮増設であったと思われるのである。しかし,教えの世界からすると三代教主のお宮増設は誤りであり,大天守太神の左右に,開祖と聖師のお宮を改めて設置したと推測されるのである。 機関誌『木の花』の論客として父は活動していたようである。タニハに残った比較的古いバックナンバーからそれを知ることができる。機関誌『おほもと』でも当然ながら三代教主を祭り上げる報告もある。出口梅野の夫出口虎雄は三代教主のよき相談相手だったであろうと思う。和気藹々と,一緒に絵を描いている写真もある。『木の花』の表紙はすべて出口虎雄によるものであったが,ぼくはいい絵だと思う。出口虎雄は父の親友であった。本サイトのタニハ文化研究所のアイコンは出口虎雄によるものである。 おわりに 今後,このように変則的であっても,何回できるかわからない。10回は可能だろうか。この行事が日本タニハ文化研究所で最も重要なものであることは間違いがないと思う。 以上,2026年8月22日記。

