祈り a requiem

 タイトル負けしたページである。父の昇天の後,茅ヶ崎の隅田光さんと山崎由美子さんは,十五年間,茅ヶ崎から年数回通ってこられて,お祭りだけでなく,タニハの整理なども始めて頂いた。  2020年春,七十歳でぼくは離職してから,本サイトを立ち上げて,タニハの掃除や改修について書いている。資料整理にはまだまだ手が付けられない状況である。ちょっとした掃除などで半端な書類などを得ているが,これさえ,まともに手が付けられない状況である。 1 昇天を詠う  その過程で,次の文書を見いだして,これは先生を詠ったものだとして,お祭りの際には,必ずこの文面を皆で合唱した。昇天の前からタニハにあったもので,父の昇天を詠ったものではないが,何となく定着して,今尚,この歌を宣り上げている。  この図1の筆跡が誰のものかはわからない。父のものでは無いと思う。  この図2は,父撮影のものである。裏書きは一切ない。小学校の修学旅行で伊勢に行って,早朝,早起きして,日の出を待って,写真撮影した記憶がある。先生から,太陽の出始めがよく撮れるとアドバイスを受けたことを思い出す。アルバムにその時の写真がある筈である。  伊勢神宮前の,この場所の日の出が日本のうちで,最もありがたいのは確かなことか。江戸時代に発祥したのか。それとももっと遡るのかはわからない。 以上,Jul. 29, 2021記。 2 祝詞  図3は,今はなき隅田さんが黒川忠行さんにお願いして,黒川さんが作成された祝詞です。平成24年,つまり,西暦2012年完成のものです。父の昇天19周年が詠われています。それゆえ,2021年8月17日は28年祭になる。父は,1993年(平成5年)8月17日 昇天。  黒川さんは勉強家でまじめで,父もよく黒川家を訪ねたので,よくご存知である。  以上,Jul. 31, 2021記。

玄関前三和土修復 repair for the japanese front porch

はじめに  以前から玄関前ゆえに,三和土(たたき)が汚れて侵食されて雑草が侵入することに,かなりのストレスがあった。父から,三和土には足を踏み入れないものだと注意されたことがある。皆さん,飛び石に載らずに,あえて三和土に足を入れるから,たまらない。いつか,自分で三和土を本格的に修復したいと考えていた。 1 玉石を入れる 近所のマックスバリュー駐車場のアスファルトに幾つか穴が空いていて,最近,そこに結構大きな石英岩の玉石が埋まっていた。たぶん,その目撃がぼくの脳に刺激したのであろう。タニハの三和土の修復もそれを実行することになる。  Jun.20追加: 図1′ のように,駐車場のアスファルトの凹みに玉石が投げ入れてある。貧乏くさいけど。  さて,さしあたり倉庫前の敷居そばの凹みに石英岩を入れてみた。それが図2と図3である。思ったよりも大きいサイズだ。悪くはない。ただかなりの量が必要だ。さしあたり,あと4袋,買ってみたい。  那智黒を蹲い(つくばい)のそばの凹みに入れて見た。なかなかいい感じである。ただ,この周辺だけでも5袋ほど必要になる。  まだ方針が立たないが,さしあたり,コーナンで,厳選白玉砂利547円,厳選黒玉砂利657円,を使ってみようかなあ。ネット検索すると1万円/100kgがある。コーナン価格はまとめ買いよりも安い。箕面市立病院そばのコーナンプロでも確認してみよう。 以上,Jun. 11, 2021記 2 玉石の追加 +100kg  ガーデングラベルという名前で,玉石がかなり安い。税抜き298円/10kgである。厳選玉砂利の半額である。用意する労力からすると,コストはかなり低いだろう。まあ,これで十分だ。Jun. 13に,箕面市立病院そばのコーナンプロで購入。これと同じ物がコーナン今宮にもあったなあ。10袋購入した。  図7は,撒く前。図8は玄関前で,手水の右手に撒いていた那智黒の半分ほどを左の手水栓周辺に移動した。そしてガーデングラベルを比較的低い場所に撒いた。図9は倉庫前の凹みにも撒いたところである。もちろん,撒く前に草抜き,青ペンキ破片の除去などを実施している。  マックスバリューほど貧乏くさくは無いと思っている。次回も10袋ほど購入して凹所に撒くことにする。 以上,Jun. 20, 2020記。 3 玉石の追加 +100kg 計220kg  さらに100kg追加して,220kgとなった。これでも足りない。次回は,150kg追加してみよう。  細い柱の足下が濡れているが,粉末状の泥を丁寧に除去せずに玉石を載せたために,泥まみれになった。そこで,ほぼ撤去して,バケツで水洗いをすることになった。  洗ったのだが,砂や植物片が混在して,ザルやバケツやプラスチックのちり取りなどを使ったが,大変だった。そして柱の周辺に入れ戻したが,あまり上出来ではない。  次回は,泥などを十分に除去して,まずはこの柱周辺に玉石を配置することになる。 以上,Jun. 22, 2021記。 4 玉石の追加 +150kg 計370kg  今日はコーナンに行って玉石を購入して出発。コーナンで天気予報を見ると午後から雷雨。中止も考えたけど出発。結局午後六時頃からゴロゴロが始まったので,三十分ほどタニハ石碑コーナーで,ぐずぐずしていた。車の窓を開けていたので,蚊が入ってしまって,タニハから出発してまもなく追い出しに時間を取られた。  玉石砂利を三和土の低い場所だけに埋める予定であったが,結局,ほぼ全面的にカバーした。あと,50袋ぐらいは追加したいと思っている。歩くと,地肌が出てしまう場所があるし。  低い部分だけでなく全面的に敷くことで貧乏くさくなくなった。上出来だな。ただ,枯れ葉などがどんどん載ってくるので,小忠実に,タニハ到着後すぐに,掃除が必要となった。まあ,仕方が無いなあ。  父がタニハから離れるまでは,北面は全部,河原の円石がカバーしていたが,放置したら,サバナ草原になってしまった。南面はジャングルである。 以上,Jun. 24, 2021記。 5 玉石の追加 +60kg 計430kg  吉田ただをさんが6月17日に昇天された。26日に米子市の奥さんの実家に十日祭ででかけた。日帰り往復は結構堪えて,四日ほど眠くて辛かった。帰りは4時間余りであった。休憩1回はきつい。2回にすべきだった。夜間で米子自動車道では単線に入る前に1台抜いて,二車線になってから1台のみ抜いた。中国自動車道も通行量は少なくて,神戸まで,35台抜いて,2台に抜かれた。中国道で午後十時半頃か,対向車線ではパトカーに追跡されていた。  追加前には,玉石上の葉や茎を取り除いて,玉石を敷く前の土面上の雑草をほぼ取り除いた。玉石は以前に撒いた部分の禿げ部分に追加なども実施した。もう少し追加した方が良いようだ。 以上,Jun. 30, 2021記。 6 玉石の追加 +40kg 計470kg  図16のように,石碑コーナ付近に4袋追加した。石碑をタワシと雑巾で掃除した。そして,石碑前付近にも玉砂利を追加した。車前付近も追加。予備を残そうと思ったが全部使ってしまった。 以上,Jul. 6, 2021記。 7 20kg追加 Jul. 19, 2021  一つを石碑前と他の凹み部分についか。残りの一つは倉庫にキープ。 以上,Jul. 23, 2021記。  

大石凝翁全集に関わって about the collected works of the revered old Mr. Oishigori

はじめに  昨日,メールを通じて,出口三平氏から,出口王仁三郎の『天祥地瑞』が大石凝眞素美全集と繋がりがあることをお聞きした。王仁三郎の言霊学が大石凝眞素美のそれと関連するとは仄聞していたが,『天祥地瑞』が大石凝眞素美と繋がりがあるという情報はぼくにとって,衝撃的な部分もある。  三平氏から,大石凝眞素美全集の一部を国会図書館デジタルコレクションで見ることができるという情報を得て,本日,覗いてみた。三平氏の情報を契機にして,『天祥地瑞』と大石凝眞素美全集との関連を確認する必要があると考えるようになった。そこで,本日確認したことを出発点として,確認作業を進めたいと思う。 1 『大石凝翁全集』   水野文助が、大正12年(1923)から14年(1925)にかけて刊行。 第一巻 天地茁廴貫きの巻 第二巻 三種神器の御謂礼 仏説観弥勒下生経(上) 第三巻 仏説観弥勒下生経(下) 弥勒出現成就経 第四巻 大日本言霊 第五巻~第八巻 天造神算木運用秘書 第九巻~第一二巻 真訓古事記 大石凝真素美先生伝  ネット上には,これ以上の詳細な情報がみつからない。八幡書店から大石凝霊学全集 全3巻 単行本 – 2005/4/28の形で再版され,アマゾンで販売されている。39,600円である。研究書として高価とは思わないが,ケチな部分もあるが,手許に置くのはちょっと辛いところがある。八幡書店による紹介文を次のようにアマゾンからコピペさせて頂いた。 八幡書店による紹介文 引用開始———————————————— 大石凝真素美の言語論、宇宙論、進化論をふくむ壮大な霊学体系と、その神秘的な学説は、本田親徳の鎮魂帰神学とならび、古神道復興と神道霊学成立の二大源流に位置づけられる。 王仁三郎は大石凝と直接的な交流があったし、天行居の友清歓真、神政龍神会の矢野祐太郎、生長の家の谷口雅春、日月神示の岡本天明、世界救世教の岡田茂吉、真光文明教団の岡田光玉などの多くの神道系宗教家や、合気道の植芝盛平の教説のうちに、その影響を確認することができる。 大石凝の霊著は、大正年間に大本機関誌『神霊界』に一部が発表、水野満年によって私家版の全集も刊行されたが、稀書中の稀書として容易に得難く、昭和56年にようやく当社より復刻。しかし、これまた品切れとなりすでに20年を経過、各方面より再刊の要望が寄せられてきた。そこで今回は、旧全集収録の著述に加え、これまで未公開の著述をも収録し、すべて新たに組み直し、もって学術的にも永久に残る資料として完璧を期することにした。 【第1巻】 天地はえ貫の極典 題名の示す如く宇宙創造の秘奥を伝える書であり、以下に収録する著述の総論的部分にも相当する。また神道系諸教団に影響を与えた の思想が展開されていることも注目される。 三種神器の御謂礼 冷泉家、三條家等に伝わる古今集の御伝授以前に、その淵源となった万葉集の御伝授があったこと、その秘解による三種の神器の意義、大和三山との密接な関係を開示する。 仏説観弥勒下生経 弥勒とは至真の大度衡を以て億兆を測量して、その極点を勒し持て品行する大神人であるとし、本書をもってその下生の過程を明示せる現代の予言書となす。 弥勒出現成就経 弥勒として喝仰される救世の大神人出現を古事記、仏典等を広く渉猟し独自の霊学的解釈を打ち出した玄妙の書。以上二書は日本のミロク思想の系譜上最も注目される書である。 天津璽の瑞の御宝図 幅装軸の記、瑞組木倭文字神鏡図 幅装軸の記、近江国甲賀望月の由緒、近江国地名実字考、比叡山黄金樋の事、大神宮炎上前兆予定、真仮名法華経之序書、三種神器の由来、日本国の古事記真解説、蓬莱山五千人智識器量測量表、至真大道大度衡発見表、履歴大略予御届書、他 【第2巻】 天津神算木之極典 書名の通り天津金木の運用の秘法を公開する。天津金木とは形体無きものを象徴的に顕示し、その顕相の証徴するところを瞑想することによって宇宙創造の秘機を悟り、更には天地を動かすばかりの神秘力を得ると伝えられるもので、この書においては真訓を施した古事記に則って天津金木を置き足らわし、実に眼に物みせてくれるのである。 大日本言霊 言霊の象を至大天球の御樋代として六角切り子の玉、十八稜図の形をもって顕わす。本書の研究により森羅万象の彦霊紋理の玄理を究め、神真の大造化に関与しうるとする。 【第3巻】 真訓古事記 上巻/中巻/下巻 古事記は種々の観点から研究しうるとし、その研究分野を大別して八通りに分類【(1)歴史学(2)天文学(3)地文学(4)暦術学(5)人類成立の極元学(6)日本語学(7)天造之神算木の極典学(8)世界之大通義】し、独特の奇想天外から来るともいうべき解釈を縦横無尽に展開する雄篇。また、太古より伝来したとされる言霊図表「真素美之鏡」の玄義がここに初めて明らかにされる。八幡書店による紹介文 引用終了———————————————— 2 国会図書館デジタルコレクションから  三平さんから教えて頂いた国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/で,「大石凝翁全集」で検索した結果が次のようである。 1 大石凝翁全集. 第三輯 大石凝真素美 著 (国華教育社, 1924)2 大石凝翁全集. 11 (真訓古事記 上巻之3) 図書 大石凝真素美 著 (国華教育社, 1925)3 大石凝翁全集. 4 (大日本言霊) 図書 大石凝真素美 著 (国華教育社, 1924)4 大石凝翁全集. 10 (真訓古事記 上巻之2) 図書 大石凝真素美 著 (国華教育社, 1925)5 大石凝翁全集. 12 (真訓古事記 上巻之3) 図書 大石凝真素美 著 (国華教育社, 1925)  全部,印刷/PDF出力して,プリントアウトした経験を踏まえて,次に示したいが,まずは書誌から。最初の1については詳細を示す。なお,PDFでダウンロードする際,1回当たり50枚が限度なので,これより多い場合,分割する必要がある。 プリンターで印刷する際には,デフォールトでも問題無い場合もあるが,基本的には精細かつ白黒2値で印刷しないと薄くて読めないので,テスト印刷して,どのような品質で印刷するのが妥当か,検討する必要がある。 1 大石凝翁全集. 第3輯 図書 大石凝真素美 著 (国華教育社, 1924)タイトルよみ:オオイシゴリ オウ ゼンシュウ巻次、部編番号: 第3輯内容: 仏説観弥勒下生経 下巻, 41p.; 弥勒出顕成就経, pp. 1-95.著者:大石凝真素美 著著者標目よみ: オオイシゴリ, マスミ出版地:名古屋, 出版者:国華教育社出版者よみ:コッカ キョウイクシャ出版年月日:大正13, 1924https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925432NDL請求記号 (callNumber):特273-180注意: ダウンロードしてそのまま印刷すると読めないほど薄いので,印刷時に注意する必要が’ある。 2 大石凝翁全集. 11 (真訓古事記 上巻之三) 図書 大石凝真素美 著 (国華教育社, 1925)ページ範囲: pp. […]

倉庫の掃除 cleaning and arrangement of the barn adjunct to the tea room

はじめに  玄関横の倉庫を本格的に初めて,掃除と整理を始めた。この「倉庫」は,本来,茶室待合用の部屋であった。玄関同様の土間が設えてある。父が梅を漬けて沢山の瓶があったが捨てて,一つだけ玄関に置いている。金属製の本立ては湿気で錆びきって,2本ほど,捨てた。金属回収業者がきたので,燃焼釜2個と関連部品を出して少し,空きスペースができた。倉庫入り口に何十年と放置されていた大型のプラスチック箱などは今,カローラに乗っている。  何日か,倉庫の掃除と整理が必要になる。 1 一日目 Jun. 2, 2021  図1は倉庫の左奥隅にバラス二袋を撒いた際の記録である。バラスはコーナンで,税抜き188円/18kgであった。この場所は西田さんがコンクリートブロックで物置を作ったところである。薄い金属製のパンが自然に化学反応して形成されていた土間表面を,箒やスコップで削り取って,このバラスを撒いた。何となく汚らしいが,湿気を帯びた土間が一時的かも知れないが,清潔?になった。図2の左手奥には,チェーンソー関係の収納場所がリフレッシュされた。西田さんがやっていたようなブロックを三段で横に積み上げずに,下部と上部は縦に積み上げた。そうすることで地面の湿気から遠のき,収納スペースも高くなった。  次回は,左手手前を片付けたい。それには,バラスが最低6個袋必要である。全域にバラスを敷くには,20袋ほど必要かと思われる。  庭に転がしていたコンクリートブロックを前回集めて,今回,柄付きタワシで水洗いした。全部で20個余りである。蟻が結構巣くっていた。これを,倉庫の左手つまり,本館側にバラスを敷いたあと,平たく並べたいと思っている。その上に,長物の工具類を大きなプラスチックバケツに刺し入れて,配置する。さらに,金属製の収納棚を,コーナンで購入して設置するかどうかだ。新たなものを購入するのは憚られるので,東端の部屋に放置されている金属製本棚を一時的に配置するのもいいかと思われる。 追加: 今日,箕面クリーンセンターのあと,コーナン今宮で,バラスを追加購入しようとしたら,その隣に砂があった。真砂土ではなくて,河砂である。188円/18kg,バラスと同価格である。この河砂であれば,倉庫の土間土をより優しくカバーしてくれると思う。図4の右端が河砂で,この左がバラス。レンガ関係も思ったより安い。河砂は5mm以下は篩別されているて,埃っぽくない。もちろん粗粒部も排除されているが,そのサイズの表示はない。 以上,Jun. 3, 2021記 2 二日目 Jun. 6, 2021  コーナンで購入した6個の砂袋18kgの砂を敷いた。その前に,以前ぼくが敷いていた凄く重いコンクリートと樹脂からなる板を剥がすと蜈蚣の親子が出てきた。重いキャリア台もあった。これは書庫にあったものでぼくが倉庫に移動した。もう錆びていて,使う場面も無いと考えて廃棄するべく,コンクリートと樹脂からなる板とともに,カローラに積みこんだ。なぜか木製の背の低い脚(図5の奥に見える)があった。これと,この板を合わせると,茶室待合用のオシャレな長椅子になる。惜しいことをした。  土間にあった道具類を外に干していたブロックで組んだ台上に載せた。長物はトイレそばにあった大きなほぼ新品のプラスチックバケツに段ボール箱を入れて,その中に収納している。砂はレーキで均した。このレーキは,外回りの雑草を除去するために,以前ぼくが購入したもので,結局一度も使っていなかった。もう雑草が生い茂って,役に立たない。  砂袋があと,二袋,必要だ。将来,ぼくが生きていて,作業ができるのなら,丸ごと交換するのがいいと思う。セメントなどは不潔になるから,砂を敷く案は気に入っている。清潔観がある。本館との通気口がこの倉庫には二つある。それを塞がないように,コンクリートブロックの台を配置した。ただ,もう一杯なので,もう一つ,台が欲しい。図5と図6に見える台の半分の面積のものを外口に置こう。  というわけで,コーナンで,二袋の砂袋,そして,コンクリートブロック8個(110円/個)を,明日,箕面クリーンセンターでゴミ廃棄の後に,購入しよう。 以上,Jun. 7, 2021記。 3 三日目 Jun. 10, 2021  Jun. 9, コーナンでは,二袋の砂袋,そして,コンクリートブロック4個(110円/個),2x4材3本,玉石(白547円,黒657円)各1袋,購入した。   図9の奥の少し濡れた感じの砂が新たに追加した部分である。ちょうど良い感じになった。砂地をキャラバンシューズで歩くと,玄関の石畳が砂で汚れるという状況にはなっている。  図9のように左に棚を作った。長さ182cmゆえ,図5と図6に示したブロックで固めた棚と両立できず,これは半減して,新たな木製棚を造成した。これの方が美しいし使い勝手が良い。この2×4材を,もう一本追加すればより使い易くなるだろう。  追加Jun.20, 2021: 5本にすると,グンと安定感が出た。 おわりに  新たな改良は,このページに追加したいと思うが一応の完成である。大型蛍光灯は不要なので,撤去した。照明は基本的には不要かと思うが,人感センサーの照明を付けたいとは思っている。 以上,Jun. 11, 2021記  

第二駐車場 the 2nd parking lot

はじめに  玄関に無理やり駐車スペースを作って,現在利用している。愛車?カローラ ツーリングのサイズは,幅2m,長さ4mで,ぎりぎり駐車できている。昨年の五月に野田くんが木樵をしてくれた時に,第2駐車場の案が出た。彼の車もぼくのも,路上駐車であることにストレスを感じていたのだろう。  野田くんはパワーショベルをレンタルして工事してくれるという話であった。それをお願いするのもどうかと思っていた。前の友愛園の東側の山でいま,パワーショベル大,中,小が動いている。お願いできないかと考えていた。昨日,その工事現場を通ってもパワーショベルが動いていない。  諦めていたら,友愛園のドリンク販売機でパワーショベルの運転士らしい人が居たので声をかけてみた。残念ながら,その工事現場ではなくて,別の小さなパワーショベルがタニハ側の2軒?ほど置いての場所で,比較的小さな岩の整理すべく配置していたがその担当者であった。親方を呼んでくるという。その親方の話では,ショベル2万5千円,人夫2名で3万円。土運びにダンプとかなんとか。砂利も入れないととかなんとか。  ぼくが求めているのは切り株の除去である。まあ,上記の山での工事の方と,近所のパワーショベルが見えるもう一つの工事の方に価格など聞いてみようと思う。重機を使わないで,自分でやることになりそうではある。 1 怪しいネット情報  切り株をどのように処理するか,ネット検索すると,怪しいサイトばかりで,枯れ葉剤を使って切り株に続く根を殺して,灯油で焼く必要があるという。放置するとシロアリが巣を作るというわけである。ぼくは,タニハの東端の空き地に,刈った草や切った木々を投げていて,シロアリの巣?をすでに作っている? そんなことを気にしていたら何もできない。近所の山の斜面では切り株が山のようにある。切った大木もその切り株に引っ掛けて放置されている。  枯れ葉剤は日本では許容されていて,普通に売られている。次のサイトを見ても,問題らしいので,使うべきではない。 https://www.environmental-neuroscience.info/pesticides/herbicides/ 2 設計1  タニハ前の道路は左に大きくカーブしていて,入口の位置決めは交通安全上,重要である。図1のように,カーブよりも手前に設置する必要がある。ただ,王仁三郎聖師の霊界物語口述に関わる建物の前に設置される予定であった門柱(聖師が石屋に注文)が,事件が起きて聖師入獄後に届いたので,開祖のお孫さんの大槻さん宅に放置されていた。それを父が大槻さん御夫婦から譲り受け,タニハの神殿の裏というか,奥に当たるところに,門柱が設置された。第二駐車場設置には,この門柱を考慮する必要性があった。  図2では,生け垣内の2本の門柱のうち高いアラカシが邪魔になって,東側(左手)のものしか見えない。図2の赤字で示した東端候補地は,二つの門柱の中央に近い位置である。駐車場へのアプローチを考えると,東端候補地は,この附近に置かざるを得ない。  図2の松は生け垣に接近して自生しており,目印にもなるので,できれば,これを伐採したくない。そのように考えて西端候補地を設定した。松のすぐそばである。道路沿いで6m長になる。現在の第一駐車場の入り口は実質4mであり,6mあればギリギリ,車の入出が可能であろう。  図3は駐車スペースを示す。図2で見えた松は,この図では松1としている。この手前が,入り口西端になる。この松1のそばには上部を切り取ったがサクラの小木があり,奥には松2がある。サクラを移植するかどうか。松2を伐るかどうか,悩んでいる。  サクラは移動か捨てないとどうしようもない。赤い弧状のライン①で示したのは,車の進入ルートであり,②で示したのはバックして,建物の凹みに駐車するという発想である。そして,2台目の車は,①のルートで進入して松2附近で駐めることになる。出る時には,1台目の車が先に出て,2台目の車は,門柱までバックして出て行くという感じである。  明日,巻尺を持参してこの場所のスペースを計測しようと思う。時間の経過で,松1も松2も大きくなって車の駐車に邪魔になるので,結局,伐らざるを得ないか,と今は考えている。 3 コーナンで購入  バラス18kgが206円でさし当たり二袋購入した。コンクリートブロックの掃除のための柄付きタワシ100円,浅型土農一輪車3058円と別途空気不要タイヤ1408円。注文していたAK180用のカニ目と金属棒683円が届いた。コンクリートブロックは一つ110円,やすー。のちのち,購入したい。 以上,Jun. 1, 2021記 4 簡易測量結果  昨日,Jun. 2, 2021,テープで簡易測量を実施した。まずは,松2を伐らないで2台の駐車が可能かどうか,入る時も頭を先に,出るときも頭は先に,利用可能かどうか,調べた。  この図4では,上部の緑の太線はアラカシの生け垣を表している。一台目が松2で停まり,その後,バックして建物の凹みに入れても,2台目は進入できないことがわかった。この図の下部の太い線は建物の周囲のコンクリートの犬走り外端である。門柱やヨドコウ倉庫は第二駐車場候補地の範囲を知るために描いている。この結果,桜はもちろん,松2も伐採または撤去せざるを得ない。松1は目印に必要だと思われるので伐採しないつもりである。  この図5は,桜も松2も撤去した場合である。3台が収容できることがわかる。車は幅2m,長さ4mとしている。進入1台目の車はヨドコウ倉庫近くまで,かつ生け垣沿いに駐車する。2台目は1台目と建物の間に駐める。犬走りがあるので車からの人の出入りに問題はない。3台目は進入した後,切り返して,建物の凹み部分にバックを突っ込む形で駐める。退出はこの3台目が最初である。その後,進入1台目はバックして建物の凹みに突っ込んで出る。進入2台目も同様である。  なお,ヨドコウ倉庫も解体予定である。本梅町に金属回収業者が居るので受け取ってくれる。 以上,Jun. 3, 2021記

刃研ぎ tool sharpening

はじめに  タニハの生木伐採,草刈りも時期を逸しつつある。クマバチが活動を始めている。蜂には痛い目に遭っている。活動前に生木伐採,草刈りを始めようと思ったがまだ始めていない。昨年の五月の連休だったか,野田君が伐採に来てくれた。サクラの大木も伐採した。生け垣も低くしてもらった。  鬼門の二間のガラス戸が終われば,一旦停止して,外回りを始めよう。ガラス戸は窓側はほぼ終了したので,あとは6尺のガラス戸4枚だけは実施したい。 刃研ぎ  生木伐採,草刈りには,ノコギリを使っているが,すぐに切れなくなる。ノコ用のヤスリ棒を買って,研いでみたが,ガリガリと感じるぐらいで,切れるようにはならなかった。研ぎが以外と難しいと実感した。  昨年度の大工仕事でノミとカンナは重宝した。カンナはまだスリスリと削れる。ノミは釘に何度かぶつかって刃こぼれがしている。  刃こぼれをまずはグラインダーで削る必要があると考えていた。試しにと,今朝,中研ぎ用の砥石にノミをあててみたら,図1のように,刃こぼれの部分が簡単に無くなった。ネット上には,グラインダーで削って,その上で砥石でという順序であったが,その必要が無いことがわかった。  砥石は,中研ぎ用とあるので,この仕上げ用も必要かも知れない。このメーカーが特に優れているとはおもっていないが,商品構成がわかりやすい。 ホーム>大工道具>砥石・ペーパー>藤原産業砥石>SK11 一般刃物用砥石 荒研ぎ用 #220ホーム>大工道具>砥石・ペーパー>藤原産業砥石>SK11 一般刃物用砥石 中研ぎ用 #1000ホーム>大工道具>砥石・ペーパー>藤原産業砥石>SK11 一般刃物用砥石 仕上げ用 #3000  この箱に使用法が記されている。参考になるサイトはかなりあるが,次のサイトが参考になった。ギター製作家の視点  おわりに  貧弱な情報だけど,ぼくにはこれで十分である。 May 7, 2021記

古い水屋の引き出しに (3): 二代苑主伝 in the drawings of the old cupboard for tea-things (3): oral biography of the Oomoto 2nd Hierarch by KOBA Tsugimori

はじめに  この古い水屋の引き出しは,木庭次守の二代様時代のタイムカプセルであるが,その最大のお宝は,二代様からの聞き書きであろう。この内容は,紙媒体で出版するか,キンドル版で電子出版したいと思っている。すでに述べたように,聞き書ノートは3冊で第二〜四巻があり,第一巻がない。おそらく,おさながたり,に結実したのであろうが,わからない。 二代苑主伝ノート三冊  鉛筆書きとペン書きがある。戦後すぐなので,ペン書きの部分は,インク壺と替えペンで書かれたものだろう。ぼくの幼少期にも,父がペン書きしていたのを覚えている。  使われたノートは,図1のように,第二巻では,表カバーに,Note Book Made of paper Specially prepared in Nipponとあり,後ろカバーの最下部右端にNo. 3Aとある。第三巻は,表カバーには,Note Bookとだけがあって,後ろカバーは無地になっている。第四巻は第二巻同様の表書きがあり,後ろカバーは第二巻のNo. 3Aの代わりに日章 NISSHOのロゴが入っている。ページ数は第三巻が薄い。  第四巻の終わりが中途半端で,ひょっとすると,二代様が健康を害されて,それ以降は聞くことができなかったのかもしれない。 ノート以外の資料 1 二代苑主傳 6ページ(手書き)。 北国毎日新聞原稿 2 二代苑主略年表 8ページ(手書き)。 1と比べるとかなり詳細 3 二代苑主傳 講師 B4 1.5ページ相当(ガリ刷)。木庭次守 4 温容春の如き 苑主澄子夫人の性格 愛善新聞 昭和24年10月25日印刷。 5 風雪三十年 中外日報 昭和二十七年四月十五日。 おわりに  このブログの書き始めには,電子化作業として,ノート3冊から始めようと考えていたが,読みづらい資料なので,解読の正確性を高めるために,「3 二代苑主傳 講師 B4 1.5ページ相当(ガリ刷)。木庭次守」から始めて,時間軸を頭に入れた方が良いと考えた。なお,この「ブログ」形式ではなく,本サイトの「ページ」形式に,積み上げたいと思う。次にリンクを追加してゆきます。 二代苑主傳(1): 木庭次守講演資料 biography of the Oomoto 2nd Hierarch by KOBA Tsugimori No. 1: a lecture texthttps://motochan.site/wp/biography-of-the-oomoto-2nd-hierarch-by-koba-tsugimori-no-1-a-lecture-text/ May 5, 2021記

古い水屋の引き出しに (1): 二代様の時代 in the drawings of the old cupboard for tea-things (1): the second hierarch of Oomoto

はじめに  旧亀岡町横町1番地の大阪控訴審裁判事務所(家主はぼくの同級生の中田嬢のお婆さんだった)にそのまま父が住むようになって(追加図1 家賃金領収通),母と結婚して,敗戦を迎えた。この事務所には聖師が中矢田からお一人で父に会うべく時々お訪ねになった場(父の昇天のあとで,父の著作『新月のかけ』,を読んで,ぼくは知ることになるが)であり,この借家を離れるに際しては,家主の中田さんから購入したいと洩らしていた。母のそんなお金がどこにあるのという反論が茶の間でくり返されたことがあった。ぼくの大学時代の頃である。  この家は横町と西竪町と京町,そしておそらく古世町の交差点にあり,外から見ると隣接の畳屋さんと写真屋さんの建物の間の狭い平屋にしか見えなかったらしい。この角の三軒が中田さんの所有だったようだ。母によれば,近所ではわが家は三角の家と評されていたらしい。母がこの話しをした時に,父はワハハと笑って,住んでいる家族は誇らしいのだからそれで良いというニュアンスの反応があった。この会話は,ぼくの中学生時代のことだったか。  高校の時だったか,友人がどうして暮らしているの,というような質問をしたことがあった。二階が畳屋さんの上にあって,台所や井戸などは写真屋さんの裏に続いているというような回答をしたのではなかったか。四人の子供たちは両親を尊敬し,姉は学校で一番の成績を取るほど優秀だったし,亀岡市と大本が協賛する文化祭みたいな場では,姉は,日本舞踊,2弦琴の演奏などで目立っていた。一少年として姉が誇らしかった。  1948年(昭和23年)1月19日には,聖師は満76歳で昇天,そして二代様だけの時代が始まったのであるが,4年後の1952年(昭和27年)3月31日には,二代様は満69歳で昇天されている。すみ子の母である開祖が満81歳での昇天であるから,治安維持法による取り調べと獄中環境のなか,健康を害された故であろう。  三角の家の茶の間に置かれていた小さな水屋には最下部に二つの引き出しがあったが,この水屋は,大本職員アパートの追加的建設にともなって横町から引越した際に,おそらくその頃に,タニハに運ばれて父の物置になった。その水屋の二つの引き出しから,2カ月ほど前だったかに書類などを回収した。その引き出しの中味は,昭和二十年代に父が適当に突っ込んだままになっていた。  父はゴミを捨て得ない人で,割り箸の袋とか使い古した幣紙といった全くのゴミと言えるものもかなり入っていた。全くの未整理状態で積み重なっている。それを整理して,ぼくの現在の目からみて半分ほどか残した。そのうち,もっとものお宝は,父が二代様から聞き書きしたノートであった。全5冊ほどで,第一冊がない。これが,如是我聞『おさながたり』の元原稿であった可能性が高いと思っている。同郷出身で友人の虎雄さんに提供したのではないかと思っている。この引き出しは昭和二十年代の父のタイムカプセルと言えるのである。  隅田さんと山崎さんがタニハのゴタゴタの荷物を整理したいと申し出があって,もちろんお願いした。隅田さんは,二代様から如是我聞の原稿が出てくるのではないかと期待されていた。父は二代様のおそばに居て可愛がられていたことを聴いていたので,そう期待しておられた。いま,ぼくはタニハの掃除を少しずつ進めているのであるが,明らかな父の未使用ではあるが全く役に立たないフィルムや印画紙や万年筆のカートリッジなどなど,段ボール箱に改めて詰め替えられたとおぼしきものがあって,これは隅田さんと山崎さんの仕業と考えられる。ぼくのように不要なものは捨てるという発想ではなく,散らばっているものをただまとめるという遠慮がちの姿勢であったようだ。そういうゴミを大量にぼくは今捨てている。隅田さんらが木庭の自宅から運ばれた水屋の引き出しを開けて整理するという姿勢はなかったのであって,その姿勢からは,到底この二代様からの聞き書きには出会い得なかったのだろう。  この引き出しのものは,大本の事務的なもの,教えに関する父の原稿,手紙類,写真などからなる。簡単に整理して茶封筒に区分する作業をしているが,この報告の第1回目では,他の方には全く関心がないであろうぼくを中心とする記録と,二代様を中心とする冠島沓島参拝の写真を中心に,ここに示したい。 1 元晴の記録  この引き出しが物置に使われた時代を反映してぼくの出生の電報が出てきた。昭和24年4月3日付けの「今朝 男生まる 元気 畑谷」である。畑谷一郎が,出張中の岡山の桐原トシユキさん方の父への電報である。ぼくが小学校四年生の頃,この水屋のそばに座っていた母と,柱を背もたれにしたぼくが,雑談している時に,母が,4月3日は旧の女の子の節句だというようなことを言い,更に,ぼくが4月1日に生まれていたら,早生まれで学校が大変だったと言った。ぼくの出生を遅く届けたというような印象をぼくが持ったので,ぼくは4月3日に生まれたのではないのか,と問いただしたことがあり,そんなことは無いと否定されたのであるが,それ以来,ぼくは4月1日生まれではないか,という疑念を心の片隅に持っていた。  この電報を見て,その疑いは晴れたのである。そして,出産の際には,畑谷一郎が尽力してくれたことを理解した。父が長期出張で不在のことが多く,また家庭を重視する姿勢を持たなかったので,一郎がよく母のサポートをしていたのだと思う。一郎の役割は,母から聞かされていたことでもあった。   次の3枚の写真のうち,図2と図3は,隣家の写真屋さんであった南陽彦さんの撮影ではないだろうか。母の裏書きがあり,図2は「昭和二十五年十月四日晝すぎ,一年七ヶ月」とある。図3も同日の写真で,母の裏書きには「表にて」とある。図4の裏書きには「昭和二十五年七月 二階にて 一年四ヶ月 (橋本さんに撮ってもらった)」とある。橋本さんは,父の部下でよく自宅に遊びに来ておられた。写真が趣味であった。何となく撮影当時を思い出す? そばのセルロイドのだるまさんは好きなおもちゃであった。  図5は何故か母の写真。父が持っていたことになるがいつの写真かわからない。母はこの掲載を嫌がるだろうけど,ぼくとしては捨てることはできない。  引き出しからのものではないが,この当時の父と母。  これは亀岡保育園入園許可証である。昭和28年4月4日入園だから,満4歳になったばかりで入園したことになる。三年保育であった。赤組,桃組,藤組であったが,赤組の担任を覚えていない。桃組は中田?友子さん,藤組は波多野なんだっけ,忘れたなあ。園長は出口光平さん。大本が社会活動の一環で経営していた亀岡唯一の保育園であった。当時幼稚園はない。  玄関は広くて各自の下駄(靴)箱があり,正面には職員室と園長室に向かう階段,その下には紙芝居が収納されていて,よくこの紙芝居を広げて見ていた記憶がある。入ってすぐ左手が赤組の教室,右手に行きほぼ上から下までガラスが張ってあった通路を通って右手が桃組,玄関から真っ直ぐ入って奥の左手が藤組であった。抜けると,運動場が展開していた。  図7と図8は,入園式の案内の表書きと裏書きである。保育用品代200円が見える。横町には何十軒かはあるが,ただ横町で届いている。当時のハガキ5円からすると現在の63円はかなり安い。  保育園と亀岡高校の間には,段丘崖があって,保育園は一段低くなっている。その崖裾に水路が続き,ニセカシアの並木が続いていた。いま,手許には,藍染めの「1988年竣成記念 社会福祉法人 愛善信光会 亀岡保育園」がある。タニハに何枚かあった。それゆえ,現在の保育園は,ぼくの頭の中のものとは異なる。ただ,この外観を見ると,敷地に大きな違いを感じないのであるが。  さて,副園長の川島先生は怖かった。玄関を入って右手の一番奥に,遊戯室があり,ヤマハのグランドピアノがあった。ここで川島先生の指導のもと,子供たちの会話が録音された。その時の情景ははっきりと覚えている。その後,母は川島先生に道で呼び止められて,録音を聴いたらぼくの高い声しか聞こえないというおしかりであったらしい。母はぼくに「恥ずかしかったあ」と小言を言ったのであるが,ぼくとしてはかなり遠慮をしていた記憶があり,もう途方に暮れるしかなかったのである。  波多野先生の名前が出ていないかと,亀岡保育園のWebサイトに初めて入った。http://www.kameho.info/enkaku/rekisi.htmlこのサイトでの歴史の取り扱いは制度に偏り,卒園生にとってはあまり参考になるものではない。ただ,そうなのか,という記事があって一部,引用したい。  1 創立に至る迄の経過: 昭和22年の学制改革で、府立亀岡高等女学校を廃し、これを府立亀岡高等学校(ぼくの出身校)とする事となり、女学校が、補習科学生訓練の場の一つとして附設していた、幼児の保育施設を廃止することとなり、旧亀岡町に幼児の保育をする揚がなくなってしまうこととなった。もともと、昭和10年12月の大本第二次事件まで、大本は「愛善幼稚園」を開設して、亀岡町の幼児保育を行って来たが、事件のため破壊されて、前記高等女学校に移されていたという経過もあって、大本としても、保育園を再建したい意志をもっていた。大本が、昭和20年12月に再出発し、次第にその形を整えて来つつある時でもあった。  2 昭和26年度より〔創立と建設の時代〕: 昭和26年4月1日、児童福祉法による保育施設として誕生。5月12日、開園式を挙行することになり、大本社会事業団の経営で、出口光平園長以下職員11人を任命、当時の定員は180名であった。(中略)第3年目、昭和28年を迎えたが、8月には二階建本館落成、定員も280名となる。(後略)  ぼくの入園は,新制亀岡保育園の3年目に当たっていたのである。いわゆる第一次ベビーブームに対応しえた亀岡保育園であった。  姉祝子(のりこ)の証書も引き出しの中にあった。これによれば,昭和25年11月には姉は入園している。上述の「児童福祉法による保育施設として誕生」前に,「昭和24年になって大本は、大本婦人会に全国募金をもって施設づくりを訴え、昭和25年に、古材をもって木造平屋建、一棟6教室 320㎡の建築にかかり、昭和25年11月に完成した」とあって,この時に祝子は,幸い入園できたようである。 2 二代苑主すみ子の冠沓島参拝  次の図10〜図13(プリントサイズは,図10と図11 50mm x 70mm,図12と図13 69mm x 94mm)は,参拝者に配付されたものらしい。写真の裏書きは印刷されている。 昭和二十五年七月二二日 五十周年記念 冠沓島参拝写真 冠島の全景と沓島の遠望 舞鶴湾を出発間際の参拝者一行  図13の写真のほぼ中央に,二代様が歩いておられる。顔を日差しから覆う左手が白く光っているのでわかる。お生まれが1883年2月3日だから,67歳5ヶ月余りである。険峻な岩場をお一人で歩かれており,健康な日々をお過ごしの頃である。この1年8ヶ月後には昇天されてしまう。 3 第二期教習生  新生大本の息吹を感じる写真である。図14は昭和二十五年十月八日午前十時過ぎに撮影,図15と図16は同年十月二十五日撮影されたものである。父が講師となっての集まりで,裏書きは父本人のものである。二代様はこの1年5ヶ月後に昇天される。早すぎる昇天であった。  父は,図14では人群の最後尾の谷の部分に,図16では最後列左端に見える。図16では中央に,二代様と内丸さま,そしてその間に女の子が見える。現在74歳ぐらいになっている方か。曙さんではないか?  二代様は1952年(昭和27年)3月31日に昇天された。その十日祭の連絡メモもこの引き出しにあった。差出人は「家祭 山川」とある。ぼくの小学生時代の記憶では,山川さんは三代教主と秀麿さまがおられた朝陽館の受付をされていた。おそらく,二代様の近侍としての連絡であったろう。教主といえども,一連のお祭りは出口家の行事という認識で,山川さんが家祭担当ということであろう。二代様の葬列の順序(昭和二七,四,一〇付)のガリ版刷資料も残っているが,この中の「二八 側近者」の中に,米川喜代子,米川清吉,谷前清子,などとともに,山川日出子がある。この方は上の山川氏の奥方である。ぼくの面識がある方としては,森清秀,三浦くに子(同級生の母),南尊福,南陽彦(隣家の南写真店)などの名が見える。 本文を書き出すと, 左記 決定につき,その心得にて手配下さい。    九日 二代教主 十日祭(於瑞祥館) 月次祭に引き続き    十日 葬祭遥拝 午後一時(於瑞祥館)      尚,十日の葬祭執行当日は道場講座は休みとする。                  葬祭本部 サイン(読解不可)道場 木庭主事殿  もちろん,ここでの九日,十日は,4月9日,10日のこと。  この連絡網での位置づけから,先の「2 第二期教習生」での講師としての認識に誤りがないことがわかる。  二代教主御葬祭参列記念資料一枚の両面をスキャンしたものが追加図2と3である。  図19は少し重いファイルである。ぼくの知る宣霊社の竣成そして遷座祭の際の名簿である。祭務係の欄に主任木庭次守の次に1祭員として山川石太郎という名が見える。この方が先のメモの発送者であろう。なお,大道場係の主任として木庭次守の名もある。 4 父は注射していた  引き出しシリーズ第1回を一応はまとめることができた。 誰の筆跡? 図20の原稿が聖師のものかどうか,字体では,ぼくにはわからない。ただ,右上欄外に〔海潮〕原稿用紙とあるので,聖師のものと考えざるを得ない。引き出しのゴタゴタの中に埋もれていたので,父の行動からするとおかしいとは思っているが,もし聖師のものであるなら,二代様から頂いたのものであろう。書き損じとして。父は決して誤魔化さない人だから。  この文章を書いて後に,雑誌「海潮」というものの原稿用紙にも巡りあった。これでは,左下に,雑誌「海潮」とある。  次の図21と図22は,予防接種手帳である。父は注射をしていないものと思っていた。この腸チフス・パラチフスは,かつては,法定伝染病の一つになっていた。この予防接種を受けるのは,かつては,市民の義務であった。『新月のかけ』には,聖師が信者を直そうと思ったが,「注射をしてしまったかあ」と言って助けることができなかった,というようなエピソードがある。ぼくはこれを信じて,父もこれを信じるから,西洋医学の薬も飲まない,注射も受けないと思っていた。実際,ぼくが知る限り,全く頑なに治療拒否によって亡くなったという印象があった。  第二次大本事件での十代の時に厳しい取り調べを受けたために,その体験が高齢になって体力が弱ったが故に,現在のストレスに耐えきれず,吹き出した。なにゆえ,頑なに薬剤を拒否したのか,改めて多少奇異な印象を受けるのである。父の父はスペイン風邪で父が5歳ほどの時に亡くなっている。西洋医学を信頼しても良かったのではないか,と思う。 以上,Apr. 28, 29, 2021記 おわりに  第二次大本事件が権力によって引き起こされたことで,熊本の一介の師範学校の生徒であった父も検挙され,熊本から京都中立売署に護送された。そして,裁判資料を作成する過程で深く教えを理解するようになる。そして父の母との亀岡での出会いがあり,ぼくらが生まれて,ぼくの子供たちが生まれた。ぼくたちは大本事件に感謝せざるを得ないのである。 以上,Apr. 30, 2021記

古い水屋の引き出しに (2): 小幡神社の絵はがき in the drawings of the old cupboard for tea-things (2):picture postcards of the Obata jinja Shrine

はじめに  開化天皇を祭神ウブスナさまとする小幡神社の絵はがきも,引き出しにあった。一応掲載しておいた方がいいだろうと思った。この絵はがきを父が手に入れたのは昭和二十年代であろうが,撮影年次の情報がない。小幡神社では,宮司邸の改築と,拝殿以外は,境内そのものを大きく改変するという工事は行われていないと思っているので,この絵はがきが果たす歴史的役割は小さいと思っている。 絵はがきカタログ 図1には絵はがきを包む袋を示している。図2は絵はがきの表書きであり,個々の絵はがきに小幡神社の手押しの捺印がある。おそらく小幡神社と関わる花などから印形が決められたと思われるが,ぼくには今のところ,わからないが八角形らしく,かなり珍しいと思う。  図10は,京都市と亀岡市の市境の愛宕山からの眺望というが,かなりの望遠レンズを使っての撮影なのか。この写真での建物の特定はぼくには難しい。  なお,何故に愛宕山から撮影されたのか。それは穴太と愛宕山に繋がりがあるからだと思う。図12の北部には高校時代の友人が経営する西田歯科医院がある。彼の父は穴太の神社の宮司であった。彼の兄は全国の愛宕信仰の総本山愛宕神社に居るようだ。 図9は現在の郷神社に当たるようである。  図11の赤い目印は,愛宕山である。図12の小幡神社の北に隣接して郷神社が見える。  小幡神社から西へ嶺伝いに行くと高熊山岩窟に届く。小幡神社は,上古には巌窟そばの,多少広い岩棚にあった。その復元を次のページの図22〜図24に示している。    高熊山と出口王仁三郎ゆかりの地ポストカードとして,図13が掲載されている。図6とおよそ比較すると破壊程度に違いを感じない。図13の撮影アングルはこれまで見たものからすると,なかなか斬新である。「明治31年(1898年)旧2月9日、富士浅間神社の祭神木花咲耶姫命の神使に導かれるままに、この郷里の山の岩窟に篭り、七日七夜にわたる霊的、肉体的ご修行をなされた」というから,旧2月9日は新暦3月1日にあたり,そういう季節に撮影されたものであろう。  この写真も図6でも,この巌窟周辺の岩壁を見ると,3段階の弧状の削剥が見える。図13では,この岩壁の最上部が明るく輝いているがこれが破壊前の岩壁の可能性が最も高い。祭壇上のロウソクで点された2本の献灯を挟む場のすぐ上に磨崖仏があった凹みが見えるが,これより下方に見える2回の弧状の削剥は聖師修行の折より後のものかも知れない。  図14は,愛善苑の霊界物語成立前夜の状況,から抜粋した写真であるが,霊界物語の修行の記述からすると,巌窟内に端坐されていた訳では無いと思う。松葉からの雫が唇に落ちるという記述はありえない。図13や図6の巌窟は聖師修行のみぎりには,弧状の2回の削剥が無かったとしても,図14のようなものでは無かったのではないか。図14は聖師さまの修行らしく見せるサービス精神からでたものではないか。なお,図6の木立の陰影からも見えるが,巌窟はおよそ南面している。  図14の巌窟入り口の屋根部分と図13の屋根部分は類似しているようだが,図13の祭壇が設置された場は直接岩盤ではなかったかと思う。次回,巌窟に参拝した際に,埋没面であるか,岩盤であるか,一応再再度,確認したいとは思っている。  図7と図8の絵馬はいずれもあざやかな彩色画で,ぼくが少年の頃は図5の本殿に向かって右の小屋に掲示されていたが現在は,写真が置かれている。父が盗られるのではないかと参拝の度に心配していた。応挙は穴太の出身で里に帰ると里人にせがまれて作品を提供していたようで,作品が穴太の家々によく見られたという。王仁三郎は応挙の子孫と言っており,その一つの証拠品として図8の絵馬を奉納したのではないだろうか。モンゴルの草原を彷彿とさせる。 図15は,円山応挙の生誕地“穴太”を歩く,から,図16は,どこでも大佐 Hideyuki Sakamoto 2017年,のGoogleの投稿からえている。後者は,大木は伐採されてしまったが,図9丹波穴太鎮座神明社,に一致している。図17は2020年現在のコピー展示のようすである 改めて高熊山巌窟について  この章はMay 2, 2021に挿入した。  図18に四枚の巌窟の写真を掲載している。上段右の長男とその妻が入る写真だけが新たなものである。〇マークで対応関係を示している。聖師の写真を除くと対応関係は比較的容易に取れる。上段二枚の写真には,神棚が設置されている。外形からするとサイズは同じ可能性が高い。上段両写真だけでなく,下段左の天声社のはがきについて,青色と黄色の〇マークからすると,神棚の土台は,上段左の小幡神社の絵はがきより低かったと考えるのが一番妥当かも知れない。この視点での詳細な観察が必要かと思われる。なお,この地の地質は,20万分の1地質図ではジュラ紀混在層か整然砂岩相に対応しているが,チャート相であったように記憶している。確認する必要がある。  さて,図18の聖師が端坐される写真であるが,洞穴入り口の右にシダ類,左に笹が見える。洞穴内にもシダ類が生えているようである。この洞穴入り口右手の比較的上方には,節理が左下手に走るのが見える。この方向の節理は図18上段の二枚の写真の白色から橙色の〇の方向には,対応している,図18下段左の天声社絵はがきには見えない。下段の2写真では,赤〇白縁マークを敢えて記したのであるが,この対応関係には無理がある。というのは,第二次大本事件の前の聖師の写真では,壁面がカットされていて,これに対して最近の写真である天声社の写真では岩石域が増えていることになる。この洞窟は高熊山では無い可能性が高い。この丹波周辺にはこの程度のマンガン鉱山が多く,その跡地である可能性が高いのである。 おわりに  小幡神社では,父の計らいで宮司上田正昭先生を斎主として,ぼくと家内で,両親四名も揃って,結婚式を挙げることができた。さらに2020年には正昭先生の長女のご子息を斎主として,長男の結婚式を,両親四名も揃って挙げることができた。父は聖師から「あなたの産土様は小幡神社の祭神である」と聞いている。 以上,May 1, 2020記

タニハ神饌用炊事場の掃除 Cleaning-up of the kitchen for offering to God

はじめに 図1には玄関に自生するアカマツとコバノミツバツツジとカローラツーリングであり,図2はコバノミツバツツジの花で,枝が三分岐するのが特徴になっている。撮影は4月10日である。 まさに,里山の植生が現出している。 図3と図4いずれも4月14日撮影のものである。図3から,コバノミツバツツジの名称が理解できる。この小葉は,夏みかんの皮肌のように,組織が小さく分割されている。  図3と図4はいずれもレベル補正によって強調されており,裸眼では注意しないとこの構造を見ることはできない。比較的,図4のように裏面が観察しやすいように感じる。Apr. 14, 2021記 神饌用炊事場付近の掃除  神殿横の神饌用炊事場の掃除は50年間一度もされなかったであろう。道具はただただ玄関まで溢れていた。フィールドワークの前後で考えると一月を隔てて漸く,昨日完成した。窯場からの陶磁器が結構あったが,試し焼きのものが積み上げられてもいた。今後使わないものは全部廃棄した。  図3は,亀岡市横町一番地の時代の神棚の上部である。下部の収納箱は箕面クリーンセンターで処分すべく,今は車中にある。カンナで削ったら板目の部分で深掘りしてしまい,電動サンダーを購入して削り直した。上段の木箱には火打ち石を収めている。この棚はカビも加勢したか真っ黒であったが,甦った。ベニアではこうは再生しない。下部を占めていた収納箱は,神饌用の炊事場を片付けたので,不要となった。  電話がどこでも取れるようにと,電話線が縦横に走っていた。電話線収納ケースを外しても,ヘラやサンダーなどを使ったが,その糊が剥がれない。Locktiteの「シールはがし」を使って言わば浮かせて?,ヘラを主に使って剥がした。最初はシールはがし無しで2時間近く格闘したが不可能だった。  図5の左端近くの写真は王仁三郎の等身大のものである。廊下そして玄関にまで広がっていた道具などもこの神饌用炊事場の棚に収めることができた。これまでは,皿類は神殿下の収納箱に入れて,お宮の前に置く三宝や陶器類はこの炊事場に置いてきた。お宮それぞれの陶器は,未分類で置いてきたが,図6のように,分類して配置することができた。  タニハには,お宮が6宮ある。神殿は広い中央枠,比較的小さな枠がその左右に。中央には,向かって右から,開祖,大天主太神,聖師,そして小幡神社の産土神である開化天皇である。順位としては,大天主太神,開祖,聖師,産土神である。祝詞奏上の神号奉称の際には,大天主太神(おほもとすめおほみかみ),惟神真道弥広大出口国直霊主命(かむながらまみちいやひろおほいつきくになほひぬしのみこと),瑞霊大神(みづみたまのおほかみ),産土大神(うぶすなのおほかみ)を,神号に「守りたまへ幸はへたまへ」を加えて,二回ずつ称える。器には墨またはマジックインクで,それぞれ,大大(大天主),大(天主),主神,小,とある。神殿の右枠には祓戸四柱神,左枠には木庭次守をお祀りしている。父の生前中,左枠は物置になっていた。その付近の廊下に木庭次守のお宮を置いていたが,ぼく元晴が皆さんにお願いし,左枠にお宮を配置させていただいた。木庭の祖霊宮では無い。  父の生前中,中央のお宮は産土さんを入れて3宮であったが,三代教主昇天に合わせて?というか,四宮になったように思う。タニハの賛同者の皆さんはその意味を聞いておられたかも知れない。聖師によれば,「惟神真道弥広大出口国直霊主命」は,開祖の神名とされているが,父に別の機会に尋ねた折りには,少し考えて三代教主もそのなかに入ると答えたと思う。「惟神真道弥広大出口国直霊主命」は,開祖以来の教主の集合的表現なのであろう。  なお,図7では,左枠内には祓戸四柱が祀られ,木庭次守のお宮は外に配置されている。 おわりに  父昇天の後,隅田光氏と山崎由美子さんが中心になって,十五年間,お祭りが年に数回,挙行された。ぼくはお客さん的立場と勝手に感じていて,カワラケに大天主とか主神とか書かれていることに疑問を持ち,皆さんに尋ねたこともあったが,納得行く回答は得られなかった。父の文献を読む中で,お宮の意味が自然とわかるようになった。 以上,Apr. 11, 2021記