亀岡市立図書館と亀岡市文化資料館 Kameoka Municipal Library and Kameoka Municipal Museum of Cultural Materials

はじめに  徒然にスナップを。 亀岡市立図書館  もう3回行っただろうか。最初の日10月14日に司書の方から紹介された資料などを次に示す。  国立国会図書館デジタルコレクションでも閲覧できてPDFでもダウンロードしたが,現物を見てみたかった。書庫から出していただいた。とはいえ,臨川書店の復元本である。  同書籍の奥付を次に。  垣田五百次,坪井忠彦編,1925. 『口丹波口碑集』郷土研究社. 国立国会図書館デジタルコレクションの情報を次に。 口丹波口碑集 by 垣田五百次,坪井忠彦炉辺叢書27https://dl.ndl.go.jp/pid/1904777『炉辺叢書』27,郷土研究社,東京堂書店,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1904777 (参照 2025-10-14) なお,デジタルファイルには,並列タイトルとして次のものが含まれている。筑紫野民譚集 琉球人名考 口丹波口碑集。  なお,このデジタル本はダウンロードはできず,画面での閲覧が可能であるが,目次から関心をもったテーマを選択して,ログインして初めて読むことができる。  いま,関心がある分野ではないが,次の文献に偶然出会えた。大国美都雄さんの自伝と,現大本の出版物である。後者はかなりの出版費用がかかっているようだ。  以下の書籍の中身を見ないでとにかく司書の方から紹介頂いたものを撮影した。時間切れであった。  図16〜18は写真の情報に限定する。時間切れであった。  2回目の訪問の際に屋上から撮影した。 亀岡盆地が見える。この写真では立体感がないが牛松山の迫力はなかなかのもの。電線はなんとも邪魔邪魔。図番号は上の図と続かない。  建物はなかなかの立体感。牛松山の麓の段丘の起伏は残念ながら感じられない。肉眼ではわかるのであるが。  2025年10月23日に,亀岡市文化資料館に出かけた際に,イオンの屋上からの眺めはいいようだ。期待したい。 亀岡市文化資料館  2025年10月22日,おじゃまして撮影した写真を次に。  図4は,入り口の景観である。左手奥にには牛松山。建物は案内板後背なのであるが。この橋は雑水川にかかる。資料館はこの川そばにあって,保津川の溢水でかつては床上浸水があった場所である。資料保管場所としては不適切な場所と言えだろう。  図7の針塚は横町にあった時代の校内で見たことがある。おそらく高校時代に教師の案内で巡った際に見たのであろう。当時の校地は亀岡高校そばの同じ段丘面上にあった。  図10, 11は亀山城下町の様子だ。地形の起伏が無視されていて,残念なことだ。DEMでモデルを整形出力して,その上に建物などを配置すれば,より良いものになるのであるが。漫画的ジオラマにあたる。歴史や考古のスタッフでは限界がある。図10の後背のテーブルスペースが来館者の学習の場として提供されている。亀岡市立図書館もそうだが,点照明が鬱陶しい。長い蛍光管で面的に照明すれば,作業がやりやすいと思うが。そういう発想が亀岡市では脱落していると感じる。  ご紹介いただいた本。日本の古本屋では,最低1200円だったが,アマゾンでは317円(+送料350)なので今,購入した。  同じく。1941年出版の本ゆえか,古本はみつからなかった。本資料館で利用するのが適切であろう。  図15は1200円なので,資料館で購入するのがベターだ。  図17の亀山城主の変遷,をご紹介いただいた。図18の保津川筋の図も非常に興味深い。1200円,購入すべきだなあ。  「丹の海」という用語の出典を質問したら,このコーナーを案内頂いた。照明が邪魔して撮影できない。次回,照明を消してもらって,撮影したい? 丹の海の再現図である。画家(女性)の名前が画像では読めない。忘れた。次回,見直そう。人の侵入前の時代のものにあたるかどうか。  図21には黒い傘の照明が点在している。残念! 照明なしで,撮影したいなあ。絵葉書売ってるんじゃないかなあ?  図22, 23を見ると,かつての山鉾巡行は盛んだったんだねえ。ぼくの暮らした横町も持っていたんだねえ。今,思い出したけど,山車(だし)はなかったけど,神輿(みこし)はあったなあ。 民俗祭事調査会編,平成4、1992. 『民俗祭事の伝統 : 丹波・亀岡のまつり』 角川書店, 7+258p.の福知正温先生(中学校で国語を習った)の担当部分,pp. 220-229,もご紹介頂いた。日本の古本屋の小亀屋(篠町馬堀)から¥1,700で販売されていたので注文した。      この本はローカル過ぎて,流通ルートにはないようだ。日本の古本屋で,ぼくの名前で検索してみると,4冊が出た。かなり古いものだけだ。 日本の水と緑 ¥1,800 木庭元晴・小幡斉他、玄文社、1993、1 霊界物語ガイドブック ¥3,200 (送料:¥350~) 木庭 元晴 (監修), 木庭 次守 (編集)、八幡書店、2010 月刊地球54 琉球弧地史 ¥1,650 イルカぐるうぷ編、海洋出版社、1983/12、763頁、B5判 執筆・氏家宏・橋本義之・三嶋昭二・木庭元晴・藤田宏他 生きている太平洋 <のじぎく文庫> ¥800  まあ,今も生き残っているのは嬉しい。 以上,2025年10月23日記。

タニハでの初めての独寝と折り畳みベッド注文 the first night sleeping alone in Taniha, and ordering a folding bed at Amazon

はじめに  暑夏と論文作成でタニハには永く出かけなかった。茫茫たる夏草と急遽浮上した論文テーマなどで亀岡市立図書館に行く必要性もあって,10月18日(タニハ開所五十一周年)に泊まった。18日は亀岡市立図書館で資料収集,泊まった翌日は,まずは刈払機で1回,その後,また亀岡市立図書館に出かけた。 1. ハードな宿泊を踏まえてベッド注文  タニハで眠るというのはハードルが高かった。一昨年か,川口さんがきて,一緒に四泊した。そして,この日が最初の独寝である。亀岡市立図書館での徒労的なお仕事のあと,駅裏のスタバで夕食。亀岡で食事する気がしないので,相変わらずスタバだ。駐車場が1時間内,無料だが,信じられないけど,1分過ぎたのか,220円。  スーパー松本に入って,夜食のおにぎり,朝食用のフランスパン,プレーンヨーグルト,三色サラダを購入。まあ,何とか,タニハでの宿泊の決心がついた。  モンベル一色をコタツ敷きの上に乗せて,後に睡眠に入ったのであるが,クッションが無いので腰が痛い。これが日曜日で今は火曜日の夜だけど,まだ痛いのだ。  枕はコタツの掛け布団にした。インナーには枕を入れる袋があるが,全然入らない。膝掛け用の毛布を入れたのであるが,どうにも落ち着かなかった。自宅でも眠れないが,タニハではさらに眠れなかった。  昨年春に買ったベルメゾンのセットを購入するべく注文したら,ベッドは送料無料のはずだが,送料も請求される。クレームの電話をして,回答者に騙されて,翌日電話して,対応を求めたが,回されて,嫌になって,買い物かごから削除した。  火曜日深夜には,新たにアマゾンで物色して,ベルメゾンより少し高いがエムールのすのこベッドを購入しようとした。しかし,耐荷重がなぜか90kgに過ぎない。いろいろみて,結局,ベルメゾンの半額で,「タンスのゲン」の折り畳みベッドとソファーを注文した。火曜日の夕刻には届く予定で待っていたが,水曜日に延期の連絡があった。  なお,月曜日には枕も注文した。今の自宅の枕が気に入っているが近所のジェットで一万七千円だったので,アマゾンで物色していたら三千円弱のがあった。火曜日の午前中に到着した。思ったよりも薄かったがまあ許容範囲か。 2025年10月22日深夜記。 IKSTAR 枕 肩・首・頭をしっかりと支え まくら 肩がラク 独自の中空設計 低反発 安眠枕 ポリウレタンフォーム 通気性 ピロー プレゼント 洗えるカバー ライトグレー 54×42cm 格子縞 タンスのゲン 組み立て“超ラク” 折りたたみ すのこベッド セミダブル 天然木 ベッドフレーム フレームのみ 四つ折り 組立簡単 17620122(96996)積層合板。¥20,999【サイズ】【セミダブル】 幅120×奥行き195×高さ約30/17cm 【重量】セミダブル:約23kg【耐荷重】約350kg 【素材】本体・脚:天然木パイン無垢材 /スチール すのこ:積層合板※傷防止フェルト付属 【生産国】中国 【梱包サイズ】【セミダブル】 124×56×23cm タンスのゲン マットレス セミダブル 厚さ10cm 「純」高反発(R) 密度25D 硬さ190N 三つ折り 洗える カバー付き 高反発マットレス 敷布団 折りたたみ メッシュ ベージュ 13810092(101602)¥8,999  タニハ経由で亀岡市文化資料館から自宅に戻ったら,組み立てベッドとマットレスが届いていた。昨春,ベルメゾンから購入したものに比べると容積が小さく,価格も半額だ。明後日かなあ,タニハに運ぶだろう。「タンスにゴン」と勘違いしていた。右の大きい方がソファか? 以上,2025年10月22日。日が変わる前。

国立国会図書館への納本について the deposit to the National Diet Library, Japan

はじめに  国立国会図書館への納本については,父木庭次守は適宜実行してきた。体調を崩してからは送付していないが,父昇天後にも,複数回,収書部の担当者からハガキが届いていた。  飯塚弘明さんの情報を元に,『大本教學』については,Nos. 4, 18, and 19が欠損していることを知った。後回しにすると興味を失うので,まずは国会図書館の納本システムについて調べた。 1. 国会図書館への納本システム:aiを使って  通常の検索をして,企業・団体、個人からの納本 のWebページを知ったが,先にPerplexityに聞いてみた。「紙の出版物を納本する場合」の自前の場合を中心に,ここに転載する。  次を見ていただくとわかるが,簡潔である。 紙の出版物を納本する場合 郵送による納本無償納本の場合は事前手続き不要で、以下宛先へ郵送します。 受領書が必要な場合は、その旨と送付先を記したメモを添えます。送料着払いは不可です。 電子書籍を納本する場合(eデポ制度)  Amazon Kindle本は自動納本対象外なので、希望する場合は直接国会図書館へ申請が必要です[6] [8][9]。 [6] せっかく書いたKindle本なんだから国立国会図書館に納本して … https://note.com/return_rider/n/n2cce49abce63 [8] 【2023年11月】国会図書館は電子納本もやっていた https://office-ukawa.com/about-national-diet-library-electronic-deposit/[9] 「kindleペーパーバック」と国立国会図書館の「納本制度」 … https://note.com/bright_tern251/n/ncc87e45e4e3c 納本の全体像 種類 方法 事前手続き 宛先または場所 備考 紙の本(無償) 郵送または持参 不要 〒100-8924 東京都千代田区永田町1-10-1 国立国会図書館 受領書希望の場合はメモ添付[1] 紙の本(有償) 郵送または持参 事前連絡・納入書必要 同上 小売価格の5割支給[3][6] 電子書籍 専用サイトでデータ送信 eデポ申請要 オンライン手続き Kindle本は自動納本対象外[8][7] [1] 企業・団体、個人からの納本 https://www.ndl.go.jp/jp/collect/deposit/qa05.html [7] オンライン資料収集制度(eデポ) https://www.ndl.go.jp/jp/collect/online/index.html  納本後、概ね1か月前後で国立国会図書館サーチに登録され、全国で閲覧可能になります[4][5]。[4] 同人誌を国立国会図書館に納本した話(窓口持ち込み編) https://note.com/genmaitea/n/nd4e62c231c28[5] 自分の同人誌を国立国会図書館に納本する方法 (無償、有償 https://note.com/5tyon/n/n4745dfac6aa2 紙の本を郵送で国立国会図書館へ納本する際に必要な書類は、無償納本か有償納本かで異なります。 必要書類など:無償納本の場合(一般的な自費出版・同人誌など) 必要書類  特別な書類は不要。書籍をそのまま郵送すれば納本が完了します[1][2]。 ただし、スムーズな処理のため、次のような簡易書類を添えるのが推奨されています[3][4]。  [1] 納本制度をご存じですか? https://www.ndl.go.jp/jp/collect/deposit/pdf/deposit_request_pvt.pdf [2] 企業・団体、個人からの納本 https://www.ndl.go.jp/jp/collect/deposit/qa05.html [3] 国立国会図書館に同人誌を納本する方法 https://akademeia.info/?p=22709 [4] 国立国会図書館に納本するのは自費出版の本でも必要?流れ … https://jihishuppan-hikaku-navi.com/jihi/kokkai-tosyokan/ 添付すべき内容 宛先 同封内容  [7] ひとり出版社が出版した本を国会図書館に納本してみた https://note.com/339planning/n/na153a2bdba42 まとめ 納本種別 必要書類 補足説明 無償納本 書類不要(送付状・連絡先メモ推奨)[1][3] 受領書希望時はメモに記入 有償納本 出版物納入書(要事前取り寄せ)[2][5][6] 発行者情報と販売価格を記入 郵送時は元払いが原則で、着払いは不可です[4]。書籍が届くと約2〜3週間で受領処理され、希望者には受領書が返送されます[2][3]。[5] せっかく書いたKindle本なんだから国立国会図書館に納本して … https://note.com/return_rider/n/n2cce49abce63[6] 同人誌作って国立国会図書館に納本するンゴ https://note.nikachu.net/posts/ngo-series-make-record-nouhon/ 国立国会図書館へ書留や宅配便で納本する際の宛先と表記方法 宛先 表記方法のポイント これらの宛先と表記で確実に納本先へ届きます。 情報源[1] 企業・団体、個人からの納本 https://www.ndl.go.jp/jp/collect/deposit/qa05.html[2] 国立国会図書館に納本するのは自費出版の本でも必要?流れ … https://jihishuppan-hikaku-navi.com/jihi/kokkai-tosyokan/ […]

学術雑誌『大本教學』コンテンツ contents of the academic journal ‘Ōmoto Kyōgaku’

はじめに  現在作成中の報告で,以前,『大本教學』のアーカイブズを利用しようとネット検索したが,ヒットしなかった。『大本教學』は三代教主一派の心無い人々,とくに,「四代教主」三諸聖子の夫三諸齋によって廃刊されたのであるが,それにしても,ヒットしないのが解せない。廃刊行為はなんとも教団にとって自殺行為であるが,執筆の人材が枯渇しつつあるのではとは思う。  それで,本日,国立国会図書館デジタルライブラリーで,大本教學,を検索したのであるが,大学図書館などの目録などでは一部見られるが,雑誌そのものはヒットしない。宗教法人発行のジャーナルを国会図書館が意図的に収集しないということはありえないのだが,国立国会図書館に教団おほもと(大本)から申請しなかったり,国会図書館からの送付要望に対応していなかったのかもしれない。ただ,木庭次守がそれを怠るというのは信じ難いことではある。  ぼくが今,問題としているのは,『大本教學』が歴史から消えてゆく危惧である。一般の人々の『大本教學』へのアクセスはかなり難しいと思われる。教団おほもとの発行物は基本的に非売品である。スキャナーでデジタル化をして,貴重な資料や木庭次守などの報告はテキスト化をしたいと思っている。  情報が揃ったら,国立国会図書館に資料送付の連絡をしようと思う。 1. ドキュメントスキャナー  手持ちのA3対応プリンターで問題ないのであるが,以前使用していたドキュメントスキャナーの使い勝手が良かった(給紙ロールが溶けてしまい廃棄した)ので,一応,調べてみた。 一つ目,DS-571W  オープンプライス エプソンダイレクトショップ販売価格(税込)   48,400円 アマゾンで,41,700円。 二つ目,リコー PFU ドキュメントスキャナー ScanSnap iX1400 (最新/高速毎分40枚/両面読取/ADF/ワンボタン操作/USB接続/シンプル/書類/レシート/名刺/写真)  Wi-FiよりもUSB接続の方がいいだろうな。  アマゾン36,964円(税込) ぼくが持っていたスキャナーはScanSnapという名だった。リコーかあ。給紙ロールの弱点は改善されたのだろうか。と,調べてみると,ユーザーの全員が体験している。改善されていない。メーカーの策謀なんだろうなあ。  ScanSnapって富士通だと思っていたけど,何でリコー?って,調べてみたら,2022年にリコーにイコウしたらしい。何と業務用スキャナーの世界シェアが50%だって? 価格コム EC JOYで,35,590円。PFU ピーエフユー FI-IX1400A ドキュメントスキャナー ScanSnap 両面読み取り可 A4/はがき/名刺/レシート 600 dpi USB接続  まあ,これを買うことになるだろうねえ。 三つ目,ScanSnap iX1600 FI-IX1600A [ホワイト] がスタンダードみたいだねえ。 43,299円かあ。   ScanSnap iX1600 FI-IX1600A-P 2年保証モデル [ホワイト] 43,641円かあ。2022年3月発売。もう三年たったから,新製品がでるんではないかあ。 口コミ: その後も折を見て活用していますが、追加で気づいた点として2点記します。① 前機種ix500の場合、一度で読み取れない分厚い書類の場合、紙が少なくなってきた時に、スキャンしながら手で少しずつ紙を追加するか、複数回に分けて読み込んだPDFを、後でツールで合体させるなどで対応し、手間がかかっていました。本機種は、先ずトレイに入るだけ紙を入れて読み取らせ、終わった時に「追加での読み込み」が選択でき、複数回の読み込みで一つのPDFファイルに統合されるので、とても重宝しています。② 普段はA4やB5などの用紙の読み込みが多いですが、たまにレシートや名刺など小さな紙を扱うこともあります。その際、付属の名刺・レシートガイドを取り付けると、小さな紙もスムースに読み込むことができ、またそのままA4などの紙も扱えるので、最近はガイドをつけっぱなしにして使っています。また、今後何か追加があれば、この場でレポートさせて頂きます! 以上,2025年1月31日。  一連のScansnapは富士通,リコーいずれも,旧機種の切り捨てを容赦なくする企業で,全く信用していない。EUの環境基準に合わせているが,単に売るためだけで,社会貢献的発想は欠如している。ただ,Scansnapはいいので,発売後三年を経過しているので,新たな機種が発売されたら,購入したいと思う。 2. 書物をまとめてスキャンするには 2.1 考えた  工具として,木材に糊付けなどをするために,一時的に2枚の板で挟み込むツールがあるはずだ。それを使って,本を挟んでディスクグラインダーで製本糊部を切り取るという発想を今,している。アマゾンで検索したが,ガイド付きのクランプはない。価格も考えて,次がベストだな。高儀(Takagi) GISUKE Cクランプ 50mm グレー たとえば,50mmは290円。  このクランプを3個,購入すれば,カッティングの際に移動して使うことが可能だろう。  ディスクグラインダーを使うのはおおごとなので,裁断機はどうかと,プリンターなどの後ろに置いていた埃まみれの裁断機を取り出した。ネットでは中古で廉価だと2000円ほどで売っていたようだ。かなり高かったように思うが1回使ったかどうか。  この裁断機ではクランプは使えないし,使う必要性もない。これを使うことにしよう。  プラス 裁断機 自炊 A4 かんたん替刃交換 PK-513LN 26-309 40,773 税込円,というのがあるが,これは厚さ15mmまで。ちょっと不足だなあ。手押しは安全でいいのだが。  上掲の裁断機でも,本そのものを直接,裁断できない。  クランプ3本利用で,ステンレスの細い板を買って,ディスクグラインダーで切り落とすのが一番いいかもなあ。 そう考えて,5 本の電子化(自炊)で裁断機として使えるか Feb. 2, 2025 のように,新たなディスクの購入を考えたが心変わりした。 オルファ(OLFA) 円形刃カッター ロータリーカッター45 234B 870円税込。さきほどコーナンプロで見たが,税込1408円。 これは中型だが大型になると歯がかなり高くなる。  さて,クランプとステンレス角巻をコーナンで購入してきた。かなりちっちゃくてコンパクトなものを購入(税抜382×2円)してきたが,手元の大本教學No. 19(3cm厚)をステンレス角巻を使うとすると挟めない。このあと,返却に戻らないといけない。  またしてもアマゾンでみて,近与(KONYO) SUN UP 工作台用クランプ 大 CSー15 シルバー 金具 cクランプ 369円税込で2個,が気に入った。材質が鉄というのがやばいかもしれない。  このサイズだといま手元にある書籍は3cm厚なので,ステンテス角巻2本使っても,問題がない。 材質 鉄 ブランド 近与(KONYO) 商品寸法 (長さx幅x高さ) 5.5 x 13.4 x 2.1 cm 色 シルバー スタイル ツール,サンアップ 商品の重量 0.22 キログラム 2.2 本を裁断しないで電子化  創刊号は当方には1冊しかない。隅田さんの遺品だ。創刊号は80ページと薄い。まずはグレイで印刷したが文字が読みにくい。それでカラーで印刷した。本はかなり黄ばんでいるが読みやすくなった。 […]

綾部の秋寂し one day trip to Ayabe’s desolation    

はじめに  愛善荘に恒例の年祭に訪れた。「瑞霊世を去りて聖道漸く滅す」の研究の関連で,小さなタウントリップも実施したので,備忘録としてここに記す。 1. 八年間の教主不在  「瑞霊世を去りて聖道漸く滅す」の論の展開で,出口直美の四代教主が聖師の約束通り実現していたことを,愛善荘の教学主任にあたる方に伝えた。この論の「9. ミロク三会」の部分のコピーも手渡した。その結論の一つである次のAdobe Illustratorの図も別途3枚。 2. 愛善荘  11月の年祭参拝を姉の昇天以来,続けてきた。 3. 月山不二の現行大本本部による蹂躙  昭和45(1970)年10月に発行された聖地案内用の冊子『大本 ー綾部・梅松苑ー』の「月山不二」の部分を次に(誤記などは修正)。「昭和二十一年六月完成。本宮山上の長生殿敷地あとに出口聖師の設計・監督により築造された。大本の至聖所の一つ。頂上には延暦(えんりゃく)二十一年の富士大爆発のさい噴出したとされる霊石を安置し,三つ葉の松が植えられている。 旧七月六日の夕べから七日間,神集祭(七夕祭)が挙行されている。このお祭りの期間中に,天地八百万の神が集われて,一年間の世界の経綸(しぐみ)が定められる。」  聖師は二代様とともに敗戦後,そして保釈後はじめて綾部に帰られて,第二次大本事件で破壊された石材を積み上げて,その上を白砂で覆って,天皇傘下の権力による大弾圧にあっても破壊を辛くも免れた富士の霊石を安置し,そのそばに憑代として三つ葉の松の木を植えられた。この三つ葉の松には後述の奇跡譚がある。なお,月山は築山に対する当て字で,不二は富士山に見立てている。  気象庁の 富士山有史以降の火山活動 に掲載されている表を次に示している。 年代 現象 活動経過・被害状況等 ▲800~02(延暦19~21)年 噴火 800年4月15日噴火、降灰多量、スコリア降下、溶岩流。噴火場所は北東山腹。801年も噴火し、降灰砂礫多量、足柄路は埋没、802年に箱根路が開かれた。(VEI3) 表1 延暦時代の噴火  富士山の霊石というのは図6,7のように丸くて,火山弾としては大きすぎるし外形も不適当である。遠目であるが,河谷の円磨作用を受けているようだ。つまりは溶岩層から河谷に大きな岩が崩落して,その後円磨作用を受けた結果と考えられる。2000年前以降の新しい地質時代の岩石として,かつ,延暦時代の火山活動にかかわる溶岩とすれば,西暦800年春以降の溶岩流に想定される。この岩石の採取地や岩質が明確にならないと延暦時代と限定するには無理がある。とにかく,霊石というからには何らかのご利益があったと考えるのが宗教的には自然であろうかと思う。 何といっても天皇配下官憲による破壊を偶然免れたという点で,開祖元屋敷そばの榎が伐採されずに残って,その前に簡易の祭壇が置かれていることと付合するのである,  綾部の「最高の至聖所」である月山不二山頂の憑代の三つ葉松を三代教主昇天の一年余り後,三代の傘下にあっていまなおその配下によって支配されている現行大本本部によって,事もあろうに,抜根された。『愛善世界』1992年3月号には,「大本神の斎庭を破壊する暴挙」として,現行本部の大黒主的本性がまたも暴露されている。1992年節分祭直後の破壊まもない時期に,大本信徒連合会によって現地調査が実施されており,抜根前後の写真も掲載されている。抜根を証する写真が図6と図7である。霊石周辺の神木は綺麗さっぱりと消失している。 図7のキャプションによれば,憑代のひもろぎ三つ葉松が消えて,五葉松と梅は切り株が残っている,つまり伐採されたようである。 4. 憑代ひもろぎの三つ葉松は生き残っているのか  上記『愛善世界』によれば,伐採を免れたのが,ひもろぎ三つ葉松であり,図8のものだという。この場所がどこか。であるが,この写真と『大本七十年史』下巻の折り込み地図から,図9で三つ葉松の移植場所を特定した。   図9の左図は昭和10年12月で第二次大本事件突発直前のもので,右図は昭和37年12月現在とある。本宮山は両図の上部(南部)に位置しており,昭和10年には長生殿の基礎があり,事件で打ち壊され,昭和37年にはその跡地に月山不二が立地している。前述のように聖師と二代様によって昭和二十一年六月に完成している。    図8の右端には下から上がってくる参道が見え,この参道の左手に三つ葉松があるので,図9右図の「本宮山」の字の山のそばに☆印を置いてみた。 以上,2024年11月11日記。 5. 禁足地を試す  現行本部によって抜根され移植?された三つ葉松は枯れたのではないか。松は他の樹木に比べて圧倒的に中心の主根は地に深く降ろしている。樹齢十年以上に及ぶ松の移植は難しい。移植時には主根を掘り込んだとしても側根を切ったりする。十年後にこのことで枯死する可能性もある。ぼくの体験に基づいている。  次の章に述べるが,種名が気になる。Pinus rigida ではないか。アパラチア山脈の固有種である。この生態を知らないが,奇跡とされてきた事実が,この種の特質かも知れないと思っている。  以上の関心をもって,年祭のあと,本宮山に向かった。かつて父と参拝したのであるが,1回限りだったかも知れない。  次の5枚の写真は禁足地に踏み入れた結果だ。おっさんに妨害された。図a2の後ろの坂を登っている途中に呼び止められた。このおっさんの顔を見たことあるような。このおっさんの努力で通路などが維持されているのであるが,年に1回のお祭りだけと言っていた。おかしい。せっかくの聖地が無駄になっている。ゆたかな信仰生活を支える場を教団が私物化している。なさけない。いくつかおっさんに問いかけた。頭おかしいって。 6. 三つ葉松の種名は  現場に行けなかったので,ご神木の種名はわからない。日本ではアカマツとかクロマツなどとマツを呼んでいるが,多様だ。アカマツ Pinus densiflora 英Japanese Red Pine,は雑種が生じやすく,かなり多様な種である。 タイワンアカマツ(バビショウ) Pinus massoniana 英Masson’s pine, Chinese red pine: 中国南部及び台湾を原産とするマツ。葉はアカマツと同じように二本一組(稀に三本一組)で生じるが、長さが20センチ近くあり、その様子が馬のシッポに似るとして現地では馬尾松(バビショウ)と呼ばれる。マツボックリはアカマツよりも小さい。: 中国南部及び台湾を原産とするマツ。葉はアカマツと同じように二本一組(稀に三本一組)で生じるが、長さが20センチ近くあり、その様子が馬のシッポに似るとして現地では馬尾松(バビショウ)と呼ばれる。マツボックリはアカマツよりも小さい。 Pinus rigida Mill. 英Pitch Pineこの可能性もある。このリンクにアパラチア山脈固有種の生態などの情報が掲載されているが,切り株からひこばえが出るかどうかについての記述はない。 三鈷の松 さんこのまつ: 御影堂の前にあり、空海が入唐留学からの帰途、船上から密教相応の地を占するために所持していた三鈷杵を空中に投げたが、帰朝して登山した折、その三鈷がこの松に懸かっていたと伝える三葉の松である。寛治二年(一〇八八)の「白河上皇高野御幸記」は「影堂前二許丈有一古松、枝条痩堅年歳遐遠、二宿老云、大師有唐朝、占有縁之地、遥擲三鈷、飛彼万里之鯨波、掛此一株之竜鱗、聞此霊異、永人感傷、称為結縁、折枝拾実、無不齎待為帰路之資」と記している。  月見不二の松を献上したのは和歌山の人であり,この三鈷松かも知れないと思ったが,GKZ植物事典にこの記載があり,写真を見ると樹皮が明らかに異なる。Pinus bungeana 英Lacebark pine 白松。京都永観堂,三嶋神社などにもある。写真b1〜b4を次に。 7. 神殿の向きは  図9には参拝者が祭壇に面する方向を紺色の矢印で表している。この逆方向が神殿の面する方向である。 月山不二は南面しており,参拝者は北面することになる。図9の昭和10年の長生殿基礎の場合,神殿が南面する予定だったか北面する予定だったかは分かりにくい。この北隣に配置されている神声碑,教学碑,歌碑が北面しているので,長生殿の神殿も北面しているのではないかと想像していたが,後述する月宮殿が南面しており,同じ思想で設計されていたので,間違いなく,長生殿の神殿も南面する予定だったことがわかるのである。長生殿も月山不二もいずれも祭壇は南面である。 昭和10年の長生殿基礎は南面,五六七殿祭壇はなぜか北面,している。昭和37年のみろく殿の神殿はおよそ北西面している。聖師が築造された月山不二は南面している。昭和10年の五六七殿と昭和37年のみろく殿はいずれも南面していない。 みろく殿は「二代教主によって心血がそそがれ,信徒がひとしく待望していたみろく殿は,ついに昭和二八(一九五三)年四月一六日(旧三月三日)に完成した」(『大本七十年史』下巻, p. 1009)とあるので,二代教主の意向があった可能性はある。天恩郷の万祥殿は少し南に振った東面である。これは純粋に三代教主時代である。戦後のみろく殿と万祥殿の神殿の向きはどうにも理解できない。  図10には,iPhoneナヴィアプリGeographica上で梅松苑と天恩郷の位置を示している。ほぼ,北西ー南東軸上にある。みろく殿からすると天恩郷は南東方向にあり,万祥殿からすると北西方向にある。図9右図のみろく殿で,信徒はほぼ南東方向の神殿に向かう。いまだ図化していないが,万祥殿はすこし北寄りの西方向の神殿に向かう。なんとも方位設定が粗っぽいが,両聖地に拝むとすれば,一応,意味はわかるが,教えの欠如した神殿拝殿設計である。 以上,2024年11月11日記。 8. 本宮山は天恩郷の月宮殿跡地同様,禁足地に当たらない  聖師の時代は,天恩郷万寿山の月宮殿跡地も梅松苑長生殿跡地も禁足地には当たらず,梅松苑については図9に示しているが,建物や石碑が並んでおり,連日,信者が参拝していた。ぼくの体験では万寿山については昭和四十五年ぐらいから下品な結界や石碑が作られて,禁足地になった。聖師の教えを理解できず,それに反発し,三代教主が考えたことであった。 現行大本本部のスタッフは全然,聖師の教えを理解せず,三代の人間的観念にいまだに支配されている。  聖地は,古生代後期〜中世代中期の付加体を構成する太平洋プレートの沈み込み時に付加された岩石で構成されている。父と天恩郷月宮殿跡地を巡拝している時に聞いたことであるが,聖地の底つ磐根は,チャートからなるという。 大本七十年史 > 下巻 > 第五編 > 第一章 宣教の積極化 > 1 現界的活動へ > 大祭後の動き,には,木庭次守の調査結果の一部が記されている。木庭次守の業績は七十年史では排除されたが,無難な部分だけ,採用されている。 引用はじめ ————————————————(前略)月宮殿の敷地は、高熊山辺りからつらなっているチャート(Chert)質の岩磐で、天恩郷のなかでもっとも高く盛りあがったところである。その頂点が亀のかたちをしていたから、古くより亀岩とよび、その上に月宮殿が建てられることになったのである。 聖師は、一九二七(昭和二)年の七月九日から、月宮殿建設の高台に「国魂石」を引きあげさせ、自ら作業衣をまとうて一石一石を配置し、月宮殿を中心にした八字型の国魂宝座※がつくられた。まったく昼夜をわかたぬ緊張した作業であって、一三〇〇個の石が四〇日間で積みおかったのである。これについては、『水鏡』の「月宮殿の宝座」の章に、大要つぎのようにのべられている。(中略) すなわち聖師にあっては、高熊山修業以来約三〇年のあいだ、月宮宝座を築造する日が待望されていたのである。月宮殿は、聖師によって霊界において見分されたものを基本としてつくられたところの、わが国建築史上に類例のない建造物であった。その用材は「信真」に相応させて全部石材で、棟は十字形の構造である。屋根の構造や窓・天井などのつくりかたについては、東西文明の合流点てあるイラン、イラク地方の古代建築物を研究し、アジア古代の伝説的絵画を参考にした独得な構想からなるもので、家でもなければまた塔や堂宇でも神道的な神殿でもない。まことに創造的な建物であったといえよう。したがってその構造工作には多大の苦心がはらわれた。使用されたおもな石材は、力石・本小松石ほんこまついし・月の出石・日の出石・更沙石さらさいし・旭石・黄竜石・桜花崗石・曙石・班糲はんれい石・白大理石・蒼竜石・那智黒石・月石などで、それらの石の色によって立体的な色彩をあらわし、合計九〇〇〇個の石材がこれに使用された。なお月宮殿・国魂宝座の周囲は、青・白・黄の石材を粉砕して三色に色別したコンクリート塀でかこみ、正面の入口には欅けやきで門がつくられた。この門を瑞月門とよんでいる。これらの工事は、一九二八(昭和三)年一一月一二日に完了したもので、着手から約一ヵ年の歳月がついやされた。 聖師の歌には、〝霊界の姿をそのまま築きたる月宮殿の崇厳なる哉〟〝久方の天津神国の石宮を地にうつしたる月宮殿哉〟とよまれているが、月宮殿のたたずまいは、天恩郷の高台にそそり立ち一大偉観を呈していた。したがって完成後は、地元はもとより全国から拝観にくるものがおおかった。(後略)———————————————— 引用おわり  産総研の「日本シームレス地図」(20万分の1)では,天恩郷や梅松苑の地質は,前者は中世代ジュラ紀の海成砂岩,後者は古生代ペルム紀の海成層砂岩になっている。いずれもこの南方には古生代ジュラ紀のチャート帯が見えるが,この岩体が天恩郷と梅松苑の蓮の台はすのうてなである月宮殿跡地と長生殿基礎跡地に分布しているのである。木庭次守は,これを蓮の台と言っていた。聖師の言葉であろう。  現在,「長生殿」なるものが本宮山の西麓に建設されている(図11)。この建物にはぼくは違和感があって,一度も訪れていない。木庭次守の批判的な態度に影響されたのであろう。父はタニハの人々の希望で長生殿に一度参拝しているが,その後の父の態度を見てても長生殿に関心がなかったようである。ここでの祭式の様子が現行大本のWebページにみえるが,入ったことがないのでわからないが,図11からしても,神殿は南南西に向き,信徒は東北東に向かうことになる。図11からすると本宮山の蓮の台のほぼ中央に向かっている。  長生殿が本宮山に向かっているのは,聖師の心不在ゆえの結果だ。 大本七十年史 > 下巻 > 第五編 > 第四章 教団の発展と充実 > 2 教団の充実 > 神苑の造営と祭事,から次に引用する。 引用はじめ ———————————————— 一九三五(昭和一〇)年一〇月二七日、鶴山(本宮山)山頂に建設される長生殿の斧始式がとりおこなわれた。長生殿については、八月の主会長本部長合同会議の席上、聖師によってつぎのようにのべられている。「皇道を天下に宣布発揚せんとせば、どうしても大神様の神霊の奉安所を建てて神様に奉る必要が迫つてゐる……それで本年の一〇月二七日の記念日(第一次大本事件により大正一〇年一〇月二七日に本宮山神殿の破壊完了)に斧始式を執行したい。月宮殿は十字の形になつてをる。……乾坤に通じてゐるといふ精神から、皇道の本意を体し今度の長生殿も神様をお祀りするから、十字の神殿にした」。 しかし万祥殿といい、長生殿といい、ともに未完成のままに第二次大本事件をむかえるのである。———————————————— 引用おわり  この引用にあるように,第二次大本事件直前では,長生殿は基礎ができただけだ。そして,「月宮殿は十字の形になつてをる。……乾坤に通じてゐるといふ精神から、皇道の本意を体し今度の長生殿も神様をお祀りするから、十字の神殿にした」とあるから,同様の設計思想に基づいていることがわかる。  『大本七十年史』下巻折り込みの天恩郷の昭和10年の復元図を見ると,月宮殿に向かう入り口は瑞月門がある。その中心軸のほぼ北方向の延長に月宮殿がある。信徒はその月宮殿に拝する。つまり北面するのである。月宮殿は南面しているのである。そして本宮山の長生殿基礎も,月山不二も南面である。  祭壇は何故,南面するのか。信徒が北面して祈るように設計されているのである。祈りは何に向かっているのか。北斗である。北斗七星は街の明かりがなければ,北天の一部が晴れていれば通年ほぼ毎日観察することができ,同時刻に観察すると,北極星を年に1度周回する。この現象は多少注意力があれば,誰でも自ら発見できる。祈りは天の北極に向かうのである。その祈りの場を提供しているのが神殿である。それゆえ,おそらく権力三代教主の設計で,本宮山西麓に建設された長生殿の祭壇が南南西に向いているのは,神殿設計としては出鱈目と断言できる。本宮山の西麓であっても,長生殿は十字形で祭壇は南面すべきなのである。本宮山を御神体とするのは全くの誤謬である。  人は祭壇に向かって神に祈るが,祭壇に向かって拝んではいるが,祭壇は単に神につながる発信そして受信基地なのである。人は手近の祭壇に向かって祈るが,祭壇に祈るのではなく,祭壇を通じて宇宙の神に向かう覚悟が必要である。物理的祭壇にのみ祈っていては,神に通じることはできない。自ら信じる祭壇を通じて宇宙の神に祈る。祭壇を手掛かりにすると,たとえば聖師,開祖,二代,を通じて,独一真神に通じることになるのである。  無神論者はこの基本に思いが及ばない。ちっちゃな聖地に神は居ない。 以上,2024年11月12日。 9. 出口直美追放記念碑  図13はみろく殿で,この写真の左手の神苑入口左手に図12の看板がある。この絵図の左手には,図9右図に,つるやま工房や要荘,として赤マルで囲っており,現存しているが,二代教主(三代の母)と四代教主(三代の長女)の施設故に,消去されている。なんとも情け無いことである。恥ずかしい。図14には,不自然なアカマツの樹形が見える。マツクイムシが猛威を振るった時代の生き残りを残しているのだろうと思う。図13のススキが配されているのはなかなかいいセンスだと思う。これがないとかなり寂しくなる。  図12から外された要荘などに初めて向かった。図15〜17は,つるやま工房と要荘などの一画のみろく殿北側の車道から見た。  図9によると,掬水荘らしい。大本神苑内にありながら,この種の注意書きがあるのは,現行大本本部への警戒に間違いない。  図21〜23は掬水荘の外観である。  図24〜26は掬水荘の北東に隣接する掬水荘別館,図29は要荘など。仄聞するところ,三代教主体制のなか,出口直美を放逐し,このつるやま織工房など全施設の吸収を謀ったが,裁判で四代教主直美側が勝訴したらしい。  図9には,みろく殿の正面手前に,開祖由来のエノキがある。ここには簡易の祭壇があって,父に聞いた記憶があるが説明はなく,ただ拍手して二礼をしていた。図32のように,エノキ独特の葉脈で認定は簡単であった。大木ではあるのだが,ぼくの勤務先のものとほぼ同サイズだ。二度の大本事件でも天皇配下の官憲による伐採を免れている。  父の案内で開祖の元屋敷にも出かけた。このケヤキの裏手にある。図33の石碑の裏手には三代教主によるとされているのだろう。確認しなかった。素直ないい字だと思う。案内板には二棟あるので,図34は金明水の井戸になるのだろう。酷寒の日でも必ず水ごりをされてお筆先執筆に向かわれたと読んだことがある。元伊勢お水のご用 に由来が記されている。「第二次大本事件のときに埋められ、後日、金明水と銀明水の井戸は元のごとく掘りだされた」。元屋敷は大本開教の地である。貧しい開祖の小さな敷地から現在の神苑の拡大をみたのは聖師とその協力者の功績であろう。  図36〜40の石碑は元屋敷に隣接して配置されている。偽四代擁立のために,聖ヨハネ大聖堂での神事が利用された。この石碑こそ,四代直美を放逐した記念碑といえよう。聖師が,直美を開祖の生まれ変わりとして三代に続く四代として,高らかに宣言したのだが,その聖師の約束がその長女によって反故にされたのである。聖ヨハネへのこだわりは,開祖こそメシアとする価値世界を示しているのである。 10. 熊野新宮社参拝  梅松苑から山陰線を渡って,熊野新宮社にたどり着いた。図11の北寄りの「ふしみや」という料理旅館の前にある。なんとなく雑然としている。将来の六代教主の夫,出口孝樹さんが神官をされているということで訪問したが,社務所は閉まっていた。日曜日は休みなのか。図41中の左手に大きな石碑が見える。図43〜45はそれを。 すみこ 一行目:しみせんざんに こ 二行目:しおかけ うしと 三行目:らのこんじんまも 四行目:るとよ。 開祖第五女の出口すみこの歌である。開祖の獅子吼を繰り返し,とよ,と引用している。開祖と熊野神社がどうつながるのか,わからない。  境内拡張記念碑なるものが入って右手にある。聖師の歌の上にタイトルはどうかなあ。お歌を見ると,このお宮の拡張時のものか。日付がない。見えなだけか。七月二十八日の夏祭り(水無月祭り)が歌われているのか。 […]

皆神山の多様な施設と大本歌碑 diversified facilities and Ōmoto’s monuments at Minakami-yama

はじめに  『皆神山 – 参拝のしおり』(木庭次守編,昭和46(1971)年3月18日, 大本三代教主歌碑建設委員会発行,天声社印刷,非売品)を手にしているぼくは,飯塚弘明氏運営のOnipedia「皆神山」を本日参照して,大きな衝撃を受けている。この衝撃がこの投稿の主題の一つになった。  さて,皆神山は長野県埴科郡(現長野市)松代町豊栄(はにしなぐん まつしろまち とよさか)にある。図1中央の赤い十字を配置した山で,第四紀火山岩からなる溶岩ドーム地形を呈している。頂部がいわばかつての火口に当たっており,図2のように仏教の言う蓮華台を成しているのである。火道の上昇圧の低下に基づくものなんだろう。  図3は斜め写真でソースは不明である。図4のソースはキャプションに示している。図4右下隅には栗の花が満開なのでまさに梅雨前の様子である。図4では,皆神山山上が後背の山脈に近く,図2にみえる皆神山東方の683.9mの三角点付近からのものか。  工藤恭久(やすひさ)さんの通夜出席(2025年6月11日)を機に,翌日出かけた皆神山の取材を中心にこの投稿を構成したい。日程については,工藤恭久さん通夜出席のためカローラツーリングで信州へ に示している。 1. 王仁三郎の皆神山観 上掲の木庭次守(1971: p.3)の皆神山と題する小文を次に引用したい。 ——— 引用〜  大本の神示によれば,皆神山は神諭の世界十字に踏みならす霊場であり,世界の山脈十字形をなす神山であります。  大本の聖地綾部は世界の中心であり,日本の山脈十字形をなすところであります。皆神山の地形は大本の聖地綾部および亀岡ソックリの青垣山をめぐらす,蓮華台上にあります。日本は世界の縮図という観点からは,ヒマラヤ山に相応する霊山であります。  神素戔嗚大神に母神伊邪那美命より救世主贖主としての神業を依さし玉いし地教山に相応する霊山であります。 引用〜おわり ———  なかなか理解しにくい文章ではある。綾部は日本の山脈十字形をなすところで,皆神山は世界の山脈十字形をなす神山という。綾部は置くとして,皆神山が日本列島を大きく二分するフォッサマグナ中にあって,蓮華台を成している。この皆神山は,王仁三郎の『霊界物語』に出てくる,ヒマラヤ山=地教山,と考えられている。不勉強で,「世界十字に踏みならす霊場」の意味が理解できない。  図5,6は,Google Earthから切り取ったものである。図5には,伊豆半島が本州中部に衝突して,富士山とフォッサマグナが形成されているのが見える。その場に皆神山が位置しているのである。現富士山は活火山であるが,皆神山は火山ではなく,火山体とは言える。とは言っても,「世界十字に踏みならす霊場」とは到底言えないのである。現在の地質と霊界を結びつけるのは不可能なことである。 2. 松代群発地震と皆神山  松代群発地震については父も関心を持っていた。皆神山に三代教主碑を建立する話が進んでいた時代で,長野の信者さんからの問い合わせもかなりあったようである。そのことを父が僕に伝えている。1967年ごろか,ぼくの高校生に当たっていた。  群発地震の時期については次の報告に。 小林正志, 春原美幸,伊藤優,神定健二,北村良江,小山卓三, 2005. 松代群発地震はいつ始まったか? 気象庁精密地震観測室技術報告, No. 22, pp. 63-66.  最も著名な文献は次のものだろう。このあとの展開があるはずであるがなぜか,終焉しているようだ。研究費の枯渇だろうか。 瀬谷 清,1967. 松代群発地震および松代区域の重力調査の結果について. 地質ニュース,No. 144, pp. 1-10.  松代地震センターなるものがある。〒381-1232 長野県長野市松代町西条3,511TEL: (026) 278-2825 FAX: (026) 278-2420。  松代地震センターの地質ニュースの欄に次の成果が記されている。1967年に集中している。 発行年 巻号・頁 論文名・資料名・本名 著者名・編著者名 資料番号 1967 144, p1-10 松代群発地震および松代区域の重力調査の結果について 瀬谷 清 0448 1967 149, p1-11 松代群発地震地域をさぐる 沢村 孝之助・垣見 俊弘 0191-1 1967 149, p12-16 地震の経過 相原 奎二 0191-2 1967 149, p17-27 物理探査の結果について 瀬谷 清 0191-3 1967 149, p28-31 温泉と地すべり 中村 久由・前田 憲二郎・山田 隆基・山田 営三 0191-4 1967 149, p32-35 地化学探査 伊藤 司郎・永田 松三 0191-5 1967 149, p36-39 試錐調査・観測 高橋 博 0191-6  松代地震観測所と松代地震センターは同じ場所にあるが,何らかの博物館的機能もあるのかと感じたのであるが,どうもかなり閉鎖的である。松代地震センター のご案内というページがあって,「1965年(昭和40年)8月3日から始まった松代群発地震を契機に地震に関する資料センターとして1967年2月に設置されました。現在は松代群発地震を主題とする資料及び長野県で発生した地震資料の整理、公表を行うとともに当所と共同で松代群発地震の記憶の継承、地震知識の普及、地震防災意識の啓発を行っています。松代地震センターへのお問い合わせは下記連絡先までお願いします。電話 03-3434-9040」とある。機能していないかもしれない。一応,現地に行った際に,ジオラマとか,なんらかの展示があるかどうか,尋ねてみたいとは思っているが,期待できそうにない。このページにあったリンクをここに転載する。 以上,2025年6月10日。  工藤恭久さん通夜出席のためカローラツーリングで信州へ […]

篠村八幡宮その1 Shinomura Hachimangu Shrine, Part 1

はじめに  ぼくが生まれた旧亀岡町横町1番地から徒歩で行けるところに,篠村八幡宮があった。このお宮には,次の資料が所蔵(亀岡市文化資料館寄託)されている。参照:高氏の鎌倉幕府打倒と源氏再興を祈念した願文 (源朝臣高氏)足利尊氏直筆とされているが誤りだ。  高校時代の日本史の教科書に足利尊氏旗揚げ地とあって誇らしく思ったものである。おそらく小学校時代には篠村の友人を訪ねてここで遊んでいるであろうが覚えていない。 追記 2025年6月26日昼間: 篠村八幡宮へ何故行こうとしたのか忘れていた。 1. 車でのアクセス  前回の反省を踏まえて車でのアクセスルートを考えた。一般の者が利用可能な駐車場は図3(境内に設置されている)の青色で塗られた「神社専用駐車場」だ。前回もここに駐車できた。篠村八幡宮周辺は新しい宅地もあって,車1台しか通ることができない道もあるし,一方通行にもなっていない。  国道9号線の交差点「合戦野」から北(北東)に篠村の集落に入ってゆく。最初のT字路が京都府道402(王子並河線)で左方向の一方通行のようだ。50mほどの篠町篠の交差点を右折して,すぐにY字路の左を取って130mほど進んで,T字路の右を取って,すぐに左折すると柳の立つ旗立場の交差点があり,ここから右折すると左側がオープンスペースの神社専用駐車場だ。 2.篠村八幡宮の現状  次男ファミリーと篠村八幡宮に出かけた。ぼくの郷里の亀岡の歴史的意味を理解してもらう思いがあった。そしてぼくにとっては篠村八幡宮との意識的な最初の出会いである。ただ眺めるだけのものである。今後,何らかのヒントが訪れるであろうという思いである。何もこの投稿には発見はないだろう。まずは撮影した幾つかの写真をここに掲載したい。 以上,2025年6月25日の夜。 追記 2025年6月26日昼間: 道路で転倒のショックのあと,種々のことがあって,忘れていた。足利尊氏が願をかけた場はどこなのか,を知るべく,ここに出かけたのであった。写真を捨てるのは惜しくて,この観点で以下記したいと思う。  図3の篠村八幡宮境内マップをみると,マップの右手は境内よりも広い敷地に「篠村幼稚園」が設置されている。境内の上縁には,「八幡会館」があって,「篠区会議所」になっている。これに付随して大きな駐車場がある。現境内の敷地では,常設「相撲土俵」とする場が最も広い。  神社関係の神域としての施設の中心は名称からすると,本殿ー拝殿,である。その周辺には,疫神社,小宮社,稲荷神社,祖霊社など。史跡としては,矢塚と,左隅に境内から離れて,旗立場がある。 3. 地元では忘れ去られた足利尊氏  ぼくが高校時代に使った日本史の教科書には足利尊氏が亀岡市篠町から旗揚げしたと欄外の注記にあったのを見ている。教科書では南朝を支えた楠木正成などが英雄として記述されていて,ぼくは足利尊氏が悪い武将だという印象を持った。  日本史の教科書には北朝の系図があって明治天皇につながっていた。父に現在の天皇は北朝だから正義の系統ではない,と話しかけたら否定的な態度を示していた。今思えば,明治天皇から南朝系にすげ替えられていたので,現天皇はあからさまに南朝系なのだとは言えなかったのだと思われる。朝廷での女官などには,大本(教)信者もいて,すげ替えは公然の秘密であったという。王仁三郎の『霊界物語』にも暗示的なエピソードが入っている。この話はぼくの別の投稿に示しているのでこれ以上は述べない。  さて,足利尊氏が北朝を起こしたからこそ,北朝にとって意義ある篠村八幡宮は明治政府(近代社格制度)によって最下層の村社とされたと推測している。  Perplexityに質問した。「篠村八幡宮は、1333年に足利尊氏(当時は高氏)が鎌倉幕府打倒のために挙兵し、戦勝祈願を行った地として有名です。その後、尊氏は篠村八幡宮に勝利の礼参りをし、また社殿の建立や社領の寄進など、歴代の足利将軍家からも多くの寄進・保護があったことが記録されています。室町時代には足利将軍家から荘園の寄進が相次ぎ、神社の境内や社殿も拡大し、経済的にも保護されていたことがわかります。したがって、「篠村八幡宮は足利尊氏が興した北朝によって保護されていた」という推測は、歴史的事実に基づいており、誤りではありません。」  村社として規定された篠村八幡宮は,その宮司や氏子らによって村社として邁進してきた。その結果が篠村八幡宮の境内の形に見事に現れているのである。五百年余りの権力による保護の残骸が全く残っていないのは驚くべきことではあると思う。  図4に示すように,京都御所(京都御苑)と篠村八幡宮の距離は2線分で示すと10km余りである。源氏の八幡神(応神天皇)との繋がり,特に足利高氏と篠村八幡宮との関係は不勉強で知らない。日本史からすると図1の高氏自らの願文が国宝ではなくて,亀岡市に寄託されたままになっているのも,不思議なことだと思ったが,随行僧による代筆らしい。    篠村八幡宮にでかけて,旗立場がみつからず,図3上縁の神社専用駐車場に面する公園で幼児を遊ばせている若いお母さんに質問したら,「旗立場」が何なのか知らないという。小学生数人に質問しても,知らないという。次男の奥さんが図3の案内板を見て,ぼくを案内してくれたのである。ぼくが質問した公園に隣接していた。ミニ開発された個人宅の庭のような狭い場所がそれであった。  図5〜7は旗立場関連の写真である。柳の芽が赤紫色に膨らんでいた。 以上,2025年6月27日。 4. 願文のテキスト化 図1をあらためて,書き出すと, 敬白立願事右八幡大菩薩者王城之鎮護我家之 廟神也而高氏為神之苗裔為氏之家督於弓馬之道誰人不優異哉依之代々滅 朝敵世々誅凶徒于時元弘之明君為崇神為興法為利民為救世被成 綸旨之間随 勅命所挙義兵也然間占丹州之篠村宿立白旗於楊木本爰於彼木之本有一之社尋之村民所謂大菩薩之社壇也義兵成就之先兆武将頓速之霊瑞也感涙暗催仰信有憑此願忽成我家再栄者令荘厳社壇可寄進田地也仍立願如件元弘三年三月廿九日前治部大輔源朝臣高氏 白敬 以上,2025年6月29日。 5. 太平記の紹介  『太平記』巻第九,高氏篠村八幡に御願書の事,に旗立地のことが書かれている。 篠村八幡宮(足利尊氏旗あげの地)-亀岡市篠町篠上中筋-  この記述についての著者は明記されていないが,説得性がある。その幾つかを次に引用したい。 ——— 引用〜  元弘3(1333)年4月、鎌倉幕府の射手として上洛した足利尊氏が篠村に陣地を築き、同年4月29日八幡宮の楊の梢に源氏の白旗を掲げた。社に「敬白 立願事」の書き出しではじまる願文が蔵されている。願文は、[右八幡菩薩者、王城之鎮護、我家之廟神也・・・]と八幡菩薩尊崇の由来を述べる。尊氏は氏神の宝前で運命の先兆を祝し、感極まったことであろう。  さらに願文は、「・・・為利民、為救世、被成綸旨之間、随勅命所挙義兵也、然間占丹州篠村宿、立白旗於楊木本、彼木之本、有一之社・・・伝々」と挙兵の大義を述べ、白旗を掲げて必勝を祈願したことを述べる。そうして尊氏は目前の老いの坂を越え、洛中の鎌倉幕府の拠点六波羅を攻めた。探題北条仲時らは、光厳天皇と二上皇を奉じ鎌倉をさして落ちていく。同月、北条得宗の高時は鎌倉の東勝寺において郎党数百人とともに自刃し、鎌倉幕府は滅亡した。 幕府の射手であったはずの尊氏が天皇方につき、篠村八幡宮に必勝祈願し、六波羅を攻め落とした。建武の中興が成り、中興の元勲と仰がれた尊氏。願文を掲げた篠村八幡宮の冥護に祈謝したことであろう。  建武2(1335)年3月、僧理智円を篠村八幡宮別当職に当て、免田3町を寄せ、同年9月には上総梅左古の地を寄進している。翌建武3(1336)年には丹波佐伯荘地頭職、観応2(1351)年には同国佐々岐荘等を寄進して、別当職に醍醐三宝院僧正を当てている。三宝院僧正は尊氏の新任厚かった賢俊僧正である。尊氏の護持僧であったから篠村八幡宮の社運隆興はとどまるところがなかったであろう。  尊氏直筆の三宝院僧正宛文書(写真右下。醍醐三宝院蔵)がある。篠村八幡宮の別当職に賢俊僧正を当てるいわば辞令書であるが、文書は「丹波国しの村の八幡宮別当しきの事もとのごとくくわんれい候べくあなかしこ 観応二 十月廿六日  尊氏(花押) 三宝院僧正御坊」の意であるが、特にかな文字から尊氏の性格をおもうことができ、この書状は大変貴重なものだ。  尊氏の庇護のもと篠村八幡宮は数々の社領の寄進を受け大いに発展し、貞和5(1350)年8月には、尊氏自ら社参し、別当坊で行水し、浄衣に改めて参拝し、賢俊着座のもと諸神事が行われたことが三宝院文書にみえる。 引用〜おわり ———  この引用の最後の文書は,サントリー美術館に寄託されていて,その画像がネット上にあったので,次に引用する。   6. 亀岡の名木  図9の案内板には事典に書かれているような一般的な説明と行政的情報に限定されている。このお宮のツブラジイについての植物学的な情報がない。図10のように,背丈からすると樹冠が小さく,幹の下部と中部には枝が無い。かなり特別な雰囲気を醸し出す木であることは,読者も感じられるのではないでしょうか。  樹木の個性を引き出すのに,樹高と胸高幹周りだけで良いのかというはなしである。  図12, 13はナナミノキ。「樹皮からはトリモチが採取できる」とあるので,図12の幹周りの傷はそのためかと思われる。ツブラジイ同様,樹冠はかなり頂部に偏っている。その理由があるはずだ。 7. お宮と石碑  図13, 14に主要なお宮を示す。図13の右手に「足利高氏旗あげの地」の石碑,左手には矢塚があって,高氏が祈願した八幡宮の後継宮と考えて良いだろう。  図14の説明板では,乾疫(いぬいやく)神社は八幡様勧請以前のお宮。祭神は,建速須佐之男神,大己貴神,少彦名神で,出雲系である。例祭は1月19日,奇しくも王仁三郎昇天の日である。奈良時代以来の御霊信仰に基づいて乾の方角の丹波と山城の国境に勅願で創建された疫神社とされる。 おわりに  篠村八幡宮は,藤原⇨平氏⇨源氏,に関わる荘園に位置するようである。祭神の変遷も興味深い。また,参拝したいと思っている。とりとめもなく。 以上,2025年7月2日。