篠村八幡宮その1 Shinomura Hachimangu Shrine, Part 1
はじめに ぼくが生まれた旧亀岡町横町1番地から徒歩で行けるところに,篠村八幡宮があった。このお宮には,次の資料が所蔵(亀岡市文化資料館寄託)されている。参照:高氏の鎌倉幕府打倒と源氏再興を祈念した願文 (源朝臣高氏)足利尊氏直筆とされているが誤りだ。 高校時代の日本史の教科書に足利尊氏旗揚げ地とあって誇らしく思ったものである。おそらく小学校時代には篠村の友人を訪ねてここで遊んでいるであろうが覚えていない。 追記 2025年6月26日昼間: 篠村八幡宮へ何故行こうとしたのか忘れていた。 1. 車でのアクセス 前回の反省を踏まえて車でのアクセスルートを考えた。一般の者が利用可能な駐車場は図3(境内に設置されている)の青色で塗られた「神社専用駐車場」だ。前回もここに駐車できた。篠村八幡宮周辺は新しい宅地もあって,車1台しか通ることができない道もあるし,一方通行にもなっていない。 国道9号線の交差点「合戦野」から北(北東)に篠村の集落に入ってゆく。最初のT字路が京都府道402(王子並河線)で左方向の一方通行のようだ。50mほどの篠町篠の交差点を右折して,すぐにY字路の左を取って130mほど進んで,T字路の右を取って,すぐに左折すると柳の立つ旗立場の交差点があり,ここから右折すると左側がオープンスペースの神社専用駐車場だ。 2.篠村八幡宮の現状 次男ファミリーと篠村八幡宮に出かけた。ぼくの郷里の亀岡の歴史的意味を理解してもらう思いがあった。そしてぼくにとっては篠村八幡宮との意識的な最初の出会いである。ただ眺めるだけのものである。今後,何らかのヒントが訪れるであろうという思いである。何もこの投稿には発見はないだろう。まずは撮影した幾つかの写真をここに掲載したい。 以上,2025年6月25日の夜。 追記 2025年6月26日昼間: 道路で転倒のショックのあと,種々のことがあって,忘れていた。足利尊氏が願をかけた場はどこなのか,を知るべく,ここに出かけたのであった。写真を捨てるのは惜しくて,この観点で以下記したいと思う。 図3の篠村八幡宮境内マップをみると,マップの右手は境内よりも広い敷地に「篠村幼稚園」が設置されている。境内の上縁には,「八幡会館」があって,「篠区会議所」になっている。これに付随して大きな駐車場がある。現境内の敷地では,常設「相撲土俵」とする場が最も広い。 神社関係の神域としての施設の中心は名称からすると,本殿ー拝殿,である。その周辺には,疫神社,小宮社,稲荷神社,祖霊社など。史跡としては,矢塚と,左隅に境内から離れて,旗立場がある。 3. 地元では忘れ去られた足利尊氏 ぼくが高校時代に使った日本史の教科書には足利尊氏が亀岡市篠町から旗揚げしたと欄外の注記にあったのを見ている。教科書では南朝を支えた楠木正成などが英雄として記述されていて,ぼくは足利尊氏が悪い武将だという印象を持った。 日本史の教科書には北朝の系図があって明治天皇につながっていた。父に現在の天皇は北朝だから正義の系統ではない,と話しかけたら否定的な態度を示していた。今思えば,明治天皇から南朝系にすげ替えられていたので,現天皇はあからさまに南朝系なのだとは言えなかったのだと思われる。朝廷での女官などには,大本(教)信者もいて,すげ替えは公然の秘密であったという。王仁三郎の『霊界物語』にも暗示的なエピソードが入っている。この話はぼくの別の投稿に示しているのでこれ以上は述べない。 さて,足利尊氏が北朝を起こしたからこそ,北朝にとって意義ある篠村八幡宮は明治政府(近代社格制度)によって最下層の村社とされたと推測している。 Perplexityに質問した。「篠村八幡宮は、1333年に足利尊氏(当時は高氏)が鎌倉幕府打倒のために挙兵し、戦勝祈願を行った地として有名です。その後、尊氏は篠村八幡宮に勝利の礼参りをし、また社殿の建立や社領の寄進など、歴代の足利将軍家からも多くの寄進・保護があったことが記録されています。室町時代には足利将軍家から荘園の寄進が相次ぎ、神社の境内や社殿も拡大し、経済的にも保護されていたことがわかります。したがって、「篠村八幡宮は足利尊氏が興した北朝によって保護されていた」という推測は、歴史的事実に基づいており、誤りではありません。」 村社として規定された篠村八幡宮は,その宮司や氏子らによって村社として邁進してきた。その結果が篠村八幡宮の境内の形に見事に現れているのである。五百年余りの権力による保護の残骸が全く残っていないのは驚くべきことではあると思う。 図4に示すように,京都御所(京都御苑)と篠村八幡宮の距離は2線分で示すと10km余りである。源氏の八幡神(応神天皇)との繋がり,特に足利高氏と篠村八幡宮との関係は不勉強で知らない。日本史からすると図1の高氏自らの願文が国宝ではなくて,亀岡市に寄託されたままになっているのも,不思議なことだと思ったが,随行僧による代筆らしい。 篠村八幡宮にでかけて,旗立場がみつからず,図3上縁の神社専用駐車場に面する公園で幼児を遊ばせている若いお母さんに質問したら,「旗立場」が何なのか知らないという。小学生数人に質問しても,知らないという。次男の奥さんが図3の案内板を見て,ぼくを案内してくれたのである。ぼくが質問した公園に隣接していた。ミニ開発された個人宅の庭のような狭い場所がそれであった。 図5〜7は旗立場関連の写真である。柳の芽が赤紫色に膨らんでいた。 以上,2025年6月27日。 4. 願文のテキスト化 図1をあらためて,書き出すと, 敬白立願事右八幡大菩薩者王城之鎮護我家之 廟神也而高氏為神之苗裔為氏之家督於弓馬之道誰人不優異哉依之代々滅 朝敵世々誅凶徒于時元弘之明君為崇神為興法為利民為救世被成 綸旨之間随 勅命所挙義兵也然間占丹州之篠村宿立白旗於楊木本爰於彼木之本有一之社尋之村民所謂大菩薩之社壇也義兵成就之先兆武将頓速之霊瑞也感涙暗催仰信有憑此願忽成我家再栄者令荘厳社壇可寄進田地也仍立願如件元弘三年三月廿九日前治部大輔源朝臣高氏 白敬 以上,2025年6月29日。 5. 太平記の紹介 『太平記』巻第九,高氏篠村八幡に御願書の事,に旗立地のことが書かれている。 篠村八幡宮(足利尊氏旗あげの地)-亀岡市篠町篠上中筋- この記述についての著者は明記されていないが,説得性がある。その幾つかを次に引用したい。 ——— 引用〜 元弘3(1333)年4月、鎌倉幕府の射手として上洛した足利尊氏が篠村に陣地を築き、同年4月29日八幡宮の楊の梢に源氏の白旗を掲げた。社に「敬白 立願事」の書き出しではじまる願文が蔵されている。願文は、[右八幡菩薩者、王城之鎮護、我家之廟神也・・・]と八幡菩薩尊崇の由来を述べる。尊氏は氏神の宝前で運命の先兆を祝し、感極まったことであろう。 さらに願文は、「・・・為利民、為救世、被成綸旨之間、随勅命所挙義兵也、然間占丹州篠村宿、立白旗於楊木本、彼木之本、有一之社・・・伝々」と挙兵の大義を述べ、白旗を掲げて必勝を祈願したことを述べる。そうして尊氏は目前の老いの坂を越え、洛中の鎌倉幕府の拠点六波羅を攻めた。探題北条仲時らは、光厳天皇と二上皇を奉じ鎌倉をさして落ちていく。同月、北条得宗の高時は鎌倉の東勝寺において郎党数百人とともに自刃し、鎌倉幕府は滅亡した。 幕府の射手であったはずの尊氏が天皇方につき、篠村八幡宮に必勝祈願し、六波羅を攻め落とした。建武の中興が成り、中興の元勲と仰がれた尊氏。願文を掲げた篠村八幡宮の冥護に祈謝したことであろう。 建武2(1335)年3月、僧理智円を篠村八幡宮別当職に当て、免田3町を寄せ、同年9月には上総梅左古の地を寄進している。翌建武3(1336)年には丹波佐伯荘地頭職、観応2(1351)年には同国佐々岐荘等を寄進して、別当職に醍醐三宝院僧正を当てている。三宝院僧正は尊氏の新任厚かった賢俊僧正である。尊氏の護持僧であったから篠村八幡宮の社運隆興はとどまるところがなかったであろう。 尊氏直筆の三宝院僧正宛文書(写真右下。醍醐三宝院蔵)がある。篠村八幡宮の別当職に賢俊僧正を当てるいわば辞令書であるが、文書は「丹波国しの村の八幡宮別当しきの事もとのごとくくわんれい候べくあなかしこ 観応二 十月廿六日 尊氏(花押) 三宝院僧正御坊」の意であるが、特にかな文字から尊氏の性格をおもうことができ、この書状は大変貴重なものだ。 尊氏の庇護のもと篠村八幡宮は数々の社領の寄進を受け大いに発展し、貞和5(1350)年8月には、尊氏自ら社参し、別当坊で行水し、浄衣に改めて参拝し、賢俊着座のもと諸神事が行われたことが三宝院文書にみえる。 引用〜おわり ——— この引用の最後の文書は,サントリー美術館に寄託されていて,その画像がネット上にあったので,次に引用する。 6. いくつかの木々 篠村八幡宮で最も代表的な