皆神山の多様な施設と大本歌碑 diversified facilities and Ōmoto’s monuments at Minakami-yama

はじめに

 『皆神山 – 参拝のしおり』(木庭次守編,昭和46(1971)年3月18日, 大本三代教主歌碑建設委員会発行,天声社印刷,非売品)を手許にしているぼくは,飯塚弘明氏運営のOnipedia「皆神山」を本日参照して,大きな衝撃を受けている。この衝撃がこの投稿の主題になる。

 さて,皆神山は長野県埴科郡(現長野市)松代町豊栄(はにしなぐん まつしろまち とよさか)にある。図1中央の赤い十字を配置した山で,第四紀火山岩からなる溶岩ドーム地形を呈している。頂部がいわばかつての火口に当たっており,図2のように仏教の言う蓮華台を成しているのである。

 図3は斜め写真でソースは不明である。図4のソースはキャプションに示している。図4右下隅には栗の花が満開なのでまさに梅雨前の様子である。図4では,皆神山山上が後背の山脈に近く,図2にみえる皆神山東方の683.9mの三角点付近からのものか。

図1 20万の1日本シームレス地図 中央の赤い十字の場所が皆神山
図2 地形図に見える皆神山
図3 WNWからの斜め写真(ソース不明)
図4 https://home.tsuku2.jp/f/shokai/minakami 2025-05-25撮影 Eから撮影か?

 工藤恭久(やすひさ)さんの通夜出席(2025年6月11日)を機に,翌日出かけた皆神山の取材を中心にこの投稿を構成したい。日程については,工藤恭久さん通夜出席のためカローラツーリングで信州へ に示している。

1. 王仁三郎の皆神山観

上掲の木庭次守(1971: p.3)の皆神山と題する小文を次に引用したい。

——— 引用〜

 大本の神示によれば,皆神山は神諭の世界十字に踏みならす霊場であり,世界の山脈十字形をなす神山であります。

 大本の聖地綾部は世界の中心であり,日本の山脈十字形をなすところであります。皆神山の地形は大本の聖地綾部および亀岡ソックリの青垣山をめぐらす,蓮華台上にあります。日本は世界の縮図という観点からは,ヒマラヤ山に相応する霊山であります。

 神素戔嗚大神に母神伊邪那美命より救世主贖主としての神業を依さし玉いし地教山に相応する霊山であります。

引用〜おわり ———

 なかなか理解しにくい文章ではある。綾部は日本の山脈十字形をなすところで,皆神山は世界の山脈十字形をなす神山という。綾部は置くとして,皆神山が日本列島を大きく二分するフォッサマグナ中にあって,蓮華台を成している。この皆神山は,王仁三郎の『霊界物語』に出てくる,ヒマラヤ山=地教山,と考えられている。不勉強で,「世界十字に踏みならす霊場」の意味が理解できない。

図5 相模と駿河の両トラフと富士山そして皆神山
図6 上田市と長野市の間に皆神山(嘉佐八郎社)

 図5,6は,Google Earthから切り取ったものである。図5には,伊豆半島が本州中部に衝突して,富士山とフォッサマグナが形成されているのが見える。その場に皆神山が位置しているのである。現富士山は活火山であるが,皆神山は火山ではなく,火山体とは言える。とは言っても,「世界十字に踏みならす霊場」とは到底言えないのである。現在の地質と霊界を結びつけるのは不可能なことである。

2. 松代群発地震と皆神山

 松代群発地震については父も関心を持っていた。皆神山に三代教主碑を建立する話が進んでいた時代で,長野の信者さんからの問い合わせもかなりあったようである。そのことを父が僕に伝えている。1967年ごろか,ぼくが高校生に当たっていた。

 群発地震の時期については次の報告に。

小林正志, 春原美幸,伊藤優,神定健二,北村良江,小山卓三, 2005. 松代群発地震はいつ始まったか? 気象庁精密地震観測室技術報告, No. 22, pp. 63-66.

 最も著名な文献は次のものだろう。

瀬谷 清,1967. 松代群発地震および松代区域の重力調査の結果について. 地質ニュース,No. 144, pp. 1-10.

 松代地震センターなるものがある。〒381-1232 長野県長野市松代町西条3,511
TEL: (026) 278-2825 FAX: (026) 278-2420。

 松代地震センターの地質ニュースの欄に次の成果が記されている。1967年に集中しているのである。

発行年巻号・頁論文名・資料名・本名著者名・編著者名資料番号
1967144, p1-10松代群発地震および松代区域の重力調査の結果について瀬谷 清0448
1967149, p1-11松代群発地震地域をさぐる沢村 孝之助・垣見 俊弘0191-1
1967149, p12-16地震の経過相原 奎二0191-2
1967149, p17-27物理探査の結果について瀬谷 清0191-3
1967149, p28-31温泉と地すべり中村 久由・前田 憲二郎・山田 隆基・山田 営三0191-4
1967149, p32-35地化学探査伊藤 司郎・永田 松三0191-5
1967149, p36-39試錐調査・観測高橋 博0191-6

 松代地震観測所と松代地震センターは同じ場所にあるが,何らかの博物館的機能もあるのかと感じたのであるが,どうもかなり閉鎖的である。松代地震センター のご案内というページがあって,「1965年(昭和40年)8月3日から始まった松代群発地震を契機に地震に関する資料センターとして1967年2月に設置されました。現在は松代群発地震を主題とする資料及び長野県で発生した地震資料の整理、公表を行うとともに当所と共同で松代群発地震の記憶の継承、地震知識の普及、地震防災意識の啓発を行っています。松代地震センターへのお問い合わせは下記連絡先までお願いします。電話 03-3434-9040」とある。機能していないかもしれない。一応,現地に行った際に,ジオラマとか,なんらかの展示があるかどうか,尋ねてみたいとは思っているが,期待できそうにない。このページにあったリンクをここに転載する。

以上,2025年6月10日。

 工藤恭久さん通夜出席のためカローラツーリングで信州へ には,訪問の感想を述べている。ここで撮影した写真を次に。

図7 松代地震センター進入ルート側
図8 松代地震センター=松代地震観測所玄関
図9 ここから右手に長く研修施設が続いてゆく

 皆神山からこのセンターの途中に撮影した皆神山全景を図10に。

図10 皆神山から松代地震センターへの途中から(舞鶴山山頂東方麓から) 南麓から皆神山を望む

 松代深発地震については,後ほど,示したいと思う。とにかく,6月12日の観察結果を次に示したい。

3. 皆神神社の境内の核心

 図11, 12は皆神神社とその周辺の図である。
 図12は昭文社2007年のマップからの引用である(図12のリンク)。ゴルフの9コースが設置されているようだ。図11の空中写真と併せて見ることで理解できるであろう。入会地由来なのだろうか。皆神山も他の山同様,自然破壊継続中である。図12のJRレールのような記号は,図12作成者の自動車による移動ルートで赤色の破線は徒歩による移動ルートを示しているようである。

 なお,図11のGoogleMap元図は誤っている。図11の赤字が正しい。解説は後述している。熊野出速雄神社と称する建物は2件あり,修正後の「侍従坊」は本堂と拝殿を兼ねており,「本殿」は室町時代初期の社殿建築で中世修験道の遺構(長野県の県宝)とされている。嘉佐八郎社は本殿の東側の参道を北に上がった祠に該当するが図11では木々に隠れて見ることができない。

図11 境内とその周辺 Google map 2025
図12 境内とその周辺 昭文社2007

 

3.1 富士浅間神社と北辰信仰

 図11から読み取れるように,境内は北辰信仰を具現したものである。山頂に富士浅間神社(ふじせんげんじんじゃ,ふじあさま)が配されていて,古い遺構の上に現在の墓石のような全面花崗岩の構造物を載せたものと想像している。渡邊敏正さんのエッセーにあるように,富士浅間神社については,「富士山そのものを御神体とした信仰に始まったもので、その典型を富士宮の山宮浅間神社に見ることができます。社伝によると、大同元年(806年)に坂上田村麻呂によって現在の浅間神社に遷宮され、以後、小高い丘の上から富士山を遥拝する信仰が生まれてきました」とある。

 図5からわかるように,富士山は皆神山から遠く南南東に位置する。皆神山の境内の軸方向は富士山ではなくて,北辰にある。皆神山の富士浅間神社は富士山を遥拝せず,北辰を遥拝している。

 これは下記文献に示された飛鳥の谷の天の北極軸に対応している。

木庭元晴,2018. 飛鳥藤原京の山河意匠 ー地形幾何学の視点ー. 関西大学出版会,241p.(現在も出版されており,書店での注文が可能である)

 たとえば,「図5 飛鳥宮都の谷」を参照頂きたい。飛鳥時代にまで遡る観点がこの皆神山の境内に反映されているのである。妙見信仰はこれより,後のものである。

 なお,当山「富士浅間神社」の由来についての史料を知らないが,熊野出早雄神社本殿のさらに奥の院として山頂部に立地していることから,その立地については最も古いものと想像しているのである。

3.2 熊野出早雄神社と熊野修験道

 富士浅間神社=北辰信仰,に続いて,いわば,その麓に皆神神社が設置されたものと考える。近傍の諏訪大社の影響下に生じたものである。皆神神社の現在の,正式名称は熊野出早雄(くまのいずはやお)神社である。これは明治2年以降のことである。明治政府は神道の国教化政策を行うため、明治元年(1868)3月から、神社から仏教的な要素を排除すべく,神仏分離政策を実行した。それまでの名称については,https://www.nagareki.com/ の記述には納得できていないが,「熊野三社大権現」と呼ばれていたとのこと。デジタル大辞林によれば,「権現」とは,「特に神道(しんとう)の本地垂迹説において,仏が衆生を救うために日本の神の姿となって現れたとする考え。また,その現れた神。熊野権現・春日権現など」とある。

 前掲のhttps://www.nagareki.com/ によれば,次のようだ。

——— 引用〜

皆神神社が歴史的に明確になるのは室町時代後期の小河原家吉(供秀)からで、現在皆神神社に残され、往時は本地仏だった大日如来坐像、阿弥陀如来坐像、弥勒菩薩坐像が永正4年(1507)に奉納されています(3躯何れも長野市指定文化財)。この3躯の仏像は、皆神山の山頂を形成する3つの峰(東の峯・中の峯・西の峯)を熊野三山を模してそれぞれの本尊と見立てもので、この時には既に熊野信仰が確立し、さらに、現在の熊野出速雄神社(皆神神社)社殿も同時期である15世紀末から16世紀初頭の建築と推定され、規模からしても皆神山修験の勢力の大きさが窺えます(熊野出速雄神社社殿は長野県の県宝に指定されています)。

引用〜おわり ———

4. 散策:鳥居から山頂までの施設

 皆神神社境内の施設を南端の入り口から山頂までを並べた。2025年6月12日現在の様子である。

4.1 鳥居(平成18 (2006) 年新設)

 新設の境内南端のランドマークである。汎用の花崗岩質岩体から作成されたものである。図14の碑の土台石と同岩体から採取されたものであろう。黒い石碑は黒御影であろう。費用の観点から中国製の可能性が高いのではないか。この黒御影は境内で多用されている。扁額には「皆神神社」とある。

図13 鳥居を正面から
図14 正面からみて左手奥の由来碑 宮司武藤登書

4.2 随身門(江戸時代後期建造)

 一般に仁王門にあたるものであるが,ここでは随身(ずいしん)門がそれに対応する。神社仏閣の護衛に当たっている。江戸時代後期建造,平成30 (2018) 年国登録有形文化財指定。

図15 随身門
図16 随身門の扁額「皆神山」

 図16の扁額(へんがく)は図15の注連縄(しめなわ)中央の上方にみえる。この「皆神山」の左手には次のような署名がある。「海津廣従四位下滋埜朝臣幸弘」。この書の原本は境内の宝蔵庫の中にあるようであるが読みを記した情報はネット上ではみつからない。この署名が松代藩第六代藩主真田幸弘のものであることに違いはない。

——— 引用

 豊栄小学校にあった奉安殿を皆神山神社の猫丸の宝剣を保管するために移築 「皆神山の宝物」 宝剣 猫丸 板絵 普賢菩薩像 扁額の書 松代藩六代藩主真田幸弘が揮毫した「皆神山」の山号額の書 川村驥山筆「侍従大神」扁額の書 他

引用〜おわり ———

 「海津廣従四位下滋埜朝臣幸弘」の最初の「海津」については,長野市教育委員会松代文化施設等管理事務所 (2025) 松代-25号によれば次のようであり,真田家のきびしい時代を記していると言える。

——— 引用〜
 松代城は、武田信玄が築かせた海津城がはじまりといわれ、
城ができた時期ははっきりとはしないが、永禄3年(1560)
頃には完成していたとされる。武田家滅亡後は、織田信長の
家臣・森長可や上杉景勝の支配するところとなった。

 江戸時代になると、森忠政・松平忠輝・松平忠昌・酒井忠
勝らが居城としたが、元和8年(1622)に酒井忠勝が鶴
岡に移ると、上田城主であった真田信之が松代に移封される。
 その後、明治維新を迎えるまで、真田家が松代城を居城とした。
なお、藩主の御殿は、江戸時代のなかばまでは本丸にあったが、
その後「花の丸」という三の丸にあたる場所に移された。
改修・復元工事が終了し、平成16年(2004)から一般公開している。

引用〜おわり ———

 「海津廣従四位下滋埜朝臣幸弘」で,「滋埜」(しの)としているのは文人の雅号であろう。「廣」に該当する扁額中の字は「广に矢」である。なぜ「廣」が古城名と官位の間に配されているのか。江戸幕府下での不遇を託(かこ)つことから脱する肯定的意味があるのかもしれない。

 図17と19は随身像,図18の碑は,図15の随身門右手に見える。図14と18の碑文はいずれも当時の宮司武藤登によるものである。

図17 随身右近
図18 神社名碑 宮司武藤登書
図19 随身左近

4.3 湧水池と神々と

 図18右手後背には,市指定天然記念物「皆神山もクロサンショウウオの産卵池」なる標柱が見える。現在はかなり小さくなっているが,大規模破壊された古墳時代より前には天然林が広がっていた。その頃には,天然林の水のリザーバー効果で,山峰間の低所には比較的大きな湖が存在したであろう。人的破壊が進んで,辛くも小さな水たまりが境内に残っている。この湖の残骸の分布は図12に見える。

 図20の柵は参道と池の境をなすが,ネズミモチがほぼ等間隔で植えられている。サカキの代わりに使用されている可能性がある。図21のように,マガンが一羽見られた。

図20 ネズミモチが並んで植えられている
図21 マガン

 父の研究施設タニハにも鳥の糞から発芽成長しているものが見られて現在小さな花が咲いている。皆神山の花期はこれからなのであろう。昨日,タニハのネズミモチを図a, bを撮影した。図a, bは同株で,図aは根元近く,図bは上に伸びた若枝である。若枝の方にはまだ花は付いていない。図aの中央の株の背後のQuercus(オーク属)はアラカシだ。

図a タニハ 2025年6月18日撮影 ネズミモチには花が
図b タニハ 2025年6月18日撮影 ネズミモチの若枝には花はない

 図22には縮小してゆく池の様子が見られる。右手前はケヤキのようで首切られて後にひこばえが出てきている。左奥の祠には神仏名がないが,参拝路が確保されている。

図22 池畔と祠

 図23の看板には文化財や天然記念物の説明がある。

図23 文化財と天然記念物の指定情報

 皆神山のクロサンショウウオ産卵池 から次に抜粋する。

——— 引用〜

 サンショウウオ(山椒魚)科の動物で本種は比較的大きく、イモリぐらいある。本州では東北地方におり、南限は福井と岐阜の県境の越美山地・長野県諏訪山地・秩父山地・群馬県赤城山および福島県南部山地を結ぶ線だといわれている。
 長野県内では北アルプスや信越国境あたりの多雪地帯の山岳地に集中している。
 東信では菅平に一例あるが、松代のような標高の低い土地にいるのは珍しく、分布の南限のうえからも貴重な存在である。
 クロサンショウウオは山地の湿った地上にすみ、昆虫などを食べているが、産卵期にはイモリと同じように止水性の池や水たまりに群集する。産卵期間には大きな幅があって、北陸地方の平地では二月ごろから始まり、日本アルプスの高山地帯になると七月ごろである。
 卵嚢(らんのう)は紡錘形(ぼうすいけい)で大きく、ふつう30~40個の卵を収めている。この産卵池では10塊ぐらいの卵嚢が産卵される。

引用〜おわり ———

 オオサンショウウオには小学生時代に亀岡の年谷川で一人河原を歩いている時に出会(でくわ)したことがある。体長70cm以上はあった。目の前3メートルほどで甲羅干しをしていた。ぼくに気づいてゆっくりと川の中に入って行った。皆神山のはイモリぐらいだという。雨水池ではなく湧水池に産卵するようである。図23の標柱の左手の灌木もネズミモチである。

 図24は池畔の植生を示す。タニハの経験からすると,年数回の草刈りの結果と思われる。長く伸びたササダケは早くに採取すれば食用になるようだ。

図24 ホタルブクロ,スギナ,フジ,ササダケ

 図25〜27は池畔の石仏である。

図25 石仏
図26 石仏
図27 石仏(含図25, 26)

4.4 参道西側の天満宮と東側の喬木

 この石造りの天満宮の出自は古いように見える。人気の神様で多くの神社にある。太宰府に勧請(かんじょう)したのかは不明であるが,灌木は海岸植生由来のようにも見える。写真撮影の際は全く気づかなかった。鳥居の扁額に気づいただけであった。参道を隔てて図29のクスがあったように思うが失念している。幟(のぼり)に「学」が見えるので奉納されたものではないかと想像している。天満宮のそばに九州の卓越種クスが配置されていて,歴史的な意図があるように感じている。

図28 天満宮
図29 クス

 図30, 31にはスギとイロハモミジが接近または絡まっている。スギは植林でイロハモミジは自然植生である。イロハモミジは伐採が憚られて残ったものと思われる。当方のタニハでもイロハモミジは鳥の糞から発芽しており伐採しない傾向にある。

図30 スギとイロハモミジ
図31 スギとイロハモミジ

 図32のヒメバラモミについて,森林総合研究所の「希少樹種の現状と保全」の「ヤツガタケトウヒとヒメバラモミ」から次に引用する。これら「2種は自然に衰退しつつある氷河期の遺存種」と考えられている。その木が皆神山にも残存しているということである。

 イチョウの方は中国原産で銀杏から簡単に発芽生育させることができる。神社仏閣などで好まれてきた。

——— 引用〜

ヤツガタケトウヒとヒメバラモミはともにマツ科トウヒ属の常緑針葉樹である。ヤツガタケトウヒは胸高直径90cm、樹高35mに達するが、ヒメバラモミは胸高直径130cm、樹高45mとさらに大きくなる。球果の長さはいずれも3-8cmと余り変わらないが、幅はヤツガタケトウヒ(1.8-2.6cm)の方がヒメバラモミ(1.4-2.0cm)より大きい。2種はともに、長野県と山梨県の県境にある秩父・八ヶ岳と南アルプス北東部に分布している(ヒメバラモミの分布)。

引用〜おわり ———

図32 ヒメバラモミ
図33 イチョウの2本立ち

 図34のシラカシはまだ幼木だが,外から持参した苗の手植えではないかと思われる。図35はアカマツの幼木である。アカマツは皆神山自生のものである。今春タニハで発見したミドリの長い株を見つけたので撮影した。タニハでもアカマツだからといって,このようにミドリの長くなることはかなり珍しいと考えていた。それを皆神山でもみつけたのである。

 箕面から箕面森町への途中,新名神のインターチェンジ近くということで流通センターができて,人工的裸地に多くのアカマツが自生しているが同様の現象が見える。現在の気候との関係があるように感じている。

図34 シラカシの若葉と花
図35 アカマツのミドリが長い

4.5 熊野出速雄神社侍従坊

 図36は,随身門からまっすぐ北に進んだ場所のお宮にあたり,侍従坊と呼ばれ,本堂と拝殿を兼ねる施設となっている。図37の扁額「侍従大神」は佐久(長野県東信地方)の内山城主・内山美濃守満久の三男下野守三郎満顕にあたる。「13歳にして鞍馬山に入り密教を厳修、後に侍従・天狗坊と名乗り、皆神山の修験を完成させた人物」とされている。

 図36の建物の左手には登録有形文化財第20-0528, 0529号の表札が貼ってあるが何を意味するのかわからない。

図36 熊野出速雄神社
図37 扁額「侍従大神」

 図38に見えるように境内に所狭しとスギが植林されている。境内の範囲は,残念ながら,周囲のゴルフ場に圧迫されてかなり狭い印象である。古刹とされる神社ではこのような周辺環境は当たり前になっている。地元の人々には十分には支えられてこなかったことがわかるのである。図39は「熊野出速雄神社」の東側の祠群である。八百万の神々である。図39の右奥に上がる階段は本殿に向かっている。

図38 熊野出速雄神社からみて左前の植林スギ群
図39 熊野出速雄神社の東側に祀られている祠群

4.6 熊野出速雄神社本殿

 「4.5 熊野出速雄神社」との区別が難しい。Googleマップ(図11)にはかなりの誤りがある。長野市文化財データベースの「熊野出速雄神社本殿」の説明が最も信頼できるものであろう。

——— 引用〜

(前略)熊野出速雄神社はその本社に相当し、出速雄神ほか計7神を祭神として祀る。中世以降、熊野系の修験道の聖地として栄え、「熊野三社権現」と呼ばれた。(中略)

 本殿の建築年代について、社伝では康応元年(1389)の再建と伝え、また、野火で全焼したとの伝えもある。本殿の構造形式は、後述のように、15世紀末期ないし16世紀初期の特徴をもち、かつて内陣に安置されていた本尊(現在は本殿隣の宝物殿に安置)の底面及び台座の墨書「弥勒二年」(天文元年1532)の造立銘と年代的にほぼ符合し、15世紀末期ないし16世紀前期の建築と推定される。(後略)

引用〜おわり ———

 本殿はかなり風化している。図41は何らかの手が入った時のものであるがこれはかなり前のものであろう。写真を撮らなかったが,図41に見える東側面にはかなり頑強と思われる鉄格子が3本?入っていたが木枠自体は崩れていた。図40の注連縄部分には令和7年正月に掲げられた大きな看板があって功労者だろうか書き並べられていた。何らかの補修をした際の記念であろう。

 

図40 2025年6月12日現在
図41 上記長野市データベースから

4.7 天地カゴメ之宮(新設)

 図40の左手に黒御影の石碑や祠がみえる。平成元(1989)年10月10日とある。

 「昭和四九(1974)年一月二十三日(旧暦一月元旦),国常立大神お立ち上りの神示あり。諏訪大神より,二月五日節分から信州神業に発てと神示を受け,二月六日大雪の聖山神社へと向う。」で始まる「天地カゴメの宮 斉仕 神宮一二三」さんの報告である。その体験からお宮を建立したとある。不思議な内容だ。王仁三郎の教えとは異なる。「天地カゴメの宮 斉仕」と記されているので,皆神神社の関係者ではない可能性が高い。

図42 天地カゴメ之宮

図43の菊の中に等辺六芒星の紋章は何を意味するのか?

図43 天地カゴメ之宮建立由来碑

 で,驚くんだけど,この碑面に「天地カゴメ之宮」の説明がない。

4.8 庚申塔

 図44のように,本殿東方に庚申塔がある。本殿との立地の関係を意識したものだろうと思う。境内の東縁にある。

図44 庚申塔と後背の提灯の見える本殿とこの手前右は宝物殿

 図45の上部には庚申の庚(かのへ)の猿との関連から猿の顔が描かれている。図46にも字が描かれているが写真では読みにくい。現地で読み込むべきであった。庚申塔は道教や修験道などとつながる。裏面の平坦性は火山岩の節理面由来であろう。図44からすると,図45の表面は 申の方向の西南西を向くか?

図45 庚申塔の表(おもて)面
図46 裏面

4.9 本殿後背の「ヒムロビャクシン」

 本殿の北側にこの古木がある。長野市の文化財データベースには,これは記載されていない。

塚本のビャクシン(長野県)と矢沢家のヒムロ(長野市)の2件がある。

 矢沢家の方には,「『ネズに似た葉の柔らかい植物』ということになるが、正しくはサワラの園芸変種の名」とあり,塚本の方では,「ビャクシン(柏槇)はヒノキ科の植物で、本州・四国・九州に自生し、朝鮮半島・中国にも分布している。山上に自生することもあるが、多くは海岸近くに分布するものである」。

 サワラは,ヒノキ科ヒノキ属,ビャクシンは,ヒノキ科ビャクシン属で,皆神山の「ヒムロビャクシン」の名は欲張った命名ではある。ビデオが公開されている。樹木医の方の皆神山ヒムロビャクシンの診断2022年12月18日も参考になるだろう。情報としては,「昨日の朝、皆神神社の御神木の診断をしてきました。樹齢1300年ということもあり3本のうち2本は白骨化して盆栽の舎利のように迫力がありました。」とのこと。

 図47と48には立ち姿を示す。図47の後背の建物は本殿,図48の緑の葉のほとんどは隣接するスギのものである。図49のイロハカエデは枯れた幹に局在しているもので,図50の葉がおそらくこの巨木の葉と思われるがマツのように見える。図47のように注連縄があって御神木の位置付けであるが行政による指定はないようだ。

図47 皆神山の「ヒムロビャクシン」
図48 皆神山の「ヒムロビャクシン」
図49 イロハカエデが局在
図50 皆神山の「ヒムロビャクシン」の葉か

4.10 嘉佐八郎社

 「かさはちろうしゃ」の由来を示す資料はないようだが,少彦名神社にあたっているようだ。長野市文化財データベースにはない。ネット上の情報は建物の認定も間違っている。そのためか,図51, 52の祠の向かって左の柱に注意書きの看板がある。上から下へ三行で,「薬師の神,嘉佐八郎社,少彦名の命」とある。ネット上の「嘉佐八郎社」に関するすべての情報が誤っている。

図51 嘉佐八郎社 = 少彦名神社
図52 嘉佐八郎社 = 少彦名神社

 この祠を見ると,図53〜55のようなレリーフが配されている。

図53 滝の麓の少彦名命 向かって左手レリーフ
図54 嘉佐八郎社 正面上段のレリーフ
図55 鯉の滝登り 右手レリーフ

 

Perplexityさんによると,「鯉の滝登りのレリーフは、少彦名命のご利益である「成長・健康・成功」への願いと、鯉の滝登りが持つ「困難を乗り越える力」の象徴が共鳴したものであり、直接的な神話的由来よりも、信仰や祈願の象徴として神社に設置されているのが一般的です」とある。中国の言い伝えで鯉は滝を遡って龍となる。

 父木庭次守が1971年,後述のように,この祠のそばに石碑を建立した。その際の石工による工事の様子を何枚か,写真を撮っている。半年前ぐらいに見た。探す気になれば可能であるが,今はここに掲載できない。その写真の中に,祠の基礎工事の写真があって,ぼくは,石碑とのつながりがわからず不思議に思っていたのである。

 想像するところであるが,当時の宮司の要望に応えて,この祠の基礎を気づいていたことになる。祠はまあ,安普請で歴史も感じさせない。おそらく,工藤恭久さんのご両親の出資で基礎とその上の祠を新たに建設したのであろう。これより前に,嘉佐八郎社があって,朽ち果てていて,その復興を実施したのであろう。

 前述のように,この祠の左の柱にはメモ書き「薬師の神,嘉佐八郎社,少彦名の命」があって,世間の誤解を解くべく,宮司が設置したものであろう。全くの想像だが,かつて「嘉佐八郎」を記念して,「薬師の神=少彦名の命」の祠が設置されていたのではないか。

 この祠の東手,上手には,大本教に関わる石碑が立地しているが,別途,後述したい。

4.11 富士浅間神社

 

 皆神山での富士浅間神社の勧請の由来は残されていないのか。何故山頂に設けられているのか,わからない。

図56 嘉佐八郎社から富士浅間神社を望む

図57 富士浅間神社
図58 富士浅間神社から嘉佐八郎社を望む

図59 富士浅間神社の説明: 
安産火伏神 富士浅間神社
図60 花崗岩による祠(富士浅間神社)
図61  富士浅間神社裏の井戸跡か

以上,2025年6月22日。