日本タニハ文化研究所の使命とは What is the mission of the Nihon Taniha Cultural Research Institute?

はじめに  昨日,タニハで整理していて,日本タニハ文化研究所立ち上げの新聞に出会った。父の社会的動員力に改めて脱帽である。記事の内容を見ると,父の立ち上げ時の思いが伝わってくる。立ち上げの年月日がぼくには,はっきりしなかった。昭和四十九(1974)年10月十八日である。父に最もかかわりのある熊本県山鹿市の瑞霊苑碑との関係があるかと思うが,まだ把握できていない。  この投稿ではアイフォーンで撮影した新聞記事の紹介をし,その後,同研究所での活動の一端を示して,同研究所の今後について考えたいと思う。 1. 京都新聞記事2件 1.1 昭和49年10月8日(火)記事 丹波の歴史解明の拠点 タニハ文化研究所が完成  丹波の歴史を解明しよう ー と、亀岡市本梅町平松で建設が進められていた「タニハ文化研究所」がこのほど完成。十八日には地元民ら関係者を招きしゅん工式を行う。これまでの建設の中心となってきた同市古世町北古世、歴史研究家木庭次守さん(五七)は「ここを拠点に埋もれた資料を収集、ユニークな丹波文化史をまとめたい」と意気込んでいる。  木庭さんは熊本県の出身で,昭和七年、大本熊本支部で初代教主出口王仁三郎師に会って以来、その人物と著書にひかれ大本教に入った。木庭さんと出口教主との親交は、昭和十年から始まった大本弾圧など(を)通じますます深められたが,一方で、世界統一などを叫ぶ出口氏を生んだその風土を理解したい ー と丹波文化に興味を持ちはじめた。  「たんば(丹後、但馬を含む)は、古代二大文化圏の大和、出雲地方に匹敵する文化発祥の地で、むしろたんぱの文化が両地方に波及した」というのが木庭さんの仮説。天橋立を中心に大陸との交流が行われた ー と見ているが,これらを裏付けるまとまった資料がない。丹波文化解明の資料が少ないのは「都に吸収されると同時にこの文化が全国に散らばった」と木庭さんは言っている。  ナゾの多い丹波の文化史をまとめるには、これら資料を全国から集めるとともに、埋もれている郷土史家の研究や古文書,伝説などを一堂に集め、研究者の意見交換の場が必要として,全国各地の有志二十人が集まり,建設委員会を設立,研究所の土地約三百平方メートルは地元の農業森義一さん(八六)が趣旨に賛同して提供した。歴史学者の上田正昭京大教授らが顧問に名を連ね、昨年四月中旬から建設が進められてきた。  完成した同研究所は、木造平屋建、約二百七十平方メートル。うす緑色のレンガで建物の周囲は石で囲まれている。「タニハ」の名前は丹波の語源から取った。木庭さんら関係者は「丹波は足利尊氏,明智光秀,出口王仁三郎ら反骨精神盛んな興味ある人物が輩出しており、今後埋もれた資料などを集め研究していけば,これまでの学説をくつがえすような丹波文化史が出来上がるのでは…」と研究所の完成を喜んでいる。 (写真説明:亀岡市に完成したタニハ文化研究所) 1.2 昭和49年10月19日(火)記事 まず10年間で古代史 取り残された歴史を発掘  ナゾの多い丹波の歴史を解明しようと、亀岡市本梅町平松で進められていた「タニハ文化研究所」の完成披露式が十八日、同研究所研さん室で開かれた。  席上、建設の中心となってきた同市古世町北古世,歴史研究家木庭次守さん(五七)は「ここを拠点に十年計画で埋もれた資料などを集め、丹波文化史をまとめると共に、日本古代史の多くのナゾをも解明したい」と意欲を披露した。  完成した同研究所は、木造平屋建て約二百七十平方メートル。研さん室のほか書庫,宿舎,談話室などがあり、タニハの名は丹波の語源から取った。全国各地の協力者の寄付金をもとに昨年夏から着工していた。研究グループは,木庭さんの趣旨に賛同した長野,鳥取,熊本各県の全国各地の郷土史家や民俗研究家たちで、徳川宗敬日本博物館協会会長や上田正昭京大教授(古代史)らも協力を申し出ている。  披露式は午前十時から開かれ、平田亀岡市長、酒井同議長ら地元名士のほか上田穣京大名誉教授ら六十人が参加、上田教授は「ここを拠点に日本文化の花が立派に開花することを期待しています」とあいさつ。ビールなどで乾杯し完成を祝った。  計画では三十年間の長期予定で、丹波総合史の編集作業に着手。初期の十年は丹波古代史の執筆、残り二十年は丹波の中世、近世の史料収集と執筆を行う。木庭さんは「たんば(丹波、但馬を含む)は、古代二大文化圏の大和、出雲地方に匹敵する文化発祥の地で、むしろたんばの文化が両地方に波及した」と大胆な仮説を打ち出している。  このため木庭さんはじめ関係者は「これまでの日本史の中から丹波研究は取り残されてきた。全国に散在している丹波に関する史料を集大成すれば、丹波の一大文化圏が浮かび上がり、これまでの学説をくつがえすような歴史的真実も現れるのでは……」と研究所の完成を喜び合っていた。 (写真説明:タニハ文化研究所の完成披露式) 2. 解説  父から当時の森儀一さんとの出会いは聞いている。不思議だなあ,と繰り返し言っていた。いくつか建設の候補地があったが,森儀一さんとの出会いが大きかった。森さんは出口王仁三郎を敬愛していたという。そこで父に土地の永年無料貸与となった。ぼくは一度父と儀一さんと娘の綾子さん宅にお邪魔してご挨拶したことがある。お二人に歓待していただいた。  旧大阪府道・京都府道731号天王亀岡線(おおさかふどう・きょうとふどう731ごう てんのうかめおかせん)が敷地の前を通っている。この天王亀岡線は,大阪府豊能郡能勢町から京都府亀岡市に至る一般府道であるが,父存命中にこの南の谷筋にバイパス建設が始まって,今は府道ではあるが,このバイパスが天王亀岡線となった。  敷地は,この府道から谷底への斜面で何段かの棚田があった場所だ。建物の基礎が課題だと父から聞いていた。その後,また出会いがあって?山から大量の岩の捨て場所に困っている?方があって,その岩を使って埋め立てることになったと父から聞いている。ぼくにとっては断片的な話である。  その後,義一さんが昇天されて,綾子さんから父に老後の費用を無心されるようになり,親戚一同との高い圧の話し合いにぼくも筧さん(元大本青年部長で父とタッグを組んで多数の出版業務を実施)と同席した。ぼくが大学院博士課程の時代である。結局,当時500万円余りで購入したようである。当時,この場所の登記をした北野司法書士事務所(現亀岡市役所の前)に行って聞いたが妥当な価格だと言っていたのであるが,数年前に京都府山城町の環境問題に関わった際にわかったのであるが異常に高値であった。  さて,「天橋立を中心に大陸との交流が行われた 」というのは,予言者出口王仁三郎の『霊界物語』に基づいている。 ——— 引用〜『霊界物語』第十六巻序文  いよいよ本巻ほんくわんより、古称こしよう自転倒おのころ島じますなはち現代げんだいの日本にほん国内こくないにおける、太古たいこの霊界れいかい物語ものがたりとなりました。十五じふご巻くわんまでは天教山てんけうざんおよび大台おほだいケ原山はらさんを除のぞく外ほかすべて海外かいぐわい諸国しよこくの物語ものがたりです。  本巻ほんくわんには、神かむ素盞嗚すさのをの大神おほかみの生うみませる八乙女やおとめの御お一人ひとり、英子姫ひでこひめが、メソポタミヤの顕恩郷けんおんきやうより、邪神じやしんのために老朽船らうきうせんに乗のせられて海原うなばらに流ながされ、漸やうやくにして日本海にほんかいを横断よこぎり、丹後国たんごのくに天あまの橋立はしだて附近ふきんの竜燈松りうとうまつの根元ねもとに安着あんちやくし、大江山おほえやまに割拠かつきよせるバラモン教けうの大棟梁だいとうりやう鬼雲彦おにくもひこの部下ぶかの悪党わるものどもに出会であひ、種々しゆじゆ辛酸しんさんを嘗なめ、遂つひには由良ゆらの湊みなとの人子ひとごの司つかさ秋山彦あきやまひこの館やかたに身みを遁のがれ、ゆくりなくも、父ちち素盞嗚すさのをの大神おほかみおよび国治立くにはるたちの命みことの御おん分霊わけみたまなる国武彦くにたけひこの命みことに面会めんくわいし、大江山たいかうざんに鎮しづまり給たまふ鬼武彦おにたけひこ一派いつぱの白狐びやくこに救すくはれ、或あるひはウラナイ教けうの棟梁株とうりやうかぶ、高姫たかひめ、黒姫くろひめの死者狂しにものぐるひの大活動だいくわつどうより、剣尖山けんさきさん麓ろくの谷川たにがはにおける御禊みそぎの修業しうげふ、皇すめ大神おほかみの貴うづの御舎みあらかの建設けんせつならびに天あめの真名井まなゐ嶽だけに向むかつて、悦子姫よしこひめは四五しごの従者じゆうしやと共ともに進すすみ入いり、豊国姫とよくにひめの尊みことの御ご降臨地かうりんちを探たづぬる一条いちでうや、厳いづの御魂みたま、瑞みづの御魂みたまの大神おほかみが、綾あやの高天原たかあまはらの蓮華台れんげだい上じやうに、神秘しんぴ的てき経綸けいりんの基礎きそを開ひらき給たまふ深遠しんゑんなる経緯けいゐの大略たいりやくを述のべて置おきました。猶なほ引続ひきつづき数巻すうくわんに亘わたり内地ないちの物語ものがたりであります。 引用〜おわり ——— 飯塚弘明の王仁DBコンテンツ使用  これだけ見ても,もちろん理解できない。この部分こそ,天孫降臨に関わる場面と父は考えていた。『霊界物語』研究のアプローチとしてタニハ文化の追求があったのである。門脇禎二(1986)『日本海域の古代史』東京大学出版会,の内容は,天橋立竜燈松よりかなり後のことと考えて良い。  上掲記事で述べらている研究方針は残念ながら実現されていない,というか記事どおりではない。父の現史学へのロマンが記事と関わる言動に繋がったのであろうが,木庭次守の研究の中核は出口王仁三郎口述『霊界物語』であった。日本タニハ文化研究所の設立は父の何十年にも亘って準備された夢の実現であったと思う。この成果については別途,示したいと思う。  図3と図4は,木庭次守編・木庭元晴監修(2010)『霊界物語ガイドブック』八幡書店,からピックアップしたものである。図3の第十六巻梗概のはじめに,「いよいよ本巻から自転倒島(おのころじま)すなはち現代の日本国内における太古の霊界物語である」,とある。図4の左図は,第十七巻に関わって掲載された「綾部付近の略図」を示している。  記事中の「これまでの日本史の中から丹波研究は取り残されてきた。全国に散在している丹波に関する史料を集大成すれば、丹波の一大文化圏が浮かび上がり、これまでの学説をくつがえすような歴史的真実も現れるのでは……」とあるが,「埋もれた資料」というのは結局,遺跡遺物にあたる。郷土史家や好事家が秘匿している資料ではない。いわば,縄文遺跡からメソポタミアとのつながりに関わる遺物が発見されたとすると,竜燈松のエピソードが証明されたことになるのだろう。  出口王仁三郎口述『霊界物語』は,王仁三郎が高熊山修行で霊感修得した世界観であって,現在の歴史学的知見とは相容れないが,実は王仁三郎説は荒唐無稽ではなく,事実に基づいているという木庭次守の確信からの発露なのである。  簡素な資料と素朴な歴史観から構築されてきた現在の歴史学,は,いわば「埋もれた資料」をも利用してきたものであり,父の論点からでは,『霊界物語』の世界は,素朴な思考を続けてきた研究者には受け入れられない,とぼくは感じている。父は生涯,周囲の研究者を尊敬し憧れもしてきて,その延長で,『霊界物語』を現代社会に根付かせようとしたのであるが,この二つの世界の間には途方もないほど高い壁がある。  亀岡市史は,亀岡市史編纂委員会編(1960)『亀岡市史』と亀岡市史編さん委員会編(1995〜2000)『新修亀岡市史』があるが,いずれも大本教団や出口王仁三郎には一切触れていない。戦後の原水爆禁止運動や世界連邦運動では大本教団は日本さらには世界的に活躍したのであり,「世界連邦・非核平和都市」宣言第一号は綾部市で,第二号が亀岡市であることを見ても,大本教団の役割がわかるが,それでも完全無視をしているのである。上田正昭は,『大本七十年史』『新修亀岡市史』の編集責任者であったが,歴史から大本教団と出口王仁三郎を排除しているのである。  父の言う「埋もれた歴史」というのは,実はこの現実を言っていると考えられるのである。木庭元晴は,古代タニハ「丹の海」とその排水プラグを地形発達史から復元 ,のPart 1を2026年春にまとめた。その過程で亀岡盆地中南部の弥生・古墳時代の先進性について学ぶことができた。偶然,父の夢の一部を形にすることができて嬉しい。これは関西大学文学論集Vol. 75, No. 4に掲載される。近いうちにKindle版でも発行したいと思っている。主に自然地理学的手法を使っている。地形学的観点から学会誌にも掲載予定である。 以上,2026年3月6日。 3. 資料廃棄過程  残された資料を見ると,亀岡市文化資料館からの資料,園部町教育委員会からの資料,などの地元行政機関からの資料,複数の大学宗教学教室のタニハでの合宿の報告書,メジャー出版社から発行された教養シリーズなどである。これらは日本タニハ文化研究所立ち上げ後のもので極めて零細な収集である。  朝日新聞とその関連の資料(eg. 朝日ジャーナル)は戦後ずっと続けて収集されてきたもので膨大で,スペース確保のために,ほぼすべて廃棄した。日本岩石鉱物鉱床学会誌,日本第四紀学会誌,日本地質学会誌,日本鉱物趣味の会誌なども膨大で,戦後出版されたすべてが揃っていたがほぼ全部廃棄した。タニハで保管する意味がないからである。  父は紙一枚,廃棄できない人であった。残っている原稿用紙束も多かったが,最初の数ページだけ書いて,残りは白紙という形が多い。この現象をみて,ぼくの小学生時代を思い出した。小学校の担任の先生から母が呼び出されて,ぼくのノートの使い方が,最初だけ書いて白紙のままで,あらたにノートを買っているという悪習癖を指弾されたのである。悪いこととは知りながらその傾向が消えなかった。潔癖な父とずぼらな僕との類似性である。  父はやたらと紙を集める習癖がある。本や論文作成というか事典の索引作りのために見出しなどが印刷された厚紙がやたらと多く残っている。ぼくは廃棄しきれずにその半分近くは残してきたが,近いうちに廃棄する必要があるだろう。廃棄するにしても,まずは残しておくと,廃棄しやすくなる。 以上,2026年3月4日。 4. 残すべきものは さて。 以上,令和8年3月6日。

父の著作と背広と the collection of my father’s masterpieces and wardrobe

はじめに  父の最晩年著作本の在庫を捨てる訳には行かない。これがやたらに多く長く廊下に山積みになっていた。父昇天のちに移動してダンボール箱の下にスノコを敷いたりしてきたのだが,どうにもならず,メタルラックを購入して過去,整理していたのであるが,まだ残っていた。それを昨晩ついに,全部メタルラックに入れることができた。長くメタルラック設置の場所が確保できなかったが,衣服の箪笥を廃棄してスペースを開けた結果である。  残っていた整理ダンスなど4個を廃棄した。その中の衣類はかなり処分したが,父の背広などや母の着物の反物を一部残した。東の間に置いていた箪笥一つと段ボールに何とか整理できたのである。これで次のステップ?に頭が回ることになる。一つ一つ解決することで,次の作業テーマが見えるのである。懸案の倉庫に残ったものにまた掛かろうか。暑くなると蚊も出てきて入れなくなる。 1. 家具廃棄例  図1のように,西之間南側廊下には,家具3個があって,無駄な抵抗感で残すべくクリーニングもしたが,結局すべてを廃棄した。図2や図3のように,一部,修理用にと残した。整理ダンス廃棄は一人で実施するにはかなり重かった。図4のように二分してクリーンセンターに運んだ。図5〜9のように,雑巾掛けをしたが全く汚れは取れず,サンダーを使用した。 2. スティールラックを使用  図10の確保していたラックを使用して図12にあった段ボール箱を収納した。新たにラックを2本注文し,図13にあった段ボール箱を収納した。 3. 衣類と本の整理と  図14〜19に見える箪笥は東棟から移動したもの。唯一の箪笥になった。内装は桐製。大きな引き出しは父の背広で満杯になった。それで母の着物は図18のような段ボール箱(メタルルミナスラックのもの)に入れたが詰めすぎになってしまった。  図20には今回の本収納結果を示している。二つの段ボールの山であったが,この二竿だけでなく,以前収納した図21の最上段の二段重ねの隙間を埋めることで何とか収納できた。かなりの重量で廊下が沈没しないか心配であるが,父の話では本収納ために三間の周辺を強化したことを聞いていた。父が嬉しそうにぼくに伝えた時の状況を思い出すのであるが。母の着物を二分するために残りのラックを組み立てて,もう一つの段ボール箱を確保した。図20に見えるように,ラック屋上に二箱を載せている。蓋が開かないように松製のスノコを重しとして利用している。  なお,衣類はすべてアマゾンから購入した不織布で包み,防虫剤を入れている。[不織布 袋 特大 入り数量:10枚。寸法: 約高さ60×長さ90cm。開口部は90CMの長辺]で10袋1700円ほど。20袋を使用した。 おわりに  また懸案の一つが一応ではあるが片付いた。次は倉庫か,それとも昨年冬に倉庫から出した書類の整理か,それとも………。この冬の仕事であった。 以上,2026年3月2日。