丹波国南桑田郡の和銅二年「創立」四宮と他の二宮 Four shrines ‘established’ in the second year of Wadō (709 AD) and other two shrines in ancient Tanba-south Kuwata Province

はじめに  大宝元(701)年,大宝律令が制定され,地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。  京都府教育会南桑田郡部会編(1924)『南桑田郡誌』を参照すると,薭田野神社について(pp. 197-198),「和銅元 (708) 年大神朝臣狛麻呂(おおみわのあそみこままろ),初めて丹波國守となり,同二年本社を創建すと云ふ。」などとあり,これと同様の記事は,現亀岡市域の他の神社三社にも見られ,大神朝臣狛麻呂(おおみわのあそみこままろ)に関わる丹波國での「創建」[i]はこの計四社であった。他の三社は,鍬山(クハヤマノ)神社(祭神:大巳貴(おほなむち)尊,pp. 168-172),出雲(イヅモノ)大神宮(祭神:大国主(おほくにぬし)命,pp. 205-212),小幡(ヲハタノ)神社(祭神:開化天皇,pp, 192-197)で「創建」年次は一致している。いずれも延喜式に掲載されている。 [i] 四社ともに「創建」とあるが突然祭神を決めることはできず,すでに丹波での名声があった上での新たな国司任官を機とする権威付があったのであろう。秦氏などとの勢力図との関連もある。 1. 請田神社と桑田神社も和銅二年「創建」グループに属するか  筆者はさしあたり,上記四社を和銅二年四社としたが,歴史家からは確定されていないが,請田神社も和銅二年「創建」の可能性は高いように思われる。『南桑田郡誌』を流し読みした際に気にはなったが,この和銅二年「創建」の記述はなかったので,このグループに入れてはならない,と考えた。 1.1 『南桑田郡誌』とWikipedia  しかしながら,現地の社傳(看板か?)にはその旨が記述されているらしい。ウィキペディアは好きではなく,書いた本人も実際に見たようではないらしい。近くなので訪問したいと思っている。もし書かれているとすると,『南桑田郡誌』担当者が見過ごしただけかもしれない。そもそも,和銅二年四社についても早くて鎌倉時代初期の文書に残っているだけであって,確定的資料は存在しない。ウィキペディアの請田神社記事と『南桑田郡誌』(p. 213-)からすると,次のようにまとめられる。 『南桑田郡誌』請田神社及八幡宮: 保津村。古来,松尾神社とも称せられる,とあって,丹波が国司着任前の秦氏の勢力下にあった時代からの神社という見方も可能である。  祭神大山咋神。保津川対岸の篠村字山本には,桑田神社(p. 180)があり,祭神大山咋神他二神を祀る。もと請田大明神と称せしが,明治十年桑田神社と改称。  いずれが延喜式の丹波桑田郡松尾神社かは,不明。兵火に何度か遭っている。 Wikipedia: 社伝では,創建,和銅2 (709) 年という。社地の名を「岩尾」と言ったということから,平安時代中期の『延喜式』神名帳において丹波国桑田郡に「石穂神社」と記される式内社の論社に比定されている(注記:式内社の後裔を現在の神社に比定する研究は古くから行われ,延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のことを論社(ろんしゃ)・比定社(ひていしゃ)などと呼ぶ)。理由は不明ながら同じく桑田郡の式内社松尾神社とする説もある。  延喜式には,松尾(マツノヲノ)神社,石穂(イワホノ)神社,桑田(クワタノ)神社の三社が見える。保津川対岸の篠村字山本の桑田神社は,上述の「もと請田大明神と称せしが,明治十年桑田神社と改称」という件と,捏造がないのであれば,現桑田神社は,延喜式の同名神社に対応すると考えて良いのではないか。社傳から当時の関係者が社名を戻したと考えるのが妥当ではないか。  そして,Wikipediaで紹介する社傳(看板?)の記述を信頼するとして,請田神社は石穂(イワホノ)神社となるのであるが,『南桑田郡誌』「古来,松尾神社とも称せられる」という情報の根拠の方が妥当なように思われたりする。とにかく,一度,社傳(看板?)の記述とできれば,その根拠も知りたいところである。  Google Earthで,京都府亀岡市請田神社で検索すると,保津町立岩4のそれにヒットした。保津川峡谷の亀岡盆地側入り口にあってかなり危なっかしい。保津川開削の記念碑的なものと見るのは納得の行くところである。亀岡市篠町桑田神社で検索すると,2件の桑田神社が現れる。その様子を示したのが図1である。篠町市街地内部にも桑田神社(篠町馬堀東垣内3-1-1)が現れている。保津川峡谷入り口右岸に見えるのが,『南桑田郡誌』に見えるものである。谷口のものの住所は篠町山本51である。 1.2 神祗志料    京都通百科事典というものがある。ここに式内社:桑田郡桑田神社というページがある。興味深い内容で,小学校の時に習った内容に似ている。このページには,「明治26 (1893) 年刊『大日本神祗志』によると,市杵島姫命,大山咋神は,鍬山神社の祭神とともに,かつて湖であった亀岡盆地を開拓するため,自ら鍬鋤を持って保津峡を開削して水を流し出したと言われる。保津川対岸の左岸には,同じく丹波開拓伝説の請田神社がある。」などとあった。  この文献を知らなかったので,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「神祇志」(じんぎし)を見ると, ————————————————『大日本史』の志類の一つ。 23巻。青山延于 (のぶゆき) らによる編纂を栗田寛が補成したもの。 明治26 (1893) 年刊。神祇の沿革,神社,社殿,神宮,斎服などについて記述している。 ———————————————— とある。  国会図書館デジタルコレクションを検索してみた。転載時表記例は, 栗田寛著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497 (参照 2025-10-05)。  著者の文献表示様式では, 栗田寛, 明治9 (1876) 年- 明治20 (1887)年. 『神祇志料』 Vols. 15-17, 温故堂.国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497 となる。  ダウンロードしたPDFには,第十五〜十七巻がこの順序で入っていて,丹波國七十一座は,見開きページでp. 41から始まり,その最初が桑田郡十九座(〜p. 44)である。出雲神社,桑田神社,三宅神社,小川月神社,三縣(ミアガタか?)神社(情報ゼロ),神野神社,山國神社,阿多古神社,小幡神社,走田神社,松尾神社,伊達神社,大井神社,石穂神社,與能神社,多吉神社,村山神社,鍬山神社,薭田野神社,計十九座である。  桑田(クワタノ)神社の記述の一部を紹介したい。わかりやすくすべく表現を一部変更している。 ———————————————— 今,山本村字桑田にあり。浮田明神(今,請田とかけり)といふ。大山咋命を祭る(請田社傳記,土人伝説。)。傳云ふ,上古,此國湖海なりし時,出雲大神御伴の神八神を率て,此に至り,水を治むる事を議り給ふ。大山咋神即ち鋤を以て山を鑿ち,磐を劈き,水を決給ひしかば,湖涸れて國成き,後人,其の鋤を霊形(補記:霊璽に対応するものであろう。「みたましろ」と読むのだろう)として,之を祭る。大山咋神は所謂,お供八神の一也。(鍬山神社記,請田社傳記,◻︎山文集,土人傳説。) ————————————————  桑田神社は保津川峡谷入り口右岸のもので,しかも浮田明神(今,請田とかけり)といふ,とある。「篠村史によると,馬堀の方を元宮としている。篠村七郷(篠町)の氏神さんとして信仰されている。」とあるが,誤りである。小幡神社同様,山から平地に神社が降りてきたと考えて良いだろう。この『神祇志料』には,保津川峡谷入り口左岸の宮であるはずの「石穂神社」については名は挙がっているが説明は欠落している。 1.3 「丹波湖」干拓と繋がる二社    図1の請田神社と桑田神社はそれぞれ,延喜式に登録されている石穂神社と桑田神社とすることに問題はないだろう。「丹の海」 注記: 亀岡中学校校歌(作詞南江治郎,作曲橋本国彦)の一番に,春まだ浅き 丹(に)の海の赤き血潮に 凝りなせる正義の旗旄(きぼう) 空高く紀綱(きこう)を創る 雲の峰あゝあゝ亀岡中学 その名もたかし とあって,「丹の海」が見える。    作詞者の南江治郎(なんえじろう)氏は亀岡市出身の詩人である。亀岡高校校歌も氏が作詞している。亀岡中学は,昭和22年5月5日 新学制により男女共学の中学校として開校(京都府南桑田郡亀岡町立亀岡中学校 生徒394名 通学区:亀岡町・吉川村)しているので,戦後の作品である。  「旗旄(きぼう)」は皇帝の使節に任命の印として与えられた権威の象徴の旗であるが,正義の旗旄(きぼう)とあるので,戦後の平和と自由に期待を込めたものであろう。彼は戦前戦中の国粋主義から距離を置いていたようである。小学校を卒業してはじめて生徒手帳なるものを支給されて何となく誇らしかった。その手帳の表紙か裏表紙にはこの校歌が記されていた。中学生には難しい歌詞ではあったが,🎵「春まだ浅き 丹(に)の海の 赤き血潮に 凝りなせる」という出だしは新鮮であった。 を通じて,二社の和銅二年四社とのつながりを強く筆者はいま感じている。丹の海の歴史的成因については余りに長くなるので,ここではこのテーマを回避するが,生きた伝説としての丹の海は,ここで取り上げる神社の分布と深く繋がっていると,この研究を通じて,筆者は感じるようになった。  現請田神社と現桑田神社はいずれも,主祭神として,大山咋命と市杵島姫命を標榜している。御神体を鋤とし,鍬山神社では保津川開削で使用した鍬が山積みになっていたという(『神祇志料』)。開削で使用した鉄器である。  京都通百科事典には,【丹波湖開拓伝説】というのが掲載されている。『風土記』由来の情報なのか。風土記編纂の命を出した元明天皇の時代(和銅6 (713) 年)に丹波国から丹後国が分国され,それぞれで風土記が編纂されたのは確実なのだが,現在では丹後国風土記の逸文のみが残されている状況という認識なのだが。 【伝承がある神社】として整理されているので次に。 ———————————————— 【伝承がある神社】   [ 徳神社 (東別院町神 原宮ノ前)] 亀岡市 の南部の 東別院町神原の谷間の集落にある神社  祭神:大山祇命(大山咋神 )  大己貴命 が、こ の地を治めていた八柱を集めて、開拓の相談が行われた地といわれる。 [ 樫船神社 (大阪 府高槻市田能)] 丹波国 南部の明神ヶ 岳の尾根の下の方の標高約360mのところにある神社 […]