熊野館跡地の月山不二プラン Tsukiyama-fuji plan remains of Kumano-yakata site
はじめに
何年か前に,出口王仁三郎の私宅(熊野館,故出口和明自宅)が炎上した。王仁三郎を敬愛する人々は,その理由に戸惑ったことだろう。ぼくもその一人である。理由を直接,関係者に尋ねたが,池(図3の「金竜海」)の鯉用に設置されたエアレーションポンプの漏電だという。電源を熊野館(くまのやかた)から取っていたことが原因だと。それにしても,理解できない。その館(やかた)の東側に庭があった。2025年3月8日白藤舎コンサートのあと,山口さんの案内で,その庭の意味を知った。実は炎上の別の理由も聞いたがここで示さない。
1. 月山不二プラン
月山不二(つきやまふじ)現在,大本の綾部本部(綾の聖地,梅松苑)構内の本宮山頂上にあって,亀岡本部(天恩郷)の月宮宝座(月輪台とは別)と並ぶ最高至聖地の一つである。いずれも第二次大本事件による徹底的な破壊跡地に,日本の復興を願って信者の善意のもと,建造された。https://www.omt.gr.jp/o70
山口さんによるご案内まで,王仁三郎私宅(聖師によって熊野館と命名)にこのようなプランがあることを知らなかった。王仁三郎は昭和17年の保釈で亀岡の私宅である熊野館(父母の不在中,その長女の三代教主が居住)に戻った。すでに日本の敗戦と大本教団の治安維持法と不敬罪無罪を予言していた王仁三郎は,晴れて大本復興の時に備えて,綾の聖地本宮山上の月山不二のプランを私邸で実験設置していたのである。
2. 小さな月山不二
「月山不二」は,富士山様の築山の意だが,太陽ではなく,(瑞)月のご神体ということになる。もともと小さな土の山であって,王仁三郎築造後の歳月を経て,とくに中央部が崩落している。縁辺ももちろんクリープしているが,周辺の立木の根本付近を見ると中央部の崩落の方が激しいようだ。周辺の立木の樹齢は20年未満のようで,当時の面影は消失していると考えて良いだろう。神棚が配置されているので,月例祭などでのお祭りが現在でも挙行されている可能性はある。
なお,熊野館など出口家の家並みは敷地や道路の影響か,南向きの家はない。この一画だけでなく,亀岡は旧城下町の影響もあるのか,南向きをあまり意識していない。まあ,神棚を前に前方に月山不二を拝礼する方向は真北から20度ほど西偏しているようである。まあこの向きをここでは,一応北辰の方向と考える。

その観点で,南西に置いてあるのが図2の月石である。画像で見ると溶岩(安山岩?)のようにも見える。次にお邪魔した際に岩質を確認したいと思う。月石とされているのは,左側の丸い紋様のためであろう。図3の金竜海は,大正時代に綾の聖地に築造されたものの模型である。梅松苑では金竜海は本宮山の北北西山麓に位置するので配置については方位にこだわっていないことがわかる。
ただ,この月石はこの熊野館流の方位でいうと南西部に配置されている意味がある。南西方向は播磨上島(神島)に対応し,坤の金神=出口王仁三郎=瑞霊聖師,と考えて問題ないであろう。神島を焙烙をかぶせた様な島として,信者に瀬戸内海の該当の島を探させたことからも,この月石がその形を具現しているとも言えるのである。この月石は神島なのである。


図4,5は,Google mapから得たものである。図4のように,神島には上島灯台が設置されている。図5のスカイラインにも灯台が見える。


3. 三ツ葉の黒松
図6(赤松の右手)の黒松の葉は三ツ葉である。写真は暗いが右下隅に月石が見えるようである。3ヶ月ほど前で記憶が薄くなっている。


図8には後背の月影に掛かる梢を,図9には月石のそばに集められた松葉(山口さんから頂いた)を。聖師時代の黒松の子孫であることには間違いない。三代教主昇天のち現大本本部によって本宮山の月山不二から抜根された三ツ葉の松とこの松とは兄弟の可能性が高い。この熊野館から聖師と二代教主によって本宮山に持参されたのである。


おわりに
次回,お邪魔した時には,月山不二と月石についてはライダー測量したいと思っている。
以上,2025年6月5日記。