篠村八幡宮その1 Shinomura Hachimangu Shrine, Part 1

はじめに  ぼくが生まれた旧亀岡町横町1番地から徒歩で行けるところに,篠村八幡宮があった。このお宮には,次の資料が所蔵(亀岡市文化資料館寄託)されている。参照:高氏の鎌倉幕府打倒と源氏再興を祈念した願文 (源朝臣高氏)足利尊氏直筆とされているが誤りだ。  高校時代の日本史の教科書に足利尊氏旗揚げ地とあって誇らしく思ったものである。おそらく小学校時代には篠村の友人を訪ねてここで遊んでいるであろうが覚えていない。 追記 2025年6月26日昼間: 篠村八幡宮へ何故行こうとしたのか忘れていた。 1. 車でのアクセス  前回の反省を踏まえて車でのアクセスルートを考えた。一般の者が利用可能な駐車場は図3(境内に設置されている)の青色で塗られた「神社専用駐車場」だ。前回もここに駐車できた。篠村八幡宮周辺は新しい宅地もあって,車1台しか通ることができない道もあるし,一方通行にもなっていない。  国道9号線の交差点「合戦野」から北(北東)に篠村の集落に入ってゆく。最初のT字路が京都府道402(王子並河線)で左方向の一方通行のようだ。50mほどの篠町篠の交差点を右折して,すぐにY字路の左を取って130mほど進んで,T字路の右を取って,すぐに左折すると柳の立つ旗立場の交差点があり,ここから右折すると左側がオープンスペースの神社専用駐車場だ。 2.篠村八幡宮の現状  次男ファミリーと篠村八幡宮に出かけた。ぼくの郷里の亀岡の歴史的意味を理解してもらう思いがあった。そしてぼくにとっては篠村八幡宮との意識的な最初の出会いである。ただ眺めるだけのものである。今後,何らかのヒントが訪れるであろうという思いである。何もこの投稿には発見はないだろう。まずは撮影した幾つかの写真をここに掲載したい。 以上,2025年6月25日の夜。 追記 2025年6月26日昼間: 道路で転倒のショックのあと,種々のことがあって,忘れていた。足利尊氏が願をかけた場はどこなのか,を知るべく,ここに出かけたのであった。写真を捨てるのは惜しくて,この観点で以下記したいと思う。  図3の篠村八幡宮境内マップをみると,マップの右手は境内よりも広い敷地に「篠村幼稚園」が設置されている。境内の上縁には,「八幡会館」があって,「篠区会議所」になっている。これに付随して大きな駐車場がある。現境内の敷地では,常設「相撲土俵」とする場が最も広い。  神社関係の神域としての施設の中心は名称からすると,本殿ー拝殿,である。その周辺には,疫神社,小宮社,稲荷神社,祖霊社など。史跡としては,矢塚と,左隅に境内から離れて,旗立場がある。 3. 地元では忘れ去られた足利尊氏  ぼくが高校時代に使った日本史の教科書には足利尊氏が亀岡市篠町から旗揚げしたと欄外の注記にあったのを見ている。教科書では南朝を支えた楠木正成などが英雄として記述されていて,ぼくは足利尊氏が悪い武将だという印象を持った。  日本史の教科書には北朝の系図があって明治天皇につながっていた。父に現在の天皇は北朝だから正義の系統ではない,と話しかけたら否定的な態度を示していた。今思えば,明治天皇から南朝系にすげ替えられていたので,現天皇はあからさまに南朝系なのだとは言えなかったのだと思われる。朝廷での女官などには,大本(教)信者もいて,すげ替えは公然の秘密であったという。王仁三郎の『霊界物語』にも暗示的なエピソードが入っている。この話はぼくの別の投稿に示しているのでこれ以上は述べない。  さて,足利尊氏が北朝を起こしたからこそ,北朝にとって意義ある篠村八幡宮は明治政府(近代社格制度)によって最下層の村社とされたと推測している。  Perplexityに質問した。「篠村八幡宮は、1333年に足利尊氏(当時は高氏)が鎌倉幕府打倒のために挙兵し、戦勝祈願を行った地として有名です。その後、尊氏は篠村八幡宮に勝利の礼参りをし、また社殿の建立や社領の寄進など、歴代の足利将軍家からも多くの寄進・保護があったことが記録されています。室町時代には足利将軍家から荘園の寄進が相次ぎ、神社の境内や社殿も拡大し、経済的にも保護されていたことがわかります。したがって、「篠村八幡宮は足利尊氏が興した北朝によって保護されていた」という推測は、歴史的事実に基づいており、誤りではありません。」  村社として規定された篠村八幡宮は,その宮司や氏子らによって村社として邁進してきた。その結果が篠村八幡宮の境内の形に見事に現れているのである。五百年余りの権力による保護の残骸が全く残っていないのは驚くべきことではあると思う。  図4に示すように,京都御所(京都御苑)と篠村八幡宮の距離は2線分で示すと10km余りである。源氏の八幡神(応神天皇)との繋がり,特に足利高氏と篠村八幡宮との関係は不勉強で知らない。日本史からすると図1の高氏自らの願文が国宝ではなくて,亀岡市に寄託されたままになっているのも,不思議なことだと思ったが,随行僧による代筆らしい。    篠村八幡宮にでかけて,旗立場がみつからず,図3上縁の神社専用駐車場に面する公園で幼児を遊ばせている若いお母さんに質問したら,「旗立場」が何なのか知らないという。小学生数人に質問しても,知らないという。次男の奥さんが図3の案内板を見て,ぼくを案内してくれたのである。ぼくが質問した公園に隣接していた。ミニ開発された個人宅の庭のような狭い場所がそれであった。  図5〜7は旗立場関連の写真である。柳の芽が赤紫色に膨らんでいた。 以上,2025年6月27日。 4. 願文のテキスト化 図1をあらためて,書き出すと, 敬白立願事右八幡大菩薩者王城之鎮護我家之 廟神也而高氏為神之苗裔為氏之家督於弓馬之道誰人不優異哉依之代々滅 朝敵世々誅凶徒于時元弘之明君為崇神為興法為利民為救世被成 綸旨之間随 勅命所挙義兵也然間占丹州之篠村宿立白旗於楊木本爰於彼木之本有一之社尋之村民所謂大菩薩之社壇也義兵成就之先兆武将頓速之霊瑞也感涙暗催仰信有憑此願忽成我家再栄者令荘厳社壇可寄進田地也仍立願如件元弘三年三月廿九日前治部大輔源朝臣高氏 白敬 以上,2025年6月29日。 5. 太平記の紹介  『太平記』巻第九,高氏篠村八幡に御願書の事,に旗立地のことが書かれている。 篠村八幡宮(足利尊氏旗あげの地)-亀岡市篠町篠上中筋-  この記述についての著者は明記されていないが,説得性がある。その幾つかを次に引用したい。 ——— 引用〜  元弘3(1333)年4月、鎌倉幕府の射手として上洛した足利尊氏が篠村に陣地を築き、同年4月29日八幡宮の楊の梢に源氏の白旗を掲げた。社に「敬白 立願事」の書き出しではじまる願文が蔵されている。願文は、[右八幡菩薩者、王城之鎮護、我家之廟神也・・・]と八幡菩薩尊崇の由来を述べる。尊氏は氏神の宝前で運命の先兆を祝し、感極まったことであろう。  さらに願文は、「・・・為利民、為救世、被成綸旨之間、随勅命所挙義兵也、然間占丹州篠村宿、立白旗於楊木本、彼木之本、有一之社・・・伝々」と挙兵の大義を述べ、白旗を掲げて必勝を祈願したことを述べる。そうして尊氏は目前の老いの坂を越え、洛中の鎌倉幕府の拠点六波羅を攻めた。探題北条仲時らは、光厳天皇と二上皇を奉じ鎌倉をさして落ちていく。同月、北条得宗の高時は鎌倉の東勝寺において郎党数百人とともに自刃し、鎌倉幕府は滅亡した。 幕府の射手であったはずの尊氏が天皇方につき、篠村八幡宮に必勝祈願し、六波羅を攻め落とした。建武の中興が成り、中興の元勲と仰がれた尊氏。願文を掲げた篠村八幡宮の冥護に祈謝したことであろう。  建武2(1335)年3月、僧理智円を篠村八幡宮別当職に当て、免田3町を寄せ、同年9月には上総梅左古の地を寄進している。翌建武3(1336)年には丹波佐伯荘地頭職、観応2(1351)年には同国佐々岐荘等を寄進して、別当職に醍醐三宝院僧正を当てている。三宝院僧正は尊氏の新任厚かった賢俊僧正である。尊氏の護持僧であったから篠村八幡宮の社運隆興はとどまるところがなかったであろう。  尊氏直筆の三宝院僧正宛文書(写真右下。醍醐三宝院蔵)がある。篠村八幡宮の別当職に賢俊僧正を当てるいわば辞令書であるが、文書は「丹波国しの村の八幡宮別当しきの事もとのごとくくわんれい候べくあなかしこ 観応二 十月廿六日  尊氏(花押) 三宝院僧正御坊」の意であるが、特にかな文字から尊氏の性格をおもうことができ、この書状は大変貴重なものだ。  尊氏の庇護のもと篠村八幡宮は数々の社領の寄進を受け大いに発展し、貞和5(1350)年8月には、尊氏自ら社参し、別当坊で行水し、浄衣に改めて参拝し、賢俊着座のもと諸神事が行われたことが三宝院文書にみえる。 引用〜おわり ———  この引用の最後の文書は,サントリー美術館に寄託されていて,その画像がネット上にあったので,次に引用する。   6. 亀岡の名木  図9の案内板には事典に書かれているような一般的な説明と行政的情報に限定されている。このお宮のツブラジイについての植物学的な情報がない。図10のように,背丈からすると樹冠が小さく,幹の下部と中部には枝が無い。かなり特別な雰囲気を醸し出す木であることは,読者も感じられるのではないでしょうか。  樹木の個性を引き出すのに,樹高と胸高幹周りだけで良いのかというはなしである。  図12, 13はナナミノキ。「樹皮からはトリモチが採取できる」とあるので,図12の幹周りの傷はそのためかと思われる。ツブラジイ同様,樹冠はかなり頂部に偏っている。その理由があるはずだ。 7. お宮と石碑  図13, 14に主要なお宮を示す。図13の右手に「足利高氏旗あげの地」の石碑,左手には矢塚があって,高氏が祈願した八幡宮の後継宮と考えて良いだろう。  図14の説明板では,乾疫(いぬいやく)神社は八幡様勧請以前のお宮。祭神は,建速須佐之男神,大己貴神,少彦名神で,出雲系である。例祭は1月19日,奇しくも王仁三郎昇天の日である。奈良時代以来の御霊信仰に基づいて乾の方角の丹波と山城の国境に勅願で創建された疫神社とされる。 おわりに  篠村八幡宮は,藤原⇨平氏⇨源氏,に関わる荘園に位置するようである。祭神の変遷も興味深い。また,参拝したいと思っている。とりとめもなく。 以上,2025年7月2日。

工藤恭久さん通夜出席のためカローラツーリングで信州へ going to Shinshu by Corolla Touring to attend Mr. Yasuhisa Kudo’s wake 

 工藤恭久(やすひさ)さんが先日(around 16:00,Sun., Jun..8, 2025)九十四歳だったか,昇天された(塩津さんから)。タニハ文化研究所の創立に際して,最も貢献された方であった。最後の入院前にはお電話があって,その際に,勉強会へのぼく参加を期待するような雰囲気が醸し出さていたので,その際には松代の皆神山に参拝したいと考えていた。  新幹線か車か迷った。新幹線が無難であるが,皆神山参拝そして調査をゆっくりしたい。信濃毎日新聞デジタルでは,「気象庁が県内を含む関東甲信地方が梅雨入りしたとみられると発表した10日、長野地方気象台は、11日夕方にかけて、県南部や県西部の大北地域と乗鞍上高地地域を中心に大雨となる恐れがあるとして・・・」とある(2025年6月14日,検索)。  天候にはおそらく恵まれるとなぜか考えた。そして,愛車カローラツーリングで向かうことにして,ジャランでホテル検索したが結構の数の宿泊施設はあるが,ぼくの許容範囲では上田や松代周辺では空室は見つからない。しかたなく,長野市街地を検索して,「シティガーデンホテル信濃路」をみつけた。一泊としたが,日程上,一泊で帰る自信がなくて,一泊追加した。二泊だ。  6月11日午前10時半,車で出発した。予めアイフォーンのカレンダーの目的地に入力していた通夜の場所のテキストをタップすると,Carplayの画面に連動して,ナビゲーションが始まった。一切,音声案内はなく,いわば,ジャンクション間の距離と侵入路の左右矢印が出るだけだ。10回ほどのジャンクションを経て,疲れ果てて,中央道に入った最初の内津峠(うつつとうげ)PAで休憩した。12時の15分前ほどか。この10分ほど前か,鳥の白い糞がフロントガラスに落下したので,雑巾をトイレで絞ってフロントガラス全体を拭いた。そういえば,自宅の出発の際は小雨が降っていて,ワイパーを使っていたが,この鳥の糞が落下する少し前に雨は止んだようだ。  昼食には早いと思ったが,結局ここの食堂で昼食(キシメン)をとり,出たのが午後1時20分頃(滞在時間は1時間35分ほど)。ここでの休息は不可欠であった。高速を次から次の渡り歩くのに辟易して,カローラ付属のカーナビに変更して発車した。上田市まで,あと1カ所は休憩したいと考えていたが,どうにもその時間はなく,3時間半,運転を続けることになる。  高速の出入り口やSAなどは表示されるのであるが,到着時刻が表示されなくなった。カローラは2020年末に購入して5年間を過ぎるとデボジットが切れて年間1万円の使用料が発生するようだ。アホらしくて新たな契約したくなくて,切れる前に,Carplayを使ってGooglemapに慣れるべく車のカーナビとはおさらばしていた。契約が切れた時点で新たな地図の更新がなくなるだけだと思っていたが,到着時刻表示機能も削除されていた。これでは使えない。VICSは機能しているようには見えるがこれもフェイクだろう。通夜は午後5時からと聞いていたので,到着時刻が表示されないのは何とも情けない。そこで走りながら,カレンダーの通夜会場をタップして,走行ルートを表示した。これには数点の要所の(最短)到着時刻が示されている。しかし,通夜会場到着時刻がどれなのか,何とも見にくい。  焦りに焦って,とにかく,午後5時の10分前ぐらいに通夜会場の駐車場に到着。駐車場のアスファルトは雨に濡れていたが,高い部分の水分は地面に沁み込んでいた。休憩時間込みで6時間20分ぐらいかかった。グーグルの所要時間とほぼ一致している。会場の案内を見ると5時半から開始だった。とにかく,間に合ってよかった。  恭久さんの妹さんにもお会いできた。姉との温かい交流があった。長男さんがおられるのを知らなかった。長女さんとともに,工藤さんとよく似ておられた。喪主は長男さんと三女さんだ。ぼくの母にお世話になったと温かい声掛けもあった。親戚関係の皆さんが中心的に集まっておられて,永く地元に根付いておられるだけあって大勢力だ。父の病で工藤さんのご自宅にぼくは父と共に1カ月滞在していたので,工藤家には感謝でいっぱいであった。工藤さんの奥様には,父も我が家もお世話になったが,残念ながら比較的早く昇天されていたので,もちろんお会いできなかった。お子様などと親しく接することができたことは幸いであった。  大本分裂の少し前から,工藤さんが交友されてきた皆さんともお話しできた。特に皆神山のぼくの疑問をぶつけてみて,驚くべき回答があった。皆神山参拝の意義は高まるばかりであった。会場からホテルに移動して近所のセブンイレブンでお握りと一番搾りを買って,夕食とした。会場では直会があったがぼくは食べることができなかった。おしゃべりに夢中になってしまう。いつものことだ。  翌日,皆神山に愛車カローラツーリングで向かった。自宅から中央道に入って後は幸い雨に遭わなかった。幸いである。皆神山の山頂の高原まで,自動車道がある。危なかっしいところもあるが,幸い,問題はなかった。主として信仰の観点からの投稿は別に用意しつつある。ぼくの滞在中,パワースポットとして惹きつけられた人々も見た。愛車で訪れた四十歳前後の女性三名,退職後の夫婦二組み,それに移動売店を商っている子供連れ女性。  この車道が何とか維持できているのは,皆神神社のみによるものではないようだ。途中,キーウィフルーツの果樹園があった。12日の山上では気づかなかったがゴルフ場になっているようだ。回っている人は見たことがないし,駐車場利用者にはそういう人も見かけなかった。とにかく,コースらしきところがあって,雑草が生えていた。この状態ではゴルフボールを探すのが大変だ。芝生をかつて作ったのだろうけど,ほぼ消失しているようだった。ネットでみると,皆神山ゴルフクラブ【長野県】というのがある。  麓に近い松代地震センター(松代地震観測所)にも出かけた。人っこ一人いない。無人の大きな施設だ。研修施設もあったようであるが廃屋化が進んでいる。この場所の電話番号は公開されてはいるが,東京の電話番号に連絡するようになっていて,その意味も理解した。皆神山の全景を撮りたくて,時刻から考えて南西方面を車で回ったが,一枚がなんとか使える。狭い谷底からの全景写真は難しい。  午後4時前にはホテルに戻って車を置いて,徒歩で善光寺の門前町を歩いてみたいと考えたが結局,善光寺に行き着けなかった。刈萱聖人ゆかりのお寺の前を通り過ぎて,娘が持っていた石童丸の絵本を思い出し,参拝して,写真も撮った。これについても投稿を予定している。午後5時頃か,早い夕食を丸新という日本のどこにでもありそうな蕎麦屋(温かいとろろそば)でとった。創業100年という。大正と昭和の境目ぐらいか。まあ無難な味だった。地元のカフェを探したが適当なところがなく(変に気取ったところもあったが),結局,長野駅ビル1階のまたまたスターバックスで皆神山で撮影した写真を整理した。行きつけの店のチェーン店には,旅行者として期待した意外性は全くないのであるが,残念ながら安心感がある。  翌日,10時前にホテルを出発した。2時間後に休憩をと考えていて,11:50にSA駒ヶ岳(こまがたけ)で休憩した。フードコートにはなじめず,レストランに入って,やっぱり,そばを食った。狭い窓外には遠くに山々が見える。食後,周辺の散策路で木々を観察した。ウラジロモミ,ハルニレ,サワラ,コナラ,アカマツ,ニセアカシア,ヤマザクラなどか。  ここにはコンシェルジュconciergeなる若い女性が居た。帰りの名神のSA桂川にも居たのであるが(いずれも暇そうには見えたが毅然たる態度を示し得ていた,精神性を維持するのは大変だ,形を変えるべきだと思う)。さて,このSA駒ヶ岳の名(ぼくが休憩場所として選んだ理由)ゆえに,どこに見えるのかと聞いたら,ここからはかなり見えにくいという。カラー出力の写真を,中央アルプスと南アルプスの2枚を頂戴した。なるほど駒ヶ岳はほぼ見えない。レストランでそばを食っている際に,10年ほど前にはすでにアイフォーンにインストールしていたPeakfinder(2000円だったか)を思い出した。見ると,六甲山や生駒山などが見えている。自宅周辺の山々である。  右下隅の歯車アイコンを押してみたら,現在地の認識を開始した。この付近の情報をダウンロードするかというのでオーケーしたが,なかなか終わらないが,何とか周辺のピークの名称が見えるようになった。コンシェルジュさんに教えてやろうと窓口に出かけてみせたら,急に見えなくなった。またダウンロードを始めている。一応コンシェルジュさんにこのアプリは世界すべてに対応していることを告げるだけで終わってしまった。その後,見えるようになったが,嫌がられているかもしれず,行かなかった。なお,小さな展望所があって,ここから見える山々の説明があった。  次に休憩したのは15:30で,SA養老である。養老山脈の中にある。この後か,通行一車線で合流もあって,渋滞に巻き込まれるのである。なんとグーグルから,その20分ほど前か,到着時間が40分ほど早くなるルートがあるがそのルートを受け入れますかというメッセージがきた。前日のようにジャンクションを次から次と移動するのが嫌だと考えて,拒否したのであるが,思えば,受け入れた方がよかったのかもしれない。昨日は名神に入ったり出たりしたので,名神一本で行こうとしたのが災いしたのかもしれない。そして渋滞でクタクタになって,18:00にSA桂川に入って,半時間あまりボーっとしていた。眠い。自宅にたどり着いたのは午後7時半。ホテルを立って9時間半であった。  以上,2025年6月14日記,2025年6月15日修正。

皆神山の多様な施設と大本歌碑 diversified facilities and Ōmoto’s monuments at Minakami-yama

はじめに  『皆神山 – 参拝のしおり』(木庭次守編,昭和46(1971)年3月18日, 大本三代教主歌碑建設委員会発行,天声社印刷,非売品)を手にしているぼくは,飯塚弘明氏運営のOnipedia「皆神山」を本日参照して,大きな衝撃を受けている。この衝撃がこの投稿の主題の一つになった。  さて,皆神山は長野県埴科郡(現長野市)松代町豊栄(はにしなぐん まつしろまち とよさか)にある。図1中央の赤い十字を配置した山で,第四紀火山岩からなる溶岩ドーム地形を呈している。頂部がいわばかつての火口に当たっており,図2のように仏教の言う蓮華台を成しているのである。火道の上昇圧の低下に基づくものなんだろう。  図3は斜め写真でソースは不明である。図4のソースはキャプションに示している。図4右下隅には栗の花が満開なのでまさに梅雨前の様子である。図4では,皆神山山上が後背の山脈に近く,図2にみえる皆神山東方の683.9mの三角点付近からのものか。  工藤恭久(やすひさ)さんの通夜出席(2025年6月11日)を機に,翌日出かけた皆神山の取材を中心にこの投稿を構成したい。日程については,工藤恭久さん通夜出席のためカローラツーリングで信州へ に示している。 1. 王仁三郎の皆神山観 上掲の木庭次守(1971: p.3)の皆神山と題する小文を次に引用したい。 ——— 引用〜  大本の神示によれば,皆神山は神諭の世界十字に踏みならす霊場であり,世界の山脈十字形をなす神山であります。  大本の聖地綾部は世界の中心であり,日本の山脈十字形をなすところであります。皆神山の地形は大本の聖地綾部および亀岡ソックリの青垣山をめぐらす,蓮華台上にあります。日本は世界の縮図という観点からは,ヒマラヤ山に相応する霊山であります。  神素戔嗚大神に母神伊邪那美命より救世主贖主としての神業を依さし玉いし地教山に相応する霊山であります。 引用〜おわり ———  なかなか理解しにくい文章ではある。綾部は日本の山脈十字形をなすところで,皆神山は世界の山脈十字形をなす神山という。綾部は置くとして,皆神山が日本列島を大きく二分するフォッサマグナ中にあって,蓮華台を成している。この皆神山は,王仁三郎の『霊界物語』に出てくる,ヒマラヤ山=地教山,と考えられている。不勉強で,「世界十字に踏みならす霊場」の意味が理解できない。  図5,6は,Google Earthから切り取ったものである。図5には,伊豆半島が本州中部に衝突して,富士山とフォッサマグナが形成されているのが見える。その場に皆神山が位置しているのである。現富士山は活火山であるが,皆神山は火山ではなく,火山体とは言える。とは言っても,「世界十字に踏みならす霊場」とは到底言えないのである。現在の地質と霊界を結びつけるのは不可能なことである。 2. 松代群発地震と皆神山  松代群発地震については父も関心を持っていた。皆神山に三代教主碑を建立する話が進んでいた時代で,長野の信者さんからの問い合わせもかなりあったようである。そのことを父が僕に伝えている。1967年ごろか,ぼくの高校生に当たっていた。  群発地震の時期については次の報告に。 小林正志, 春原美幸,伊藤優,神定健二,北村良江,小山卓三, 2005. 松代群発地震はいつ始まったか? 気象庁精密地震観測室技術報告, No. 22, pp. 63-66.  最も著名な文献は次のものだろう。このあとの展開があるはずであるがなぜか,終焉しているようだ。研究費の枯渇だろうか。 瀬谷 清,1967. 松代群発地震および松代区域の重力調査の結果について. 地質ニュース,No. 144, pp. 1-10.  松代地震センターなるものがある。〒381-1232 長野県長野市松代町西条3,511TEL: (026) 278-2825 FAX: (026) 278-2420。  松代地震センターの地質ニュースの欄に次の成果が記されている。1967年に集中している。 発行年 巻号・頁 論文名・資料名・本名 著者名・編著者名 資料番号 1967 144, p1-10 松代群発地震および松代区域の重力調査の結果について 瀬谷 清 0448 1967 149, p1-11 松代群発地震地域をさぐる 沢村 孝之助・垣見 俊弘 0191-1 1967 149, p12-16 地震の経過 相原 奎二 0191-2 1967 149, p17-27 物理探査の結果について 瀬谷 清 0191-3 1967 149, p28-31 温泉と地すべり 中村 久由・前田 憲二郎・山田 隆基・山田 営三 0191-4 1967 149, p32-35 地化学探査 伊藤 司郎・永田 松三 0191-5 1967 149, p36-39 試錐調査・観測 高橋 博 0191-6  松代地震観測所と松代地震センターは同じ場所にあるが,何らかの博物館的機能もあるのかと感じたのであるが,どうもかなり閉鎖的である。松代地震センター のご案内というページがあって,「1965年(昭和40年)8月3日から始まった松代群発地震を契機に地震に関する資料センターとして1967年2月に設置されました。現在は松代群発地震を主題とする資料及び長野県で発生した地震資料の整理、公表を行うとともに当所と共同で松代群発地震の記憶の継承、地震知識の普及、地震防災意識の啓発を行っています。松代地震センターへのお問い合わせは下記連絡先までお願いします。電話 03-3434-9040」とある。機能していないかもしれない。一応,現地に行った際に,ジオラマとか,なんらかの展示があるかどうか,尋ねてみたいとは思っているが,期待できそうにない。このページにあったリンクをここに転載する。 以上,2025年6月10日。  工藤恭久さん通夜出席のためカローラツーリングで信州へ […]

熊野館跡地の月山不二プラン Tsukiyama-fuji plan remains of Kumano-yakata site

はじめに  何年か前に,出口王仁三郎の私宅(熊野館,故出口和明自宅)が炎上した。王仁三郎を敬愛する人々は,その理由に戸惑ったことだろう。ぼくもその一人である。理由を直接,関係者に尋ねたが,池(図3の「金竜海」)の鯉用に設置されたエアレーションポンプの漏電だという。電源を熊野館(くまのやかた)から取っていたことが原因だと。それにしても,理解できない。その館(やかた)の東側に庭があった。2025年3月8日白藤舎コンサートのあと,山口さんの案内で,その庭の意味を知った。実は炎上の別の理由も聞いたがここで示さない。 1. 月山不二プラン  月山不二(つきやまふじ)現在,大本の綾部本部(綾の聖地,梅松苑)構内の本宮山頂上にあって,亀岡本部(天恩郷)の月宮宝座(月輪台とは別)と並ぶ最高至聖地の一つである。いずれも第二次大本事件による徹底的な破壊跡地に,日本の復興を願って信者の善意のもと,建造された。https://www.omt.gr.jp/o70  山口さんによるご案内まで,王仁三郎私宅(聖師によって熊野館と命名)にこのようなプランがあることを知らなかった。王仁三郎は昭和17年の保釈で亀岡の私宅である熊野館(父母の不在中,その長女の三代教主が居住)に戻った。すでに日本の敗戦と大本教団の治安維持法と不敬罪無罪を予言していた王仁三郎は,晴れて大本復興の時に備えて,綾の聖地本宮山上の月山不二のプランを私邸で実験設置していたのである。 2. 小さな月山不二  「月山不二」は,富士山様の築山の意だが,太陽ではなく,(瑞)月のご神体ということになる。もともと小さな土の山であって,王仁三郎築造後の歳月を経て,とくに中央部が崩落している。縁辺ももちろんクリープしているが,周辺の立木の根本付近を見ると中央部の崩落の方が激しいようだ。周辺の立木の樹齢は20年未満のようで,当時の面影は消失していると考えて良いだろう。神棚が配置されているので,月例祭などでのお祭りが現在でも挙行されている可能性はある。  なお,熊野館など出口家の家並みは敷地や道路の影響か,南向きの家はない。この一画だけでなく,亀岡は旧城下町の影響もあるのか,南向きをあまり意識していない。まあ,神棚を前に前方に月山不二を拝礼する方向は真北から20度ほど西偏しているようである。まあこの向きをここでは,一応北辰の方向と考える。  その観点で,南西に置いてあるのが図2の月石である。画像で見ると溶岩(安山岩?)のようにも見える。次にお邪魔した際に岩質を確認したいと思う。月石とされているのは,左側の丸い紋様のためであろう。図3の金竜海は,大正時代に綾の聖地に築造されたものの模型である。梅松苑では金竜海は本宮山の北北西山麓に位置するので配置については方位にこだわっていないことがわかる。  ただ,この月石はこの熊野館流の方位でいうと南西部に配置されている意味がある。南西方向は播磨上島(神島)に対応し,坤の金神=出口王仁三郎=瑞霊聖師,と考えて問題ないであろう。神島を焙烙をかぶせた様な島として,信者に瀬戸内海の該当の島を探させたことからも,この月石がその形を具現しているとも言えるのである。この月石は神島なのである。  図4,5は,Google mapから得たものである。図4のように,神島には上島灯台が設置されている。図5のスカイラインにも灯台が見える。 3. 三ツ葉の黒松  図6(赤松の右手)の黒松の葉は三ツ葉である。写真は暗いが右下隅に月石が見えるようである。3ヶ月ほど前で記憶が薄くなっている。  図8には後背の月影に掛かる梢を,図9には月石のそばに集められた松葉(山口さんから頂いた)を。聖師時代の黒松の子孫であることには間違いない。三代教主昇天のち現大本本部によって本宮山の月山不二から抜根された三ツ葉の松とこの松とは兄弟の可能性が高い。この熊野館から聖師と二代教主によって本宮山に持参されたのである。 おわりに  次回,お邪魔した時には,月山不二と月石についてはライダー測量したいと思っている。 以上,2025年6月5日記。