友人アーティストのKindle絵本作成サポート helping my friend, artist, to publish a Kindle picture story book

1. どうでもいい話 1.1 半珪化木  昨年の今頃,タニハ西縁の倉庫にあった家具仕立ての切り株が捨てきれず,もう一年,玄関に置いていたことになる。腰が砕けんばかりに重く,半珪化木だと思っていた。何とか役に立てないかと思っていたが,友人のアーティストに彫刻の材料になるのではと思い,電話したが通じない。写真付きで手紙を出したが返事がない。体でも壊したのかと心配しつつ,2カ月も経ったか。電話したら通じて元気だという。半珪化木だと伝えて,是非欲しいとなった。  図1はぼくの梅さんだ。葉は全くでないで,花が咲いている。ベランダに咲く紅梅も葉はなく,幹は何となく裂さくれ立っているが,この梅さんの幹はサクラのようだ。花の柄は短いが確かにある。 1.2 半珪化木の筈が  昨日,Feb. 24, 2024, 友人に渡す前にと,タニハに出かけた。到着後,友人に訪問の意思を伝えて,了解を得た。この半珪化木を半分に切って渡した方が良いとなって,ディスクグラインダーで伐ることに。  図2,3は,半珪化木と目していたものだ。1年振りに持つと余りに軽い。普通の木だった。倉庫にあった時は農業用水路のレベルに近い地面に置いてあったので,水を目一杯含んでいただけだった。ディスクグラインダーの有効深が4cmほどで使い難く,結局,普通のノコで切り分けた。その結果が図4だ。  図5の右手半片は,瘤状の高まりがあって味がある。これを友人用として,切り分けた断面をディスクグラインダーで削って取り扱いの安全性を高めた。図6,7の半片は図7のような形で玄関の上がり框に立てかけた。格好が良くないので,電動サンダーで形を整えた方がいいだろう。 1.3 久しぶりに育った街へ  タニハから大学進学前まで育った街に向かった。京都縦貫道との交叉点は何故か混んでいた。先の国道九号線の市役所そばの交叉点も混むので,これを回避すべく,市農協会館の交叉点から,九号線に入った。この農協会館は,国際ロータリークラブの留学試験が実施された場所だ。学生時代そのままで懐かしい。市役所交叉点から左折してJR駅前のバイパスから大本教神苑の交叉点で右折して,春日坂を上って,左に高校のテニスコートとみずほ会館を見て,広小路に。かつての閑静な住宅地は崩壊している。旅篭町との交叉点では友人のご両親が経営していた文房具店が今だにあった。二人のお子さんのうち長男さんとは同級だった。少し行くと酒造業の丹山があり,健在だ。お父さんが亡くなって娘が嗣いだという記事を見たことがある。いまはクルマで通ると狭く感じる横町を通って,かつての自宅を通り越してスーパーマツモトに来てしまった。友人が一代で築き上げたスーパーマーケット店舗の一つだ。何故か,スタッフが個をしっかり持っていて優しい。その駐車場にクルマを入れて,アーティストの友人に電話した。マツモトに入ろうとしたら向かいの道路際をあるく男性をみて,きいちちゃんだと感じて,声をかけて,握手をして,昔話をした。懐かしい。  マツモトではトイレを借りてイチゴ二箱を購入してすぐそばの友人宅に徒歩で。彼は待機してくれていて,長くおしゃべりをした。歓待してくれたが寒くて喉が痛くなった。おみやげの一つに,2023 Summer Marvelous Artists Issue, July Vol.112を頂いた。カラー大判部厚なのに2200円と安い。彼の木彫p. 220に掲載されている。地元芸術家には間違い無く,名を連ねている。複数回,受賞もしている。自宅に戻る途中の能勢町では新雪がうっすらと覆っていた。 2. 絵本の出版  彼は一流の国際観光ホテルを早めに退職して,アーティストとして生きて行こうとした矢先に,出版サギにあった。この種の詐欺行為をする似非出版社は日本にも多数あって,似非ながらも生きながらえているものも多い。懸賞を装って応募作品の中から厳しい審査をクリアした,という形で,なけなしのお金をふんだくる「出版社」も多い。  ぼくのこのサイトで述べてきたように,Kindle本は,こういう人々にも救いの場だ。世界に出版社は不要と考えても間違いでは無いぐらい,Kindle本は凄い。今だ出版社が生き残っているのは,Kindle本のスーパーパワーを社会がまだ認知していないからに過ぎない。  というようなことを彼に説いて,ぼくが代理で彼の絵本を出版することにした。その経緯を今後,このページに記して行く。もちろん,全部,無料。彼の著作権はもちろん,そのまま。販売額は彼が決めることになる。ぼくのコンテンツではamazon.com以外は100円均一。 2.1 最初の連絡  すでに完成した絵本をキンドルから出すという決断をされましたので,今後の流れを考えました。 1 キンドル版では,図は300dpi(以上)でアップロードする必要があります。経験的に,この程度の解像度であれば,30枚ぐらいであれば,アップロードも問題ありません。100枚でも問題無いのじゃないかと感じています。スマートフォンiPhoneやタブレットiPadで閲覧すると瞬時に閲覧でき,拡大して詳細も閲覧することができます。 2 お手持ちの原画をデジカメで撮影してください。媒体をそのまま,当方にお送りください。Adobe Photoshopで閲覧して,多少,手を加えるかも知れません。その作業結果は,お送り頂いた媒体にコピペして,確認して頂きます。  セブンイレブンでしょうか,ここでスキャナーが使えますので,問題無いかも知れません。ただ,当方の複合機(スキャン能力,1500dpi)では出來が悪く,iPhoneでフリーハンドで撮影した方がいい結果になります。 3 見せて頂いたテキスト量は多くないので,プリントアウトをそのままお送り頂いてもいいかと思います。 以上,第1回目のご連絡,Feb. 25, 2024記。    

みづほ日本 Mizuho Nihon

図1は,「みづほ日本」という雑誌の9月号(昭和29年)だ。発行機関は社団法人愛善みずほ会。月刊みずほ日本(九月号),通巻百六号,とある。表現として,みずほが一般であり,組織名や月刊誌名として,みずほが使われているにもかかわらず,雑誌タイトルは,みづほ日本となっている。  一般社団法人『愛善みずほ会』のWebサイトを見ると,  こうして愛善苑(大本)は「酵素農法」(※注)を中心として、米・麦・甘藷(サツマイモ)などを生産する篤農家を招き、農事講習会を頻繁に開催。昭和22年には本部および全国で、約50回にのぼる農事指導講習会を行っている。特に長野県の稲作研究団体「瑞穂〈みずほ〉会」の指導者、黒沢浄氏を招いたことがきっかけとなり、愛善苑農事課と瑞穂会を発展的に解消し、昭和23年(1948)2月4日、大本の節分大祭当日、「愛善みずほ会」が創立するときを迎えた。  そのころの聖師は、昭和21年8月に体調を崩されてからご静養を続けられていたが、昭和23年1月19日、天恩郷瑞祥館を終〈つい〉のお館としてご昇天になった(享年満77歳6カ月)。  聖師のご本葬は2月2日、綾部梅松苑の彰徳殿内で行われた。天王平〈てんのうだいら〉・奥津城〈おくつき〉でのご埋葬後、火継ぎの神事が厳修され、二代教主が大本の道統をご継承。その2日後の2月4日、節分大祭当日を期して二代目の苑主(大本教主)としてお立ちになった。  そして苑主に就任された大祭当日の午前中に「愛善みずほ会発会式」が行われている。つまり、愛善みずほ会の創立は、二代教主にとっての初の事業であったと言っても過言ではない。 愛善みずほ会活動のまさに原動力であった二代教主(愛善みずほ会初代総裁)は、お土を大切にすることや食物の大切さとありがたさを繰り返しお説きになり、特に農家の人には〝地力づくり〟に尽くして農産物の増産を図るようにと、ことあるごとにお勧めになった。  本会の草創期における活動は、非常に盛んに進められた。黒沢式稲作法や酵素農法、甘藷・蔬菜〈そさい〉の栽培等を指導し、全国的に運動を展開。昭和23年11月12日には「社団法人」として国の認可を受け、発会以来わずか9カ月で会員数12,000人、支部数700を突破。各府県には地区事務所を設置し、遠隔地には地方事務所を置いて、地方組織の充実を図った。  本会が発足した昭和23、24年当時はすでに愛善苑の全国組織も整っていたため、農家信徒はもとより、全国地方機関の役員信徒が全面的に協力し、講習会開催数は2年間で約2,000カ所、一会場で1,000人を超す聴衆を集める会場もあって、受講者数はのべ約50万人。その技術指導活動は当時の日本の食糧難を解決する上で、大きな貢献を果たしたことは間違いない。  などとあるが,「みづほ」の解説は見当たらない。創刊号がいつなのかもわからない。  飯塚弘明さんが運営される王仁DBには,大本七十年史下巻 第7編 第4章 5農事と芸術 には,————————————————運動の躍進にともない亀岡に本部事務所・講堂の建設が計画され、総工費三五〇万円で、木造二階建延一七五坪・付属建物三〇坪の愛善みずほ会館が昭和二五年五月に完成した。機関誌「愛善新聞」は、九月号より「愛善みずほ新聞」(B5判)と改題され、一九五〇年一月から、べつにグラビア版「農業グラフ」を刊行したが、一九五一(昭和二六)年二月からは右の二つを合併し、「みづほ日本」(B5判)と改題して月刊で刊行することとなった。———————————————— とあって,号数との関係を知る情報がみられる。なぜ,「みづほ」なのかはわからない。出口王仁三郎にゆらいする「みづのみたま」を想起させるのではあるが。  なお,冒頭の写真は三代教主であろうが,発行年月1954年9月からすると,1902年3月7日生まれであるから,52歳ということになる。目力(めぢから)があって,余りに若いように思うのだが。  タニハに,この『みづほ日本』のバックナンバーも結構揃っている。廃棄するかどうか,思案中である。 以上,Feb. 4, 2024記。  もう日が回ったがFeb. 6, 2024にもタニハに行って。資料の整理をした。父が,みずほ会館に机を得て,この運動に大いに関心を持ったのであろう。バックナンバーを収集し,残部を5部単位で購入したようだ。そのうち,2部だけを残して廃棄するなどの作業をした。ちょっと覗くと,確かに,全国的な組織を構築している。図2の建物はぼくも知る「みずほ会館」である。手前の広場はぼくの小学校時代は亀岡高校のテニスコートだった。テニスコートとみずほ会館の間の斜面緑地では,近所の子供たちを引き連れて,つくしんぼうを大量に取って,母に佃煮を作って貰ったことを覚えている。定期的に草刈りがされている場ではツクシやヨモギが繁殖する。図3はその九月号に掲載されている論文であるが山岸会の創始者が執筆している。図4はその表紙を開いて最初のエッセーである。これも連載されている。出口新衛さんはかなりの長寿で最近亡くなったようだ。知見豊かな文章だと感じる。  この時代の表紙は毎号,農業者の魅力ある写真が飾っていた。その一つが図1のものである。どの号にも表紙の写真に関する情報は一切記されていない。三代教主も「密かに」掲載されたようである。三代教主も,氏のエッセーによれば,兵庫県竹田(竹田城は天空の城で有名)で十年ほど農業者として暮らされていたようなので,新しい農業機械に関心もおありであっただろう。  まだ,出てくるだろうから,みづほ日本は整理しておこうと思う。もう少し出てくるだろうから。 以上,Feb. 7, 2024記。