新修亀岡市史 the Newly Revised Kameoka City History

はじめに

 「丹の海」に関わる部分に関心がある。古本を探したが,新本販売中にもかかわらず送料を入れると新本の価格になってしまう。全く不要な資料編第3巻と,参考にはなるかもしれない資料編第5巻を「日本の古本屋」窓口から購入した。

 亀岡市文化資料館で新本を購入するつもりだが,本文編第1巻,資料編第1巻,資料編第4巻,5,000×2 + 6,500 = 16,500円になるか。

 昭和三十五〜四十年出版の『亀岡市史』上,中,下揃いと,昭和三十六年出版の『篠村史』(非売品)と,昭和六十年出版の『故郷鎮守の森 亀岡神社誌』も同窓口から購入した。いずれもリーズナブルな価格だ。まだ届かないが。

追記 2025年10月23日: 『亀岡市史』上,中,下,『篠村史』,資料編第3巻,資料編第5巻が昨日,届いた。『亀岡市史』上,中,下は明らかな盗難品で,上巻だけに残っていた所蔵機関の後継部局(京都歴史資料館)に電話したら,送らなくて良いという。中下巻の扉は見にくく破かれているが,この経緯を上巻の扉に示して,一応,使おうと思う。まあ,盗る方は悪いけど,盗られる方も問題ありだな。荒っぽい破り方からするとかなり大量に盗んだようだ。

1. 全8巻の内容紹介

 驚くほど簡単な紹介だ。次の「2.各巻目次」が用意されているのは,2巻分だけ。


本文編第1巻 地理・考古・古代・中世前期 872頁


付録

  • 亀岡市大字小字図(付図)
  • 亀岡市大字小字図索引(冊子)

緑豊かな亀岡の自然環境の成り立ちを再検証。また、人々の営みを草創期から足利尊氏の挙兵までを叙述した通史編です。【平成7年1月刊行・第1回配本】

メモ:新本で購入することになるだろう,5000円(税込)


本文編第2巻 中世後期・近世 1,064頁


付録

  • 近世の寺社と街道(付図)
  • 大堰川筋絵図(復刻絵図)
  • 南野山惣絵図(復刻絵図)
  • 大井川筋立合芝原絵図(復刻絵図)

元弘3年(1333年)の足利尊氏の篠村八幡宮での旗揚げのころから、明治維新を目前にした慶応3年(1867年)の戊辰戦争前夜のころまでを対象とした通史編。【平成16年3月刊行・第7回配本】


本文編第3巻 近代・現代 1,080頁


付録

  • 亀岡市域変遷図(付図)
  • 小学校変遷図(冊子)

慶応4年(明治元年・1868年)から平成元年(1989年)までの、近代・現代の亀岡地域の歴史を叙述した通史編です。【平成17年7月刊行・第8回配本】


資料編第1巻 考古・古代・中世 1,448頁


付録

  • 亀岡市の遺跡地図(付図)
  • 亀岡市の遺跡(冊子)

考古では、市内で発掘された旧石器時代から江戸時代にわたる遺跡126カ所を図や写真で詳しく紹介し、古代では、丹波国全体を対象とした文献史料219点、木簡資料69点を収録、中世では、明智光秀が丹波入りする直前の天正2年(1574年)までの1,558点の文献史料を収録しました。【平成12年1月刊行・第4回配本】

メモ:新本で購入することになるだろう,5000円(税込)


資料編第2巻 近世 1,336頁


付図

  • 丹州亀山城下町復原図/山陰丹府桑田亀山図/村落変遷図/形原松平系図
  • 別冊 図版・亀山藩主一覧・明智光秀文書一覧・亀山城下町屋敷一覧

近世(江戸時代)の亀岡に関する史料を集めました。領主編・広域編・地域編にわけて、領主や亀山藩のことや、争論や水運・街道のこと、各村々の様子などを示す史料を多数掲載しました。【平成14年3月刊行・第6回配本】


資料編第3巻 近代・現代 1,326頁


付録

  • グラフかめおか20世紀(写真集)

明治から平成までの近代・現代の亀岡に関する史料を集めました。本編は史料が中心ですので、「グラフかめおか20世紀」と題した写真集を付録としました。なつかしい写真がいっぱいです。【平成12年11月刊行・第5回配本】

メモ:古本で購入済み。


資料編第4巻 地域・文化財(建築・美術・民俗・地理) 1,042頁


付録

  • CDブック『生活の中のメロディー~亀岡の伝承音楽~』

市内の寺社建築や仏像や美術品などを網羅。祭や年中行事など、ハレの民俗を収載。亀岡を航空写真と地形図の対比で知ることができます。都市地理的に重要な統計資料も収録。別冊としてCDに民謡や祭囃子などを収録しました。【平成8年3月刊行・第2回配本】

メモ:新本で購入することになるだろう,6500円(税込)


資料編第5巻 亀岡の民俗誌 1,230頁

市内の7地区の生活の様子を口頭伝承にこだわらず、生活史を語る文献史料も積極的に活用して詳細に叙述した民俗誌編と、亀岡祭の行列帳の翻刻や懸装品の一覧、方言の資料や、有形民俗文化財として梵鐘など埋け型の原型や民具、石造文化財などの一覧を収めた資料編で構成しています。【平成10年3月刊行・第3回配本】

メモ:古本で購入済み。

2. 各巻目次

 一体,何が生じているのか,わからないが,各巻目次があるのは,本文編第1巻と資料編第三巻の二巻分だけだ。これはテキストで掲載する。他のコンテンツが無いので,画像データ(PDF)を掲載する。

本文編第一巻 目次

発刊のことば 谷口義久
監修のことば 上田正昭


序章 亀岡盆地の史脈と伝統 (2)

  • 国境の第一国 (2)
    丹波の亀岡/接点の要域/日本海とのつながり
  • 口丹波の軌跡 (8)
    派遣の将軍/王権と古墳/律令制と丹波
  • 変革と栄光 (16)
    時代の変転/幕藩体制の亀岡/先人の活躍

第一章 亀岡の自然環境 (22)


第一節 亀岡市の位置と広さ (22)

  • 相対的位置と絶対的位置/亀岡市域

第二節 亀岡の地質と構造 (26)

  • 亀岡付近の地質と岩石 (26)
    近畿の地質構造区分/亀岡の地質構造の分類/古い時代の地層/新しい時代の地層
  • 亀岡付近の断層分布 (33)
    主な活断層/亀岡断層・保津断層と西山断層/その他の断層/亀岡盆地の地下

第三節 亀岡市およびその周辺の地形概観 (42)

  • 地形区分 (42)
    接峰面図の作製/丹波山地
  • 亀岡周辺の水系 (47)
    市域を流れる河川/桂川水系/安威川水系と猪名川水系
  • 亀岡付近の起伏の成立 (52)
  • 丹波山地の起伏/亀岡盆地の推積層/亀の背地形(定高性)/古い時代の亀岡(第二瀬戸内海時代)/ブロック化/亀岡盆地の段丘地形

第四節 亀岡の地形誌 (61)

  • 丹波山地 (61)
    若丹山地/摂丹山地/盆地南側の山地
  • 段丘と沖積平野 (70)
    桂川左岸側の段丘/桂川右岸側の段丘/沖積平野
  • 本梅盆地と谷底低地群 (76)
    山地とその山麓/山麓の麓屑面/摂丹山地南麓の谷底平野群
  • 特異な地形 (81)
    谷中分水界/深い谷地形/曽我部町の地形/崩壊地形

第五節 自然と人間 (90)

  • 集落 (90)
    天井川と集落/山麓や丘段上の集落/沖積地と集落
  • 災害 (94)
    桂川の水災害/土砂災害
  • 亀岡の気象 (99)
    気候と降雨/霧の漂う盆地/寒天づくり

第二章 丹波の黎明 (108)


第一節 旧石器時代の丹波 (108)

  • 旧石器時代の自然と気候 (108)
    最初の住民/氷河時代/日本人はどこからきたか
  • 亀岡盆地の旧石器時代 (115)
    鹿谷遺跡の石器/京都府域の旧石器遺跡/旧石器時代の生活

第二節 狩猟と採集の社会 (123)

  • うつわの誕生 (123)
    相次ぐ縄文遺跡の発見/土器の出現/縄文時代の時期区分/土器の編年作業/土器の年代
  • 縄文土器の流れ (130)
    縄文土器/草創期の土器/早期の土器/前期の土器/中期の土器/後期の土器/晩期の土器
  • 縄文人のくらし (136)
    住まい/縄文時代の人口/縄文人の行動範囲/貝塚/縄文人の墓
  • 縄文人の道具 (142)
    槍から弓矢へ/植物採集/魚貝類の採集/第二の道具

第三節 農耕社会の成立 (148)

  • 稲作の伝来 (148)
    太田遺跡の発見/稲の来た道/遠賀川式土器の広がり/稲作文化がもたらしたもの
  • 弥生土器の変遷 (154)
    弥生土器/第一様式の土器/第二様式の土器/第三様式の土器/第四様式の土器/第五様式の土器
  • 弥生ムラの実態 (159)亀岡盆地の弥生遺跡/環濠集落/最初の戦争/太田遺跡の石器/北金岐遺跡の田舟/大溝の堰/北金岐のムラ/北金岐ムラの交流
  • 弥生人の墓とまつり (171)
    犬の散歩でみつかった石剣/弥生時代の墓/弥生人のまつり/下弓削発見の銅鐸/銅鐸祭祀の終焉

第三章 古墳文化と古代豪族 (180)


第一節 古墳時代のはじまりと丹波 (180)

  • 古墳の出現 (180)
    園部町黒田古墳の発見/弥生の墳丘墓と古墳/倭王権の確立/古墳のひろがりと丹波/口丹波の初代首長
  • 伝承からみた亀岡の古墳 (189)
    口碑と古墳/桑下漫録と古墳/伝承からみた古墳
  • 亀岡盆地の前期古墳 (194)
    丹波への関門/丹波国と久我国/東アジアとの交流-筒形銅器
  • ムラのくらしとまつり (200)
    ベッドのある家/ムラの変化/木の容器/木でつくった鏃

第二節 前方後円墳の世界 (207)

  • 倭の五王の時代 (207)
    大王墓の移動/丹波政権
  • 亀岡盆地の中期古墳 (210)
    梅原末治の業績/棺と槨/副葬された鏡/丸い柱の家の埴輪/甲胄に身を包む被葬者/方墳の存在/地域勢力の動向/中期のムラ
  • 大王陵と千歳車塚古墳 (226)
    江戸時代の千歳車塚古墳/千歳車塚古墳の復元/千歳車塚古墳と継体王朝/大王と丹波の盟主的首長

第三節 群集墳の展開 (234)

  • 大陸文化の普及 (234)
    横穴式石室の採用/六世紀の首長墓/横穴式石室の時代/新しい生産技術/装身具と機織り
  • 群集墳と村落 (251)
    群集墳の形成/盆地各地の群集墳/石棚を持つ石室/古代のムラの風景/八木嶋遺跡と坊田古墳群

第四節 丹波と倭王権 (267)

  • 古代の丹波 (267)
    王権と古鏡/「丹波」の首長/丹波の県主/日本海と丹波/丹波王国論/丹波に居住した氏族
  • 丹波をめぐる伝承と史実 (287)
    后妃伝承/四道将軍/水江浦嶋子をめぐって/筒川嶋子伝説/常世の国/日下部首と嶋子伝承/豊宇賀能売命と大宮売命/櫛石窓神・豊石窓神/御食津神と丹波/倭彦王/千歳車塚古墳/蘇斯岐屯倉

第四章 律令体制の成立 (316)


第一節 古代寺院の成立 (316)

  • 仏教伝来と地方伝播 (316)
    古墳の終末と仏教/古墳から寺へ/丹波への広がり
  • 亀岡盆地の古代寺院 (322)
    国府寺か/桑寺廃寺/瓦で化粧した基壇/ミコシ堂と塔ツカ/梵鐘をつくる/礎石が残る興能廃寺/寺院の空白地域を埋める/首長墓と古代寺院
  • 古代寺院と氏族 (336)
    屋根を飾る瓦/山陽道に分布する瓦/隼人と丹波の氏族/本薬師寺の瓦との共通性/藤原宮の瓦との共通性/高句麗系の瓦
  • 寺院をみた民衆 (347)
    竪穴から堀立柱へ/工人の村

第二節 国郡郷制度と農民生活 (350)

  • 古代の亀岡 (350)
    大化改新/律令体制/山陰道と丹波国/郷名の比定
  • 丹波の居住者 (358)
    丹波の豪族/秦氏/丹波氏/出雲氏/部民の系譜を引く氏族/隼人と蝦夷/土地制度と税制
  • 丹波国の産業 (366)
    木材/鉱工業/牧と氷室

第三節 丹波国府の造営 (370)

  • 丹波国府の構造 (370)
    丹波守大江匡衡/丹波国府の施設
  • 丹波国府をめぐる諸説 (376)
    桑田郡にあった丹波国府/丹波国府の諸説
  • 丹波国府と発掘調査 (383)
    池尻遺跡の発掘調査/千代川遺跡の発掘調査

第四節 国分寺と国分尼寺 (391)

  • 仏教の伝来 (391)
    国分寺建立の詔/仏教公伝/仏教興隆の主導権
  • 国家仏教の成立 (395)
    天武朝の仏教/神と仏/護国経典/神祗の体系化
  • 僧尼の生産と統制 (399)
    僧尼の生産/僧尼令
  • 天平期の国家と仏教 (402)
    行基集団/行基と光明皇后/天然とうの流行/玄ぼう
  • 国分寺・国分尼寺の性格 (408)
    法華経と国分尼寺/光明皇后と阿倍内親王
  • 丹波の仏教と国分寺 (411)
    亀岡の古代寺院/丹波国分寺・国分尼寺
  • 丹波国分僧寺を発掘する (414)
    一七個の礎石/天にそびえる塔/再建された金堂/建物の配置/丹波国分尼寺はどこか/尼寺跡を掘る
  • 丹波国分寺の光と影 (423)
    僧寺と尼寺/中央政府の技術指導/丹波国分寺と唐招提寺の瓦/如宝と空海/国分寺がたどった運命

第五節 古山陰道の変遷 (432)

  • 奈良時代までの古山陰道 (432)
    山陰道の要/国分寺と古山陰道/案察使/A-B古道の方位
  • 平安時代の駅路 (440)
    老ノ坂と大枝駅/野口駅・小野駅/国府への道

第六節 村落と条里 (446)

  • 条里の制 (446)
    古代の土地区画/坪並の方式
  • 亀岡盆地の条里遺構 (450)
    大堰川東岸の条里/古墳の立地/一致しない条里パターン/大堰川西岸の条里/犬飼川流域の条里/条里の分布限界
  • 里の編成と集落 (467)
    坪番号を示す小字名/坪並方式/文献資料の検討/墓廻里と車塚古墳/市域西端部の条里

第七節 仏教美術の伝播 (481)

  • 天平時代の亀岡の仏教美術 (481)
    金輪寺の薬師像/丹波康頼の伝承/甘露寺の十一面観音像
  • 悔過信仰の流行 (487)
    神護寺の薬師像/甘露寺観音像と悔過信仰/大宮神社の吉祥天像/市内の天平寺院

第五章 王朝の世界 (494)


第一節 山背遷都と丹波 (494)

  • 丹波と長岡・平安遷都 (494)
    平城京の放棄/丹波と宮都の伝統/造営の用材/宮都の労働力源
  • 丹波医道の展開 (503)
    平安時代の医学/丹波氏の伝統/丹波康頼と『医心方』
  • 丹波農民の愁訴 (516)
    愁訴とは/丹波国農民の場合

第二節 酒呑童子の伝説 (521)

  • 酒呑童子説話の展開 (521)
    説話の概要/二つの大江山/首塚/貴船の本地
  • 老ノ坂子安地蔵の伝説 (535)
    子安地蔵の縁起/子易物語
  • その他の伝説 (543)
    医王谷/千手寺縁起

第三節 生産技術の発達 (547)

  • 丹波の古代の産業 (547)
    現代に活きる古代の特産物/林産と木材加工/丹波の古代工業
  • 篠窯跡群の成立 (554)
    篠窯跡群の発掘調査/篠窯跡群の隆盛/西長尾三号窯/篠窯跡群の変換
  • 篠の小型窯 (564)
    小型窯の発見/小塩から篠へ/前山二・三号窯の発見/緑釉陶器/西長尾五・六号窯の発見/二つの相違した小型窯/窯で働いた人々/みつかった工房跡/篠製品の供給先/須恵器窯の終焉
  • 平安建都・造寺と瓦生産 (578)瓦の歴史/丹波の瓦窯/篠瓦窯の操業/一号瓦窯はなぜ窖窯なのか/布目の瓦/平安京に運ばれた丹波の瓦/受領層と篠瓦窯

第四節 寺社の文化 (594)

  • 穴太寺の信仰 (594)
    平安時代丹波と仏教/穴太寺の創建
  • 式内社の編成 (600)
    神祗信仰の展開/式内社の成立/式内社の特質

第五節 仏教美術の光華 (609)

  • 貞観彫刻の発展 (609)
    平安遷都後の彫刻/兜跋毘沙門天
  • 天台・真言両宗の進出 (613)
    市内の天台宗寺院/市内の真言宗寺院/仁和寺領弥勒寺別院
  • 穴太寺観音像の造立 (620)
    仏師感世/都の仏師と在地の仏師

第六章 院政と源平の争乱 (626)


第一節 院政の成立と受領層 (626)

  • 院政の確立 (626)
    後三条天皇/白河院政の成立/受領層の活動
  • 丹波守の特色 (631)
    丹波の重要性/丹波守と院近臣
  • 丹波守の活躍 (638)
    源顕仲・季房/高階為章/藤原敦宗/藤原忠隆/国務の変遷

第二節 平氏政権と源平争乱 (648)

  • 保元・平治の乱 (648)
    保元の乱/平治の乱/丹波における武士団の出現/平治の乱と丹波の武士
  • 平氏政権と源頼政の挙兵 (655)
    平氏政権の成立/源頼政の挙兵/頼政塚の伝説
  • 平氏の没落 (666)
    丹波総下司の設置/平盛俊/平氏の都落ち
  • 源義経と亀岡 (672)
    源平の合戦と丹波/義経の活躍/篠村の変転

第三節 仏教美術の発展 (680)

  • 定朝様の流行 (680)
    浄土信仰の広まり/寄木造法/仏師の組織
  • 亀岡の定朝様仏像 (683)
    おもな作品/釈迦像から薬師像へ/市内の院政期の仏像/市内の一木造像
  • 亀岡の院政期の神像 (690)
    神像とは/市内の神像/小幡神社と出雲大神宮の神像

第七章 公武政権の相克 (696)


第一節 幕府の成立と承久の乱 (696)

  • 天下の草創 (696)
    時政の上洛/地頭の設置/丹波守護大内惟義
  • 後鳥羽院政 (704)
    後鳥羽院政の成立/院知行国丹波
  • 承久の乱 (710)
    公武の対立/乱の勃発と丹波武士/京方の敗北

第二節 荘園と地頭 (719)

  • 幕府勢力の浸透 (719)
    乱後の情勢/六波羅探題と丹波守護/新補地頭の補任
  • 中世荘園の成立 (726)
    荘園・公領体制の成立/丹波における荘園
  • 亀岡における荘園 (731)
    摂関家領荘園/皇室領と御願寺領/寺社領の荘園
  • 荘園をめぐる紛争 (740)
    地頭の非法/地頭請と下地中分

第三節 鎌倉後期の丹波 (746)

  • 政治・社会の変容 (746)
    後嵯峨天皇の即位/幕府の変容と丹波守護/悪党の蜂起/一遍智真と穴太寺
  • 足利高氏の挙兵 (757)
    倒幕の気運/千種忠顕の上洛/挙兵以前の足利氏/篠村における挙兵

第四節 仏教美術の普及 (770)

  • 鎌倉新様式の仏像の出現 (770)
    慶派の進出/南都復興と慶派/快慶と市内の安阿弥様仏像
  • 亀岡の石造美術 (777)
    市内の石仏/真神寺御正体
  • 亀岡の鎌倉時代の仏画 (779)
    残りにくい仏画/釈迦十六善神像と大般若経

第五節 鎌倉時代の建築文化 (783)

  • 寺院建築と石造層塔 (783)
    絵巻に見る穴太寺/石造層塔/野口荘と神尾寺文化圏/古渓山千軒寺跡
  • 広峯神社の棟札をめぐって (795)
    棟札とは/樫舟神社と広峯神社の棟札/大梵天王/広峯神社本殿
  • 愛宕神社の本殿 (803)
    鎌倉時代の神社本殿遺構/新様式の摂取/「むら」の社

略年表 (810)


巻末資料

  • 編さん委員・専門委員一覧
  • 執筆分担一覧
  • 写真・図・表一覧
  • 参考文献一覧

付録

  • 付図 亀岡市大字小字図(全三葉)
  • 冊子 亀岡市大字小字図索引

本文編第二巻 目次

 ブラザー複合機で性能はあまり宜しくなく,本をまずは紙コピーして,それを600dpiで給紙スキャンした。

資料編第一巻 目次

資料編第三巻 目次

『グラフかめおか20世紀』目次
刊行のことば 田中 英夫
監修のことば 上田 正昭


近代


一 史料解説 (3)

二 亀岡の明治維新 (16)

  • 一 廃藩置県と新しい行政 (16)
  • 二 立憲国家形成期の亀岡 (34)
    自治の伝統と議会制度の導入/自由民権運動/弓箭組/村の生活/士族の状態
  • 三 地租改正と諸産業の展開 (63)
    地租改正/物産取調/小作問題/物産会の開催/土地取引/農村金融/銀行/鉱業/同業組合/社倉米/災害
  • 四 近代教育制度と地域社会 (87)
    教育行財政・初等教育/補習・中等教育・教員/明治初年の被差別部落の状況/地域・保津川下り

三 亀岡の近代化と再興 (140)

  • 一 町村制の施行と新町村の発足 (140)
    議会制度と近代化/町村の行政と状況/軍事援護/寅天堰と水管理/鉄道建設/弓箭組/村の生活
  • 二 地主制の発達と諸産業 (205)
    農業改良の進展/農業諸団体/米穀検査の開始/小作問題/農村金融/諸産業の発展/鉱業の展開/部落有財産統一/災害
  • 三 学校教育の発達と地域社会 (241)
    教育行財政・初等教育・中等教育/実業補習学校・夜学・青年会/教員・社会教育・壮丁教育/宗教・社会事業・婦人会/地域・保津川下り

四 第一次大戦と亀岡の発達 (288)

  • 一 大正デモクラシーと地域の発達 (288)
    一般行政など/諸団体/篠村部落有財産統一/亀能鉄道/寅天堰関係
  • 二 農業の変貌と農民運動の展開(326)
    商工業の発展/農業諸団体の発展/金融恐慌/土地改良事業の進展/京都府産米の声価/小作問題/自作農創設維持事業
  • 三 教育の自由化と地域社会(362)
    教育行財政・初等・中等教育/社会教育・教員・青年団・壮丁教育/宗教・社会事業・婦人会/地域・保津川下り

五 昭和恐慌と戦争への道 (408)

  • 一 昭和恐慌と産業構造の変貌(408)
    昭和恐慌期の農業/経済更正計画/自作農創設維持/地方銀行の整理・集中/小作問題/労働争議
  • 二 昭和初期の町村行政(434)
    一般行政など/軍事/旭村・富本村合併問題/河原林村・千歳村・馬路村合併問題/寅天堰問題
  • 三 戦時体制下の行政・産業(460)
    戦時農業/産業組合による病院経営/軍事援護活動/勤労動員/兵士・満州開拓民/医療・厚生/国民統制/官製国民運動団体/疎開・防空
  • 四 昭和恐慌後の教育と地域社会(513)
    初等・中等教育/社会教育・青年・教員/宗教・社会事業・地域

六 総記 (550)

  • 一 日記(550)
    山田理助日記/山田理一郎日記/山田晋太郎日記
  • 二 政治関係書簡(671)

現代


一 史料解説 (685)

二 戦後亀岡の再出発 (694)

  • 一 戦後の政治改革と町村政(694)
    敗戦直後のようす/町村政の動向/警察と消防
  • 二 戦後の暮らしと経済(744)
    敗戦直後の生活事情/農地改革/農協の設立と農林業の発展/商工業の発達/世相・観光・文化/交通・通信・運輸
  • 三 戦後の教育改革(796)
  • 四 戦後の災害と復旧(820)
    阿久根台風/デラ台風・ヘスター台風/ジェーン台風/七・一一水害/ダイナ台風と昭和二十七年の豪雨被害/昭和二十八年の災害

三 亀岡市の誕生 (902)

  • 一 合併推進の動向(902)
    旭村と船井郡富本村との境界変更/合併の促進/亀岡市の設置/合併前後のようす
  • 二 亀岡市発足後の合併(926)
    昭和三十年代の合併状況/南桑田郡樫田村と高槻市との合併/亀岡市と船井郡東本梅村との合併/亀岡市東本梅町南大谷・若森と船井郡園部町との合併/西別院町牧・寺田の分市/篠村の合併/馬路町の一部の八木町への編入

四 新たな発展と亀岡市 (982)

  • 一 亀岡市行政の展開(982)
    市政の始動/選挙/行・財政/庁舎建設と公共施設/生活基盤の整備/道路・交通網
  • 二 産業の発展と構造変化(1015)
    暮らしの変容/住宅開発/工場誘致/農林業と伝統産業/商店街と大型店/観光/環境問題
  • 三 災害と事故(1066)
    水害とその対策/事故
  • 四 住みよい町づくり(1096)
    総合計画と公共施設/生活基盤の整備/人権・同和問題の取り組み/道路・交通網
  • 五 教育と文化の発展(1141)
    教育/文化
  • 六 二十一世紀に向かって(1181)
    市民憲章と宣言/姉妹都市と国際交流

統計資料 (巻末から)

  1. 人口(3)
  2. 財政(6)
  3. 公務員(12)
  4. 農林水産業(13)
  5. 事業所(38)
  6. 運輸・通信(47)
  7. 衛生(48)
  8. 教育・文化(49)

巻末資料

  • 編さん委員・専門委員一覧
  • 執筆分担一覧
  • 資料提供・協力者一覧
  • 写真・図・表一覧

付録

冊子 写真集『グラフかめおか20世紀』

資料編第五巻

3. 詐欺サイト

 「あなたが」という詐欺サイトにひっかった。埼玉県の詳細な住所や電話番号などがあり,この情報には疑いを持たなかった。新修亀岡市史全8巻が6,500円弱。

 以前,祖父の遺品として1万円余でメルカリで販売されていたが今はもう購入済みであることは知っていた。写真も全く一緒。横流しなどの盗品であってもいいかなあ?と悪魔が囁く。下の図の個数の枠に誤って2を入れても全然問題がないことで奇妙に感じたことが良かった。

 Perplexityに聞いたら,全くの詐欺サイトで,この「あなたが」の被害報告があるとのこと。口コミは中国のもの。会員登録をしてしまったので,悪用される可能性があり心配だ。

 改めて,「日本の古本屋」サイトはツクヅク安心だと思う。ここでも新本販売中なのに,それより高かったりしている古本店はあるのだが。

以上,2025年10月21日。




父の著作と背広と the collection of my father’s masterpieces and wardrobe

はじめに

 父の最晩年著作本の在庫を捨てる訳には行かない。これがやたらに多く長く廊下に山積みになっていた。父昇天のちに移動してダンボール箱の下にスノコを敷いたりしてきたのだが,どうにもならず,メタルラックを購入して過去,整理していたのであるが,まだ残っていた。それを昨晩ついに,全部メタルラックに入れることができた。長くメタルラック設置の場所が確保できなかったが,衣服の箪笥を廃棄してスペースを開けた結果である。

 残っていた整理ダンスなど4個を廃棄した。その中の衣類はかなり処分したが,父の背広などや母の着物の反物を一部残した。東の間に置いていた箪笥一つと段ボールに何とか整理できたのである。これで次のステップ?に頭が回ることになる。一つ一つ解決することで,次の作業テーマが見えるのである。懸案の倉庫に残ったものにまた掛かろうか。暑くなると蚊も出てきて入れなくなる。

1. 家具廃棄例

 図1のように,西之間南側廊下には,家具3個があって,無駄な抵抗感で残すべくクリーニングもしたが,結局すべてを廃棄した。図2や図3のように,一部,修理用にと残した。整理ダンス廃棄は一人で実施するにはかなり重かった。図4のように二分してクリーンセンターに運んだ。図5〜9のように,雑巾掛けをしたが全く汚れは取れず,サンダーを使用した。

図1 西之間南側廊下の家具3個

図2 廃棄物から板を採取

図3 化粧板というものだ

図4 小さなカローラに積んで

図5 雑巾掛け 西側

図6 雑巾掛け 東側

図7 汚れが取れない

図8 サンダーで

図9 さらに雑巾掛け

2. スティールラックを使用

 図10の確保していたラックを使用して図12にあった段ボール箱を収納した。新たにラックを2本注文し,図13にあった段ボール箱を収納した。

図10 Doshisha メタルルミナスラック

図12 段ボールが積み上がっていた場所

図13 段ボールが積み上がっていた場所

3. 衣類と本の整理と

 図14〜19に見える箪笥は東棟から移動したもの。唯一の箪笥になった。内装は桐製。大きな引き出しは父の背広で満杯になった。それで母の着物は図18のような段ボール箱(メタルルミナスラックのもの)に入れたが詰めすぎになってしまった。

図14 東棟から持参した箪笥を

図15 スノコを準備して

図16 箪笥設置完了

図17 箪笥の上に母の着物を不織布で

図18 母の着物を一つにまとめて

図19 タンスの上に配置

 図20には今回の本収納結果を示している。二つの段ボールの山であったが,この二竿だけでなく,以前収納した図21の最上段の二段重ねの隙間を埋めることで何とか収納できた。かなりの重量で廊下が沈没しないか心配であるが,父の話では本収納ために三間の周辺を強化したことを聞いていた。父が嬉しそうにぼくに伝えた時の状況を思い出すのであるが。母の着物を二分するために残りのラックを組み立てて,もう一つの段ボール箱を確保した。図20に見えるように,ラック屋上に二箱を載せている。蓋が開かないように松製のスノコを重しとして利用している。

 なお,衣類はすべてアマゾンから購入した不織布で包み,防虫剤を入れている。[不織布 袋 特大 入り数量:10枚。寸法: 約高さ60×長さ90cm。開口部は90CMの長辺]で10袋1700円ほど。20袋を使用した。

図20 二竿のスティールラック

図21 三竿のスティールラック

おわりに

 また懸案の一つが一応ではあるが片付いた。次は倉庫か,それとも昨年冬に倉庫から出した書類の整理か,それとも………。この冬の仕事であった。

以上,2026年3月2日。




日本タニハ文化研究所の使命とは What is the mission of the Nihon Taniha Cultural Research Institute?

はじめに

 昨日,タニハで整理していて,日本タニハ文化研究所立ち上げの新聞に出会った。父の社会的動員力に改めて脱帽である。記事の内容を見ると,父の立ち上げ時の思いが伝わってくる。立ち上げの年月日がぼくには,はっきりしなかった。昭和四十九(1974)年10月十八日である。父に最もかかわりのある熊本県山鹿市の瑞霊苑碑との関係があるかと思うが,まだ把握できていない。

 この投稿ではアイフォーンで撮影した新聞記事の紹介をし,その後,同研究所での活動の一端を示して,同研究所の今後について考えたいと思う。

1. 京都新聞記事2件

1.1 昭和49年10月8日(火)記事

図1 亀岡市に完成したタニハ文化研究所


丹波の歴史解明の拠点 タニハ文化研究所が完成

 丹波の歴史を解明しよう ー と、亀岡市本梅町平松で建設が進められていた「タニハ文化研究所」がこのほど完成。十八日には地元民ら関係者を招きしゅん工式を行う。これまでの建設の中心となってきた同市古世町北古世、歴史研究家木庭次守さん(五七)は「ここを拠点に埋もれた資料を収集、ユニークな丹波文化史をまとめたい」と意気込んでいる。

 木庭さんは熊本県の出身で,昭和七年、大本熊本支部で初代教主出口王仁三郎師に会って以来、その人物と著書にひかれ大本教に入った。木庭さんと出口教主との親交は、昭和十年から始まった大本弾圧など(を)通じますます深められたが,一方で、世界統一などを叫ぶ出口氏を生んだその風土を理解したい ー と丹波文化に興味を持ちはじめた。

 「たんば(丹後、但馬を含む)は、古代二大文化圏の大和、出雲地方に匹敵する文化発祥の地で、むしろたんぱの文化が両地方に波及した」というのが木庭さんの仮説。天橋立を中心に大陸との交流が行われた ー と見ているが,これらを裏付けるまとまった資料がない。丹波文化解明の資料が少ないのは「都に吸収されると同時にこの文化が全国に散らばった」と木庭さんは言っている。

 ナゾの多い丹波の文化史をまとめるには、これら資料を全国から集めるとともに、埋もれている郷土史家の研究や古文書,伝説などを一堂に集め、研究者の意見交換の場が必要として,全国各地の有志二十人が集まり,建設委員会を設立,研究所の土地約三百平方メートルは地元の農業森義一さん(八六)が趣旨に賛同して提供した。歴史学者の上田正昭京大教授らが顧問に名を連ね、昨年四月中旬から建設が進められてきた。

 完成した同研究所は、木造平屋建、約二百七十平方メートル。うす緑色のレンガで建物の周囲は石で囲まれている。「タニハ」の名前は丹波の語源から取った。木庭さんら関係者は「丹波は足利尊氏,明智光秀,出口王仁三郎ら反骨精神盛んな興味ある人物が輩出しており、今後埋もれた資料などを集め研究していけば,これまでの学説をくつがえすような丹波文化史が出来上がるのでは…」と研究所の完成を喜んでいる。

(写真説明:亀岡市に完成したタニハ文化研究所)

1.2 昭和49年10月19日(火)記事

図2 タニハ文化研究所の完成披露式

まず10年間で古代史 取り残された歴史を発掘

 ナゾの多い丹波の歴史を解明しようと、亀岡市本梅町平松で進められていた「タニハ文化研究所」の完成披露式が十八日、同研究所研さん室で開かれた。

 席上、建設の中心となってきた同市古世町北古世,歴史研究家木庭次守さん(五七)は「ここを拠点に十年計画で埋もれた資料などを集め、丹波文化史をまとめると共に、日本古代史の多くのナゾをも解明したい」と意欲を披露した。

 完成した同研究所は、木造平屋建て約二百七十平方メートル。研さん室のほか書庫,宿舎,談話室などがあり、タニハの名は丹波の語源から取った。全国各地の協力者の寄付金をもとに昨年夏から着工していた。研究グループは,木庭さんの趣旨に賛同した長野,鳥取,熊本各県の全国各地の郷土史家や民俗研究家たちで、徳川宗敬日本博物館協会会長や上田正昭京大教授(古代史)らも協力を申し出ている。

 披露式は午前十時から開かれ、平田亀岡市長、酒井同議長ら地元名士のほか上田穣京大名誉教授ら六十人が参加、上田教授は「ここを拠点に日本文化の花が立派に開花することを期待しています」とあいさつ。ビールなどで乾杯し完成を祝った。

 計画では三十年間の長期予定で、丹波総合史の編集作業に着手。初期の十年は丹波古代史の執筆、残り二十年は丹波の中世、近世の史料収集と執筆を行う。木庭さんは「たんば(丹波、但馬を含む)は、古代二大文化圏の大和、出雲地方に匹敵する文化発祥の地で、むしろたんばの文化が両地方に波及した」と大胆な仮説を打ち出している。

 このため木庭さんはじめ関係者は「これまでの日本史の中から丹波研究は取り残されてきた。全国に散在している丹波に関する史料を集大成すれば、丹波の一大文化圏が浮かび上がり、これまでの学説をくつがえすような歴史的真実も現れるのでは……」と研究所の完成を喜び合っていた。

(写真説明:タニハ文化研究所の完成披露式)

2. 解説

 父から当時の森儀一さんとの出会いは聞いている。不思議だなあ,と繰り返し言っていた。いくつか建設の候補地があったが,森儀一さんとの出会いが大きかった。森さんは出口王仁三郎を敬愛していたという。そこで父に土地の永年無料貸与となった。ぼくは一度父と儀一さんと娘の綾子さん宅にお邪魔してご挨拶したことがある。お二人に歓待していただいた。

 旧大阪府道・京都府道731号天王亀岡線(おおさかふどう・きょうとふどう731ごう てんのうかめおかせん)が敷地の前を通っている。この天王亀岡線は,大阪府豊能郡能勢町から京都府亀岡市に至る一般府道であるが,父存命中にこの南の谷筋にバイパス建設が始まって,今は府道ではあるが,このバイパスが天王亀岡線となった。

 敷地は,この府道から谷底への斜面で何段かの棚田があった場所だ。建物の基礎が課題だと父から聞いていた。その後,また出会いがあって?山から大量の岩の捨て場所に困っている?方があって,その岩を使って埋め立てることになったと父から聞いている。ぼくにとっては断片的な話である。

 その後,義一さんが昇天されて,綾子さんから父に老後の費用を無心されるようになり,親戚一同との高い圧の話し合いにぼくも筧さん(元大本青年部長で父とタッグを組んで多数の出版業務を実施)と同席した。ぼくが大学院博士課程の時代である。結局,当時500万円余りで購入したようである。当時,この場所の登記をした北野司法書士事務所(現亀岡市役所の前)に行って聞いたが妥当な価格だと言っていたのであるが,数年前に京都府山城町の環境問題に関わった際にわかったのであるが異常に高値であった。

 さて,「天橋立を中心に大陸との交流が行われた 」というのは,予言者出口王仁三郎の『霊界物語』に基づいている。

——— 引用〜『霊界物語』第十六巻序文

 いよいよ本巻ほんくわんより、古称こしよう自転倒おのころ島じますなはち現代げんだいの日本にほん国内こくないにおける、太古たいこの霊界れいかい物語ものがたりとなりました。十五じふご巻くわんまでは天教山てんけうざんおよび大台おほだいケ原山はらさんを除のぞく外ほかすべて海外かいぐわい諸国しよこくの物語ものがたりです。

 本巻ほんくわんには、神かむ素盞嗚すさのをの大神おほかみの生うみませる八乙女やおとめの御お一人ひとり、英子姫ひでこひめが、メソポタミヤの顕恩郷けんおんきやうより、邪神じやしんのために老朽船らうきうせんに乗のせられて海原うなばらに流ながされ、漸やうやくにして日本海にほんかいを横断よこぎり、丹後国たんごのくに天あまの橋立はしだて附近ふきんの竜燈松りうとうまつの根元ねもとに安着あんちやくし、大江山おほえやまに割拠かつきよせるバラモン教けうの大棟梁だいとうりやう鬼雲彦おにくもひこの部下ぶかの悪党わるものどもに出会であひ、種々しゆじゆ辛酸しんさんを嘗なめ、遂つひには由良ゆらの湊みなとの人子ひとごの司つかさ秋山彦あきやまひこの館やかたに身みを遁のがれ、ゆくりなくも、父ちち素盞嗚すさのをの大神おほかみおよび国治立くにはるたちの命みことの御おん分霊わけみたまなる国武彦くにたけひこの命みことに面会めんくわいし、大江山たいかうざんに鎮しづまり給たまふ鬼武彦おにたけひこ一派いつぱの白狐びやくこに救すくはれ、或あるひはウラナイ教けうの棟梁株とうりやうかぶ、高姫たかひめ、黒姫くろひめの死者狂しにものぐるひの大活動だいくわつどうより、剣尖山けんさきさん麓ろくの谷川たにがはにおける御禊みそぎの修業しうげふ、皇すめ大神おほかみの貴うづの御舎みあらかの建設けんせつならびに天あめの真名井まなゐ嶽だけに向むかつて、悦子姫よしこひめは四五しごの従者じゆうしやと共ともに進すすみ入いり、豊国姫とよくにひめの尊みことの御ご降臨地かうりんちを探たづぬる一条いちでうや、厳いづの御魂みたま、瑞みづの御魂みたまの大神おほかみが、綾あやの高天原たかあまはらの蓮華台れんげだい上じやうに、神秘しんぴ的てき経綸けいりんの基礎きそを開ひらき給たまふ深遠しんゑんなる経緯けいゐの大略たいりやくを述のべて置おきました。猶なほ引続ひきつづき数巻すうくわんに亘わたり内地ないちの物語ものがたりであります。

引用〜おわり ——— 飯塚弘明の王仁DBコンテンツ使用

 これだけ見ても,もちろん理解できない。この部分こそ,天孫降臨に関わる場面と父は考えていた。『霊界物語』研究のアプローチとしてタニハ文化の追求があったのである。門脇禎二(1986)『日本海域の古代史』東京大学出版会,の内容は,天橋立竜燈松よりかなり後のことと考えて良い。

 上掲記事で述べらている研究方針は残念ながら実現されていない,というか記事どおりではない。父の現史学へのロマンが記事と関わる言動に繋がったのであろうが,木庭次守の研究の中核は出口王仁三郎口述『霊界物語』であった。日本タニハ文化研究所の設立は父の何十年にも亘って準備された夢の実現であったと思う。この成果については別途,示したいと思う。

 図3と図4は,木庭次守編・木庭元晴監修(2010)『霊界物語ガイドブック』八幡書店,からピックアップしたものである。図3の第十六巻梗概のはじめに,「いよいよ本巻から自転倒島(おのころじま)すなはち現代の日本国内における太古の霊界物語である」,とある。図4の左図は,第十七巻に関わって掲載された「綾部付近の略図」を示している。

図3 『霊界物語』第十六巻

図4 第十七巻の解説に付された「綾部付近の略図」

 記事中の「これまでの日本史の中から丹波研究は取り残されてきた。全国に散在している丹波に関する史料を集大成すれば、丹波の一大文化圏が浮かび上がり、これまでの学説をくつがえすような歴史的真実も現れるのでは……」とあるが,「埋もれた資料」というのは結局,遺跡遺物にあたる。郷土史家や好事家が秘匿している資料ではない。いわば,縄文遺跡からメソポタミアとのつながりに関わる遺物が発見されたとすると,竜燈松のエピソードが証明されたことになるのだろうが,『霊界物語』では歴史的時間が簡略短縮化されているため,メソポタミヤの顕恩郷けんおんきやうから天橋立に辿り着くのは各地を経由して何千年か何世代も経てのことであり,せいぜい周辺地域からの渡来ということにはなるのではある。

 なーんだあ,やっぱりー,という笑いが出てくるかもしれないが,父は王仁三郎との出会いで実際に不思議を体験して霊界物語については確信しているのであるが,ぼくも独自に多くの不思議を発見し証明することができる。すでに作成した論文をKindle版で公開するつもりである。

 出口王仁三郎口述『霊界物語』は,王仁三郎が高熊山修行で霊感修得した世界観であって,現在の歴史学的知見とは相容れないが,実は王仁三郎説は荒唐無稽ではなく,事実に基づいているという木庭次守の確信からの発露なのである。

 簡素な資料と素朴な歴史観から構築されてきた現在の歴史学,は,いわば「埋もれた資料」をも利用してきたものであり,父の論点からでは,『霊界物語』の世界は,素朴な思考を続けてきた研究者には受け入れられない,とぼくは感じている。父は生涯,周囲の研究者を尊敬し憧れもしてきて,その延長で,『霊界物語』を現代社会に根付かせようとしたのであるが,この二つの世界の間には途方もないほど高い壁がある。

 亀岡市史は,亀岡市史編纂委員会編(1960)『亀岡市史』と亀岡市史編さん委員会編(1995〜2000)『新修亀岡市史』があるが,いずれも大本教団や出口王仁三郎には一切触れていない。戦後の原水爆禁止運動や世界連邦運動では大本教団は日本さらには世界的に活躍したのであり,「世界連邦・非核平和都市」宣言第一号は綾部市で,第二号が亀岡市であることを見ても,大本教団の役割がわかるが,それでも完全無視をしているのである。上田正昭は,『大本七十年史』『新修亀岡市史』の編集責任者であったが,歴史から大本教団と出口王仁三郎を排除しているのである。

 父の言う「埋もれた歴史」というのは,実はこの現実を言っていると考えられるのである。木庭元晴は,古代タニハ「丹の海」とその排水プラグを地形発達史から復元 ,のPart 1を2026年春にまとめた。その過程で亀岡盆地中南部の弥生・古墳時代の先進性について学ぶことができた。偶然,父の夢の一部を形にすることができて嬉しい。これは関西大学文学論集Vol. 75, No. 4に掲載される。近いうちにKindle版でも発行したいと思っている。主に自然地理学的手法を使っている。地形学的観点から学会誌にも掲載予定である。

以上,2026年3月6日。

3. 資料廃棄過程

 残された資料を見ると,亀岡市文化資料館からの資料,園部町教育委員会からの資料,などの地元行政機関からの資料,複数の大学宗教学教室のタニハでの合宿の報告書,メジャー出版社から発行された教養シリーズなどである。これらは日本タニハ文化研究所立ち上げ後のもので極めて零細な収集である。

 朝日新聞とその関連の資料(eg. 朝日ジャーナル)は戦後ずっと続けて収集されてきたもので膨大で,スペース確保のために,ほぼすべて廃棄した。日本岩石鉱物鉱床学会誌,日本第四紀学会誌,日本地質学会誌,日本鉱物趣味の会誌なども膨大で,戦後出版されたすべてが揃っていたがほぼ全部廃棄した。タニハで保管する意味がないからである。

 父は紙一枚,廃棄できない人であった。残っている原稿用紙束も多かったが,最初の数ページだけ書いて,残りは白紙という形が多い。この現象をみて,ぼくの小学生時代を思い出した。小学校の担任の先生から母が呼び出されて,ぼくのノートの使い方が,最初だけ書いて白紙のままで,あらたにノートを買っているという悪習癖を指弾されたのである。悪いこととは知りながらその傾向が消えなかった。潔癖な父とずぼらな僕との類似性である。

 父はやたらと紙を集める習癖がある。本や論文作成というか事典の索引作りのために見出しなどが印刷された厚紙がやたらと多く残っている。ぼくは廃棄しきれずにその半分近くは残してきたが,近いうちに廃棄する必要があるだろう。廃棄するにしても,まずは残しておくと,廃棄しやすくなる。

以上,2026年3月4日。

 いま,大量のお玉串袋を廃棄している。父の宗教さらに研究活動を支えていただいた方々の志である。もちろん,父を信頼してこられた方々であって,父ゆえの力とも感じられる。残すのも一つの選択であるが,とにかく,省スペースの方針でゆくしかない。手紙やハガキも捨てたが,論理なく,通信記録を残している。

 大量の写真もあるが父はメモを全くと言って良いほどしないので,いつ,どこで,がわからない。なぜ,これほどまで,記録しないのだろうかと思う。

2026年3月11日。

4. 残すべきものは

さて。

以上,令和8年3月6日。




倉庫の引き違い戸の錠前交換 replacing the sliding door lock on a warehouse

はじめに

 本館に隣接する倉庫の整理を始めて何年だろうか。たぶん4年目。1年目は倉庫地下,西端水路沿いの倉庫の整理をして,2年目の冬の開始時には錠前を開けることができず,バールで破壊して,それ以来,多少不用心かもしれないが施錠をしてこなかった。半世紀ほど放置されてきた資料の整理と処分,そして,完全に空き家にして,倉庫自体を撤去するつもりであった。もう春になったが,なんとか,遅くともこの2026年4月はじめまでには空にできそうに思う。撤去を業者さんに依頼すると,出た材木やトタンなどでぼくが運べるものについてはぼくが処分するとしても,どうしても100万円ほどは掛かるだろう。

 如何に撤去するかをここ2年ほど考えていたが,知人から一時的に書籍を二年ほどか,預かる約束をしたので,その置き場所にここが適当ではないかと,突然,考えるようになった。もしそうなら,施錠が必要になる。

 今日,その施錠を実現したので,記録をこの投稿に残す。

以上,2026年3月19日

1. 倉庫整理再開 Mar. 15, 2026

 アルミニウム玄関引戸を図1に。この右手のスペースが図2のパノラマ写真。かなり片付いた。通気が悪く紙の古びた臭いがする。また,再開だ。早く終了したい。

図1 また倉庫前に立つ

図2 倉庫北スペース内をパノラマで

2. 引き違い戸錠前は内引き戸の方は残っていた

 図3のように,バールで破壊したのは外引き戸の錠前で,図4のように,内引き戸の錠前は全部残っている。

図3 バールで壊した錠前の外側からみて

図4 内引き戸の錠前を外側からみて

 図5は,内引き戸の鍵を内側からみたところ。図6はその一枚を外したところ,図7は二枚とも外してアルミ板の穴が露出しているところ。

図5 内引き戸の鍵を内側から

図6 一枚外すと

図7 二枚外して

3. 鍵が壊れた原因がわかった

 いまだ紹介していないが新しい錠前をアマゾンで買って設置してみた。そうすると,外引き戸と内引き戸にそれぞれ錠前を設置したが,鍵穴がずれている。内側の表示窓から外側の位置合わせ穴を覗くと,外側の位置合わせ穴がより下がっている。なんとか一部が見える。アマゾンから購入した製品は半世紀前のものと全く同じなので,原因は錠前にはない。敷居のレールを見ると図8〜10のように,外側のレールが下がっている。つまり,敷居の下の木部が風化してしまっているのである。倉庫への出入りの際,レールの部分を踏んできたのも二次的な原因だろう。

図8 引き戸の北側は

図9 引戸の南側は

図10 引き戸の風化は

4. アマゾンで購入

 アマゾンで物色して,廉価で融通性がありそうな製品(5286円)を購入した。

図11 ALPHa 万能引違戸錠 L4056-ALU

図12 右端は旧内側錠

 届いてみると(図11),どうも同じものであることがわかった。図12には3本並べている。右端は残っていた内側の鍵,左のふたつは新たに届いたものである。右二つは内側の錠前であるがそっくり。図13はアマゾンに掲載されている説明書である。送付されてきた文書と同じ。全く同じ製品なので,中段の説明を見るだけで済んだ。

図13 ALPHa 万能引違戸錠 L4056-ALU取扱説明書

5. 調整

 図6と図7は内錠前が入っていたアルミの穴を示している。この穴の内側と外側の下辺を金ヤスリで少しずつ削って,位置合わせ穴の一致具合を見た。

図14 内引き戸の鍵前のアルミ穴の下辺を少し削った

図15 完成(鍵を下げている)

 図13中段の,2. 鍵の取付けと調整,の,4)の鍵,およびツマミでの施錠解錠がスムーズなことを確認する,ということであるが,引き戸の周りの枠自体が歪んでいるので簡単ではない。

7. 施錠と解錠の注意点

 ピッタリと引き戸を閉めても施錠解錠は当然ながら,できない。ピッタリと閉めたあと,少し指で押さえこんで戻すと,施錠解錠ができる。

 施錠の際には,鍵を突っ込んでシリンダーが入るのを確かめて,時計回りだ。解錠は簡単で鍵を突っ込んでシリンダーが入るので,反時計回りだ。

 バールで壊す羽目になったのは,外引き戸が下方に落下していたためである。外引き戸を上に持ち上げて,鍵を時計回りに回せるかどうか確認して,反時計回りにすれば,解錠していたものと思われる。

 今後も外側はまだ下がるだろう。解錠できない場合,外引き戸を上に上げてみる必要があるかもしれない。それから,敷居は踏んではならないと思うのである。新たな鍵が5本もあってどうしようかと思っている。

おわりに

 鍵がなんとかなったので,一時的に本を預かることが可能になった。倉庫右スペースには窓が一切無いので通気が悪く古い紙の臭いが床や建具に染み付いている。とにかく,全資料さらには残りの座布団などを出し切って,埃を被らない程度に掃除して,通気を考えたいと思っている。

以上,2026年3月20日。




大理石テーブルと玄関前踏み石のクリーニング Cleaning a marble table and an entrance stepping stone

はじめに

 この正月には年来の気になっていた大理石のシミを重曹で処理した。昨日は玄関前の花崗岩の踏み石の白猫ちゃんの臭い消しをやはり重曹でやってみた。その記録をここに残す。

1. 大理石のシミ取り

 図1〜4に作業過程を示す。クリーニングの効率が同じなのか,薄い汚れは見えなくなった。実はこの作業を2回実施したが限界に到達か。

図1 まずは汚れた自然の大理石テーブルを

図2 重曹をペースト状にして汚れた部分に塗った

図3 ラップを載せてまる三日放置

図4 完成品

2. 玄関前の踏み石

 雨の日はこの踏み石付近は獣臭がある。なんか黒光りしている部分があって気になっていた。直接,目撃したわけではないが,いくつかの事件があって,白猫ちゃんに間違いない。いまも寝ているかもしれないので,忌避対策も必要かもしれない。

 図5はクリーニング前。引き戸そばの禿げているように見える場所がかつては黒光りしていた。図6のように重曹を用意して湯を足してペースト状にした。図7では踏み石が濡れているが50度のお湯で石の表面を濡らして,重曹ペーストを図8のように塗った。ほぼ1時間放置してその後,デッキブラシで磨いた。その結果が図9である。写真を見ると緑藻が見えるなあ。タニハを出る時は雨が降っていて,臭いは残っていた,残念ながら。

図5 引き戸に近くて上部の部分が曲者

図6 ありったけの重曹

図7 さてこれから重曹を

図8 重曹を塗ってその1時間後に

図9 タワシで磨いたあと

3. 踏み石よもう一度

 Geminiによると,

①お湯で予備洗浄

まずはバケツでお湯を撒き、石の温度を少し上げます。これにより、固まった動物性の脂が緩み、洗剤が浸透しやすくなります。

②重曹+酸素系漂白剤の湿布

特に黒光りが激しい部分には、以下の方法が有効です。

  1. 重曹と酸素系漂白剤を1:1で混ぜ、少量のお湯で練ってペースト状にします。
  2. そのペーストを石の表面に厚めに塗り、その上からラップや新聞紙で覆います。
  3. 30分〜1時間ほど放置して、奥に詰まった汚れを吸い出します。

③徹底的なブラッシング

ラップを剥がし、お湯を足しながらブラシで縦横・円を描くようにこすります。ざらざらした面の場合、一方向だけでなく多方向からこすることで、隙間の汚れが落ちやすくなります。

④仕上げの熱湯消毒

最後に、多めのお湯(できれば60℃以上)でしっかりと洗い流してください。石の隙間に残った菌を死滅させ、乾燥を早めることで匂いの戻りを防ぎます。

とあるので,Amazonであらたに,重曹NaHCO3と酸素系漂白剤 2Na2CO3・H2O2 を昨晩注文し,本日届いた。明日,持参して再挑戦。

豆知識: > 混ぜて使う際は、40°C〜60°Cのお湯を使うのが最も効果的です。酸素系漂白剤はこの温度域で最も活発に酸素を出し、油分を分解しやすくなります。

以上,2026年3月7日。

おわりに

 というか,2026年3月8日玄関で臭いを確認して晴天ながら皆無だったので,作業効果も疑問なので一応,延期することにした。臭いがまた気になるようであれば,トライしたい。薬剤はタニハに保管した。

 資料整理に戻ることができて,『瑞霊世を去りて』の原稿作成中に疑問であった母の生年月日が恐れ多くも聖師弥勒下生の日(旧暦大正十二年七月十二日)であることを確認できた。

 




薭田野神社訪問 visiting to Hiedano Shrine at Kameoka-shi, Kyoto-fu

はじめに

薭田野神社




元伊勢大饗石のLiDAR測量 LiDAR measurement of Oo-Ae-ishi, a big table rock for a banquet, near the former Grand Shrine of Ise

はじめに

 このpostingでは,このテーマに限定する。iPhone 12 Proによって大饗石のLiDAR測量結果は得ている。さらに,幾つかの手順で外観だけでなく,数値データも整理する必要がある。そのアプリとして最も利用されているのが,CloudCompareである。Windows版のオープンソースであり,ドーネーションが期待されている。ここではインストールされていることを前提とする。メニューの一部が日本語化されているバージョンもあるが翻訳が不完全で,日本語化されているものはお勧めできない。
 ぼくはmouseのWindows 10とmac内のWindows 10 on Parallels Desktopにインストール (2022年3月実施)している。このウェブページでのコンテンツ利用には,mac内が便利ではあるが,多々支障はある。なお,mac版も提供されているが以前使って問題があって,ぼくのmacからは削除している。以下を実行する上で,次のページを読み込む必要性がある。

 iPhone 12 Pro撮影の3Dスキャン画像の座標を捉える
 裸岩露頭のiPhone 12 Proを使った点群撮影
 二つの3Dスキャンマップを繋ぐ

1  iPhone 12 ProからCloudCompareにファイル転送する

 iPhone 12 Proからファイル出力の際には,USDZ以外,Metascan Proの契約をしていないとできない。唯一有効なPC処理アプリCloudcompareは,残念ながら,USDZに対応していない。大饗石のLiDAR撮影結果は,すでにMeshファイルとしてはFBX(121.5MB),Point CloudファイルとしてはPLY(81.8MB)とXYZ(zip 89.9MB)を出力し,macに取り込んでいる。XYZ出力はzipファイルとして出力されているので,解凍する必要がある。この順でCloudCompareに取り込んだ結果が次の図1である。
 左端のツールのうち,虫眼鏡直下のSet top viewが図1のコンソールに現れている。このコンソールの右下隅には,3D軸が見え,これは右手座標系でZ軸は手前方向に延びている。

 図1の中央の赤線で囲んだ範囲が大饗石で,この上に何か白いキノコのようなものが見える。図2ではこの図1を少し回転したもので,赤丸で囲んだこの白いキノコのようなものは大饗石よりも高い位置にあることがわかる。スキャンニングの際に,大饗石よりも高い位置の「障害物」が捉えられているのである。大饗石だけを残す形で切り取ることになる。

図1 CloudCompareでのPLYファイル表示
図2 ゴミは大饗石より上方に

以上,Dec. 31, 2022記。

2 必要な部分を切り抜く

 このLiDAR測量の際の意図をはっきりとは,もう覚えていない! 大饗石のみを詳細にスキャンしたつもりではあるが,大饗石周辺もかなり捉えられている。大饗石のみを切り出そうと考えていたが,まずはより広い範囲をまずは抜き出したいと思う。そこで,topビューで大饗石とその周辺を切り出すのではなくて,地上の木本以外の地形を切り出すべく,z軸に直交する平面で切り取りたいと思う。
 CloudCompareで不要なポイント群または面群の削除 にはその手法を整理しているので,参照して欲しい。この参照を前提に,以下,記述する。

1 まずはこの例では,set lift sideして,ツール左端の‖をクリックして,Segmentation [PAUSED] にして,フロートや邪魔になりそうなスギの頭などがsegmentしやすいように回転などして,ツール左端のトグルスウィッチ‖をクリックして,segmentationを実行してゆく(図3→図4)。segmentationを実行すると,Segmentation [PAUSED]にもどるので,位置決めをして,また,トグルスウィッチ‖をクリックして,segmentationを実行してゆく。

図3 polygonでsegmentationの範囲を選ぶ

図4 Segment Outを実行後

 一応,終了しよう。ツールの✅️(confirm segmentation Enter)した。その直後が図5で,remainingとsegmentedがともに表示されている。前者の✓を外したのが図6であり,作業結果が見える。set right side view,表示である。ほぼ側面図にあたる。中央のトップが水平に近い岩塊が凝灰岩(fall)からなる大饗石で,左手の岩塊はデイサイトの大岩塊である。いずれも前期中新世の溶岩または凝灰岩層から,崩落したものである。
 保存作業であるが,remainingファイルはこれを右クリックで選んでdeleteした。

図5 confirm直後

図6 remainingを非表示に

 作業結果のクラウドを保存するには,segmented Fileを選んで,保存することになるが。File > saveの形で,ファイル名に_segmentedを追加して,元ファイルのフォルダに保存すべく実行して,確認のために,このtxtファイルを読み込んで表示したのが図7であるが,残念ながらRGB表示ができない。
 図8のように,保存する際に下段にファイル名とファイルの種類を指定する必要性がある。デフォールトでは元々のファイル名がそのまま使用され,ファイルの種類もtxtファイルになってしまう。図7はファイル名には_segmentedを追加したがtxtファイルで保存してしまった。図8ではファイルの種類をbinつまり,ClouCompare entities,にして保存したのである。binとは,binary拡張子で,バイナリー形式のデータであることを表している。txtファイル形式ではCloudCompareの機能を発揮できないのである。

図7 txtファイルで保存した場合

図8 binファイルで保存した場合

 それゆえ,処理のそれぞれの画期で,ファイル名に作業を付加したbinファイルを保存してゆく必要がある。図6の形で完成とも考えることができる。大饗石だけよりも,立地がよく理解できる。とはいえ,大饗石の3D情報を得たいと考えての調査であったので,この大饗石だけを刳り抜いて見たい。図9は大饗石のズームインである。

図9 大饗石ズームイン

3 大饗石だけの刳り貫き

大饗石3Dクラウドを確保したい。図10はset top viewにして表示したもので,この形でsegmentedしたが不明瞭な部分が多く,図11〜13のようにパースで見て,segmentedしていった。図14は新たにbinファイルとして保存したものである。binファイル名は,metascan_20221121-1440大饗石周辺のロックフォール_onlyOoaeishi.binというように名付けることができるが,この下位のクラウドの名称は自動的に,metascan_20221121-1440大饗石周辺のロックフォール – Cloud.segmented.segmented,となる。

図10 Set top view

図11 Segmented 3D

図12 Segmented 3D

図13 Segmented 3D

図14 Only Ooaeishiのbinファイル

以上,Jan. 1, 2022記。

4 大饗石の体積を求める1: まずはデフォルトで

 3Dファイルにはメッシュmeshと点群point cloudがある。画像的な表現では前者がより優れているが,右座標系など幾何学的な分析には後者がすぐれているようにぼくは感じている。体積計算に関しては,公式マニュアルは全く役に立たない。
 では,http://www.cloudcompare.org/doc/wiki/index.php/Main_Page,はどうだろうか。2.5Dで検索すると,2.5D Volume のページに行きつく。このページを理解した上での使用例として,下記を挙げる。CloudCompareでの体積計算 その2 (その1はこの「その2」の予告だけ)
(引用1)2.5D Volumeの説明に従って,大饗石の体積計算に挑む。このアプリは次の機能がある。
This tool can be used to compute the volume between a 2.5D cloud and an arbitrary plane (constant height) or between two 2.5D clouds.
 二つのクラウド間の扱う例としては,例えば工事前Beforeと工事後Afterで,土量のプラスマイナスを求めることができる。一つだけのクラウドで体積を求めるというのは,この大饗石の体積を求めたい場合である。図6のように,大饗石のトップはほぼ水平で下部もまあ水平と見做すことができるので,下部の最も低い部分の高度を使えばいいと思う。(引用1)の「an arbitrary plane (constant height) 」をその高度とすれば良いだろうということになる。

1 フォルダと対応ファイルに✓して,対応ファイルを選ぶ(ハイライト)。そして,Tools > Volume > Compute 2.5D volume 。
 図15はleft side viewである。奥行きの軸がXで,縦長の軸がY,そして垂直軸はZとなっている。左のペーンのPropertiesのBox dimensionsを見ると,X: 5.39993, Y: 7.43598, Z: 2.96101,となっている。iPhone 12 ProのLiDAR測量は海抜高度を反映していないので,上記の例とはかなり異なり,数字が大きくない。大饗石は地中に多少埋まっているであろうが,凝灰岩の層理を反映しており,後掲するVolume caluculationのパネルでのGround(空間)/Before(時間)のGroundと考えて良いだろう。

図15 left side view

 この大饗石の座標値が未だ理解できないので,Point list picking(6点)を実施してみた。図16がそれである。この画像表示はpoint間の位置関係がわかるように岩の上部を少し手前に回転している。Point list pickingの表では,座標値を一目では3行しか見ることができないので,右上の表のツールのフロッピーアイコンをクリックして保存して,次のように,そのテキストを,参照した。

図16 point list picking 6点

Point #0,-0.939450204372,2.67226147652,-0.758838474751
Point #1,-0.485350400209,3.48180985451,0.743179500103
Point #2,-0.7682762146,0.985117554665,2.12557053566
Point #3,-2.89230465889,-3.08031964302,1.72712016106
Point #4,-2.35597205162,-3.85543513298,1.05731666088
Point #5,-3.39330339432,-1.8211826086,-0.585319936275

 この6点の座標値からXYZ軸を理解することができる。今,必要なのはGround値で,Point #0のZ値と見做して問題ないだろう。Ground値を-0.758 (m) とする。ミリメートル単位である。図17ではパラメータを入力している。図18は,図17の赤いベルトのUpdateを実行した結果である。図18下部のResultsが一気には見えないので,”Copy to clipboard”ボタンを押して,Google Chromeを使って,macのmailにgmailした。
 その結果を図19の左手のテキスト群に示している。図18の右手のrelative heightベルトの左手の模様は,大饗石の高度分布を示している。図19は大饗石のtop viewであるが,これと図18の模様と対応しているのである。

図17 パラメータ値の入力

図18 体積計算の結果

Volume: 70.765
Surface: 36.000
———————-

Added volume: (+)70.765
Removed volume: (-)0.000

———————-

Matching cells: 75.0%
Non-matching cells:
   ground = 25.0%
    ceil = 0.0%

Average neighbors per cell: 7.1 / 8.0

図19 top viewとrelative height

以上,Jan. 2, 2022記。

5 大饗石の体積を求める2: step (メッシュサイズ)= 0.008 m

 とにかく,デフォルトでやってみた。図19で言うと,長軸方向(上辺が斜面の下手で下辺が上手),これの直交方向が短軸方向,そして高さは図16で推定できる。大雑把にいうと,6.5 m x 3.6 m x 2.7 m = 63 ㎥ 。Volume: 70.765 ㎥ は悪い値ではない。ただ,Matching cells: 75.0%という値は適切ではない。
 さて,この体積計算アプリ(図17)で,ユーザーが設定できるパラメータは実質,”Grid”では”step”のみ,Ceil/Afterとしては指定したクラウドの”Empty cells”だけである。stepに関する説明がマニュアルにないが,図19から見ると,stepは,まさにgrid(方眼)を構成する正方形squareの一辺の長さである。step = 1.000000としたので,size = 6 x 8となったのだが,適切な英語表現に替えると,”step”はside-size of a square,”size”はnumber of squaresである。point cloudとmeshとの対比からすると,混乱するが,stepはmesh sizeで,sizeはmesh numbersである。
 体積を求めるための地物に対して,メッシュサイズ(step)を小さくするほどメッシュ数は大きくなってゆく。この図17の場合,size: 6 x 8とある。この設定での計算結果が図19に見えるが,横軸(左右)X 6,縦軸(上下)Y 8のグリッド(白いドット)が見える。かなり粗っぽく計算されたことがわかる。
 図20と21は,step = 0.008(自動的に,size = 676 x 930)で計算した結果である。サイズは1000 x 1000以内に収まるようにというアドバイスがある利用サイトにあったので,その意味の根拠はわからないが,そういう制限のもとで,step = 0.008が決まった。
 計算結果をクリップボードにコピーして,このウィンドウズからメールでペーストして,macに送った結果を次に示す。
Volume: 31.317 Surface: 14.883
———————-
Added volume: (+)31.317
Removed volume: (-)0.000
———————-
Matching cells: 37.0% Non-matching cells: ground = 63.0% ceil = 0.0%
Average neighbors per cell: 5.6 / 8.0

 体積は第4章に比べてほぼ半分になってしまったマッチングセル率は37%で,非マッチングセル率はceilではゼロだが,groundでは63%に及んでいる。これはGroundを斜面下縁(図16に続くPoint#0のZ値=-0.758)にしたことに依っているのであろう。この体積 31㎥ を提示されると,なるほど,と思ってしまう。計算のアルゴリズムは公開されていないが,メッシュ数676 x 930 = 628,680で,メッシュサイズ = 0.008 m だから,(676 x 0.008) x (930x 0.008) = 5.408 m x 7.44 m = 40.235 ㎡ になる。図21の矩形域の面積がこれにあたる。それぞれのメッシュでクラウドの深度幅を掛けて,全体の和を求めると,体積となる。粗っぽく目算すると地物はメッシュ枠の半分ほどであり,深度幅が1.5mほどだすると,体積30 ㎥ 余りとなるのである。

図20 step 0.008, size 676 x 930

図21 同 DB TreeとProperties

 さて,図22と23は,この地物の空っぽの裏が見えている。この体積計算過程では,LiDAR測量結果が正しく把握されている。色分けはZ値を示すもので,もちろんトップ面のほとんどが赤色である。Z = -0.7588からの比高によって色付けされているのである。オーバーハングの場なども正確に表現されている。

図22 3Dパース1

図23 3Dパース2

 CloudCompare octree (8分木空間分割を最適化が参考になる)を表示する。DB Treeには,体積計算を実行すると,Height difference raster (0.008)のサブディレクトリにOctree(8分木空間分割)が作成される。これに✓して,PropertiesのOctree欄でDisplay levelを5にした場合が,図24の表示である。多数の平行6面体が見えるだろう。このレベルだと,Current level情報に,Cell size : 0.232482 m, Cell count: 1,822, Filled Volume: 22.8938 ㎥ が見える。

図24 Octree Display level =5, Cell size : 0.232482 m, Cell count: 1,822, Filled Volume: 22.8938㎤

図25 CloudCompare octree 掲載図

 Cloudcompareでは,この図25のウサギのような3Dの体積を求めることができる。

6 大饗石の体積を求める3: 点群欠損部の解消

 作業過程でこの地物にさらにフロートなどが残っていた。図22にその滓を示している。滓を排除したあと,自動的に作成されるファイル名は,segmented.segmented.setmentedと三つ並ぶ。これが現段階での地物の最新クラウドである。LiDARスキャンした際の不手際で,点群データの欠損が見られる。図21や図23の赤丸の部分である。図21の赤丸部分はトップ面に属し,図23の残りの二つの赤丸部分は側面に属している。

図22 滓が残っていた

図23 点群データの欠損の例

 この作業は,フィールドで確認作業をすれば不要だったかも知れない。1日目にこのLiDAR測量をしたので,当日のホテルで確認をすれば良かったとは思う。フィールドではiPhone 12 Proの画面での作業になるので見落とす可能性もある。図20左のパネル内に赤丸で示した赤字のメッセージは,クラウドに欠損があり解決すべきとしている。この欠損解決するため,iwamaによる iPhone LiDAR×CloudCompareで体積算出しようぜ!を参考にした。
 iwamaのサイトでは点群データをメッシュデータに変換して,点群の欠損部をなくした後に,このメッシュデータを点群データに戻している。点群データをメッシュデータに変換するだけで,何故,元の点群の欠損を消すことができるのか,それはメッシュデータは点群の欠損部を否応無くメッシュでカバーしてしまうからのようである。
 Hajime Saitoさんの メッシュのデータ構造 によれば(不要と思われる部分は削除),「メッシュは突き詰めれば点の集まりで、点と点を結んで線を作り、線と線を結んで面を作る。点は頂点、線はエッジ、面はフェイスと呼ばれる。」,とある。
 この文で,「点の集まり」のところが点群データなのだが,点群データからメッシュデータに変換する意義などが示された,点群データの3Dモデル化!点群をCADデータ・メッシュデータ・サーフェスデータに変換 ,が参考になる。「点群データは、3Dスキャンによって取得した段階の場合、単純に点の集合の状態でしかありません。そのためCADデータとして編集を行う際には、点群データを「点」から「面」の状態に変換していく必要があります。」,とある。点から面の状態に変換する場合,メッシュ(ポリゴン)データとサーフェス(ジオメトリ)データがあり,ここではメッシュデータに限定する。その説明の一部を次に引用する。

メッシュデータ

メッシュデータ(ポリゴンデータ)の場合は、点群のそれぞれの点を頂点としてとらえ、辺と面で接続した状態の3Dモデルの形状データを表していきます。ただ、要するに点同士をつなぎ合わせた状態の形状にあたるため、カクカクとした状態のぎこちない見た目になるのが特徴です。

 このメッシュデータの説明から,点群データの欠落部が埋められるのは容易に理解できる。
 それでは,iPhone LiDAR×CloudCompareで体積算出しようぜ!のプロセスを大饗石の点群データに適用してゆく。表現は替えている。

手順1 DB Treeから該当の点群データを選択し、Edit > Nomals > Computeで,特にパラメータには触らず,OKを選択すると,点群データに「表裏」ができる(図24)。
手順2 点群データをメッシュデータに変換するため、Edit > Mesh > Delaunay2.5D(XYPlane)で,特にパラメータには触らず,OKを選択する。ここで,図25のように,Keep old normals ? のアラートが現れるので,Yesを選択する。

図24 手順1の結果

図25 手順2でのアラート

 観察すると,大饗石のすべての表面には,図26のようにメッシュが貼られている。

手順3 メッシュデータを再度点群データに変換するため、ツールバーのPoints Sampling on mesh(図26に見える上段のツールバー群の左端(選択中なのでブルーになっている))を実行する。Points Number(デフォルト)を選択し,OK。この実行の結果,図27に施した赤丸のように, ⋯⋯⋯⋯⋯.mesh.sampled という点群データファイルが生まれているが,変換前のメッシュデータも合わせて表示されているので,点群データが見えない。図28では,変換前のファイルの前にある□で✓を外しているので,点群データだけが見えている。

図26 欠損部分もメッシュになっている

図27 点群データになった

図28 メッシュデータの変換から生まれた新たな点群データ

 ここまでの作業結果を確認したい。点群の欠損を果たして埋めることができたのか。図29はメッシュデータであるが,図23に見られる欠損は埋められている。
 図30を見ると,この変換過程に入る前のもともとの点群データと比べて,トップ面の点密度が小さくなったような印象を受ける。Propertiesで見ると,Points 1,000, 623であり,滓を取った点群データ(図23)Points 615,237と比べると,むしろ増えており,問題無いのだろう。

省略手順 iwamaのサイトでは,点群密度を間引く作業が用意されているが当方は不要なので省略する。

図29 メッシュデータでの点群データ

図30 新たな点群データの天井部分

同省略手順 iwamaのサイトでは,地物のベースの部分を切り取って,ground側のクラウドとする作業が実施されている。二つのクラウドの差を取るCloudCompareの手法を実現するためのなかなか良い工夫だと思うが,その必要性があるのか疑問なので,一応,この手順も省略したい。
 後に実行しようとしたが,segmentation 機能と

手順4 「5 大饗石の体積を求める2」と全く同じように計算した結果を図31に示す。Volume: 53.826,Surface 23.716,Matching cells: 59.2%である。Empty Cellsはinterpolateに替えたが,「5 大饗石の体積を求める2」でもinterpolateに替えたが改善は見られず図20の赤字でのエラーメッセージが出たのであるが,今回はこのメッセージは出ていない。

図31 体積計算

 図31を画面一杯に表示することもできる。Resultsも一気に見ることができる。Octreeの詳細も見える。図31と32で計算結果が異なるが,図31の出力の後,処理を修正したことが反映しているようだ。図33はHeight difference rasterの分布を見ている。図22〜24の赤色の3D分布と比べて,圧倒的に事実を反映していることがわかる。この章で実行した「点群ファイル→メッシュファイル→点群ファイル」のプロセスは体積計算には欠かせないものだろうと思う。

図32 図31の拡大版
図33 Heigt difference raster (0.08)のみ表示

 本章の作業結果と,前章の作業結果では,かなりの大きな違いがあり,本章の作業は体積計算に欠かせないものだと思う。

7 大饗石の体積を求める4: メッシュデータの面積と体積の計算

 メッシュデータの場合には,Edit > Mesh > Measure Surface,そして,Measure volume,のコマンドを使って,計算が可能で,結果は下部のConsoleに表示される(マニュアルp. 65)この場合の結果は,
時刻 [Mesh Surface] Mesh ファイル名: S = 1141.79 (square units)
時刻 [Mesh Surface] Average triangle surface: 0.000928008 (square units)

時刻 [Mesh Volume] Mesh ファイル名: V = 35.2555 (cube units)
時刻 [Mesh Volume] The above volume might be invalid (mesh has holes)

面積は何故か,非現実的な値となっている。1141.79 = 0.000928008 x 1230367で求めることができる。1230367は,このメッシュファイルのProperties > Mesh > Faces = 1,230,367に対応している。非常に詳細な凹凸を認識しての表面積であり,誤りでは無いが,一般に認知されている表面積ではない。一般に認知されているのはいわば表面のデコボコを無視して平滑な面で構成される地物の表面積なのだろう。

 体積も同様の計算過程を経たとしても点群ファイルとの差は大きくは無いはずで,V = 35 ㎥は適当と考えて良いのであるが,なんと,点群ファイルの欠損部分埋めた筈のメッシュファイルにもホールがあるという。というわけで,このメッセージ故に信頼できないとなるのである。

おわりに

 エラーを回避できた計算結果は, 第6章での53.8㎥ のみであった。この結果を受け容れることになる。ただ,CloudCompareの体積計算機能が適切なのか,簡単に計測が可能な直方体を通じて知る必要がある。次のポスティングに引き継ぎたいと思う。

身近な直方体の体積をiPhone 12 Pro+ LiDAR写真測量で求める

以上,Jan. 7, 2023記。

追記 2026年2月2日:

 見出しの設定がミスっていた。さくらからエックスサーバーへのサーバー移転を昨夏に実施したが,その際に「身近な直方体の堆積をiPhone 12 Pro+LiDAR写真測量で求める」のリンク切れが生じたようだ。検索すると,

フィールド科学のためのアップルLiDAR測量 Part 2: 3Dターゲットの外形と体積の正確性 –日本タニハ文化研究所 (教養) Kindle版

がヒットした。当方のブログがみつからない。

 100円で購入できるので参照してほしい。より詳細に述べている。

以上




亀岡市立図書館と亀岡市文化資料館 Kameoka Municipal Library and Kameoka Municipal Museum of Cultural Materials

はじめに

 徒然にスナップを。

亀岡市立図書館

 もう3回行っただろうか。最初の日10月14日に司書の方から紹介された資料などを次に示す。

 国立国会図書館デジタルコレクションでも閲覧できてPDFでもダウンロードしたが,現物を見てみたかった。書庫から出していただいた。とはいえ,臨川書店の復元本である。

図1 南桑田郡誌

図2 南桑田郡誌の折り込み地図 南丹市は入らない,ほぼ亀岡市域か

 同書籍の奥付を次に。

図3 原本の奥付

図4 復元本の奥付

 垣田五百次,坪井忠彦編,1925. 『口丹波口碑集』郷土研究社.

図5 『口丹波口碑集』表紙

図6 『口丹波口碑集』奥付

国立国会図書館デジタルコレクションの情報を次に。

口丹波口碑集 by 垣田五百次,坪井忠彦
炉辺叢書27
https://dl.ndl.go.jp/pid/1904777
『炉辺叢書』27,郷土研究社,東京堂書店,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1904777 (参照 2025-10-14)

なお,デジタルファイルには,並列タイトルとして次のものが含まれている。
筑紫野民譚集 琉球人名考 口丹波口碑集。

 なお,このデジタル本はダウンロードはできず,画面での閲覧が可能であるが,目次から関心をもったテーマを選択して,ログインして初めて読むことができる。

 いま,関心がある分野ではないが,次の文献に偶然出会えた。大国美都雄さんの自伝と,現大本の出版物である。後者はかなりの出版費用がかかっているようだ。

図7 大国美都雄『真偽二道』

図8 同奥付

図9 『報身みろく神業の足跡』第二巻

 以下の書籍の中身を見ないでとにかく司書の方から紹介頂いたものを撮影した。時間切れであった。

図10 「保」と「津」 その歴史からみえるもの

図11 京都府遺跡地図だい3分冊第2版

図12 『京都府誌』上,下

図13 昭和28年度 京都府域の文化資源に関する共同研究会報告書(丹波編)

図14 京都府埋蔵文化財論集 第8集

図15 昭和二十六年水害史

 図16〜18は写真の情報に限定する。時間切れであった。

図16

図17

図18

 2回目の訪問の際に屋上から撮影した。

亀岡盆地が見える。この写真では立体感がないが牛松山の迫力はなかなかのもの。電線はなんとも邪魔邪魔。図番号は上の図と続かない。

図1 牛松山と裾野の隆起扇状地か段丘か

 建物はなかなかの立体感。牛松山の麓の段丘の起伏は残念ながら感じられない。肉眼ではわかるのであるが。

図2 ステレオ左

図3 ステレオ右

 2025年10月23日に,亀岡市文化資料館に出かけた際に,イオンの屋上からの眺めはいいようだ。期待したい。

亀岡市文化資料館

 2025年10月22日,おじゃまして撮影した写真を次に。

 図4は,入り口の景観である。左手奥にには牛松山。建物は案内板後背なのであるが。この橋は雑水川にかかる。資料館はこの川そばにあって,保津川の溢水でかつては床上浸水があった場所である。資料保管場所としては不適切な場所と言えだろう。

図4 入り口

図5 再葬石棺

図6 家型石棺の蓋

 図7の針塚は横町にあった時代の校内で見たことがある。おそらく高校時代に教師の案内で巡った際に見たのであろう。当時の校地は亀岡高校そばの同じ段丘面上にあった。

図7 亀岡市立女子技芸専門学校跡地の案内

図8 道標

図9 道標そばの芙蓉

 図10, 11は亀山城下町の様子だ。地形の起伏が無視されていて,残念なことだ。DEMでモデルを整形出力して,その上に建物などを配置すれば,より良いものになるのであるが。漫画的ジオラマにあたる。歴史や考古のスタッフでは限界がある。図10の後背のテーブルスペースが来館者の学習の場として提供されている。亀岡市立図書館もそうだが,点照明が鬱陶しい。長い蛍光管で面的に照明すれば,作業がやりやすいと思うが。そういう発想が亀岡市では脱落していると感じる。

図10 漫画的ジオラマ

図11 漫画的ジオラマ

 ご紹介いただいた本。日本の古本屋では,最低1200円だったが,アマゾンでは317円(+送料350)なので今,購入した。

図12 丹波・丹後の伝説

図13 奥付

 同じく。1941年出版の本ゆえか,古本はみつからなかった。本資料館で利用するのが適切であろう。

図14 丹波の傳承

図15 奥付

 図15は1200円なので,資料館で購入するのがベターだ。

図15 第36回特別展「光秀その後の亀山」

図16 奥付

 図17の亀山城主の変遷,をご紹介いただいた。図18の保津川筋の図も非常に興味深い。1200円,購入すべきだなあ。

図17 p. 72の部分

図18 p.72の保津川筋の区分

 「丹の海」という用語の出典を質問したら,このコーナーを案内頂いた。照明が邪魔して撮影できない。次回,照明を消してもらって,撮影したい?

図19 「丹の海」の展示

図20 案内板

図21 太古カメオカ

丹の海の再現図である。画家(女性)の名前が画像では読めない。忘れた。次回,見直そう。人の侵入前の時代のものにあたるかどうか。

 図21には黒い傘の照明が点在している。残念! 照明なしで,撮影したいなあ。絵葉書売ってるんじゃないかなあ?

図22 江戸時代の祭の行列の様子(左手)

図23 江戸時代の祭の行列の様子(右手)

 図22, 23を見ると,かつての山鉾巡行は盛んだったんだねえ。ぼくの暮らした横町も持っていたんだねえ。今,思い出したけど,山車(だし)はなかったけど,神輿(みこし)はあったなあ。

民俗祭事調査会編,平成4、1992. 『民俗祭事の伝統 : 丹波・亀岡のまつり』 角川書店, 7+258p.の福知正温先生(中学校で国語を習った)の担当部分,pp. 220-229,もご紹介頂いた。日本の古本屋の小亀屋(篠町馬堀)から¥1,700で販売されていたので注文した。

 

 

図24 『丹波亀山城と城下町』

図25 奥付

図26 紹介頂いた箇所

 この本はローカル過ぎて,流通ルートにはないようだ。日本の古本屋で,ぼくの名前で検索してみると,4冊が出た。かなり古いものだけだ。

日本の水と緑 ¥1,800 木庭元晴・小幡斉他、玄文社、1993、1

霊界物語ガイドブック ¥3,200 (送料:¥350~) 木庭 元晴 (監修), 木庭 次守 (編集)、八幡書店、2010

月刊地球54 琉球弧地史 ¥1,650 イルカぐるうぷ編、海洋出版社、1983/12、763頁、B5判 執筆・氏家宏・橋本義之・三嶋昭二・木庭元晴・藤田宏他

生きている太平洋 <のじぎく文庫> ¥800

 まあ,今も生き残っているのは嬉しい。

以上,2025年10月23日記。




丹波国南桑田郡の和銅二年「創立」四宮と他の二宮 Four shrines ‘established’ in the second year of Wadō (709 AD) and other two shrines in ancient Tanba-south Kuwata Province

はじめに

 大宝元(701)年,大宝律令が制定され,地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。

 京都府教育会南桑田郡部会編(1924)『南桑田郡誌』を参照すると,薭田野神社について(pp. 197-198),「和銅元 (708) 年大神朝臣狛麻呂(おおみわのあそみこままろ),初めて丹波國守となり,同二年本社を創建すと云ふ。」などとあり,これと同様の記事は,現亀岡市域の他の神社三社にも見られ,大神朝臣狛麻呂(おおみわのあそみこままろ)に関わる丹波國での「創建」

[i]はこの計四社であった。他の三社は,鍬山(クハヤマノ)神社(祭神:大巳貴(おほなむち)尊,pp. 168-172),出雲(イヅモノ)大神宮(祭神:大国主(おほくにぬし)命,pp. 205-212),小幡(ヲハタノ)神社(祭神:開化天皇,pp, 192-197)で「創建」年次は一致している。いずれも延喜式神名帳に掲載されている。四社ともに「創建」とあるが突然祭神を決めることはできず,すでに丹波での名声があった上での新たな国司任官を機とする権威付があったのであろう。秦氏などとの勢力図との関連もある。


[i] 四社ともに「創建」とあるが突然祭神を決めることはできず,すでに丹波での名声があった上での新たな国司任官を機とする権威付があったのであろう。秦氏などとの勢力図との関連もある。

1. 請田神社と桑田神社も和銅二年「創建」グループに属するか

 筆者はさしあたり,上記四社を和銅二年四社としたが,歴史家からは確定されていないが,請田神社も和銅二年「創建」の可能性は高いように思われる。『南桑田郡誌』を流し読みした際に気にはなったが,この和銅二年「創建」の記述はなかったので,このグループに入れてはならない,と考えた。

1.1 『南桑田郡誌』とWikipedia

 しかしながら,現地の社傳(看板か?)にはその旨が記述されているらしい。ウィキペディアは好きではなく,書いた本人も実際に見たようではないらしい。近くなので訪問したいと思っている。もし書かれているとすると,『南桑田郡誌』担当者が見過ごしただけかもしれない。そもそも,和銅二年四社についても早くて鎌倉時代初期の文書に残っているだけであって,確定的資料は存在しない。ウィキペディアの請田神社記事と『南桑田郡誌』(p. 213-)からすると,次のようにまとめられる。

『南桑田郡誌』請田神社及八幡宮:
 保津村。古来,松尾神社とも称せられる,とあって,丹波が国司着任前の秦氏の勢力下にあった時代からの神社という見方も可能である。

 祭神大山咋神。保津川対岸の篠村字山本には,桑田神社(p. 180)があり,祭神大山咋神他二神を祀る。もと請田大明神と称せしが,明治十年桑田神社と改称。

 いずれが延喜式の丹波桑田郡松尾神社かは,不明。兵火に何度か遭っている。

Wikipedia:
 社伝では,創建,和銅2 (709) 年という。社地の名を「岩尾」と言ったということから,平安時代中期の『延喜式』神名帳において丹波国桑田郡に「石穂神社」と記される式内社の論社に比定されている(注記:式内社の後裔を現在の神社に比定する研究は古くから行われ,延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のことを論社(ろんしゃ)・比定社(ひていしゃ)などと呼ぶ)。理由は不明ながら同じく桑田郡の式内社松尾神社とする説もある。

 延喜式には,松尾(マツノヲノ)神社,石穂(イワホノ)神社,桑田(クワタノ)神社の三社が見える。保津川対岸の篠村字山本の桑田神社は,上述の「もと請田大明神と称せしが,明治十年桑田神社と改称」という件と,捏造がないのであれば,現桑田神社は,延喜式の同名神社に対応すると考えて良いのではないか。社傳から当時の関係者が社名を戻したと考えるのが妥当ではないか。

 そして,Wikipediaで紹介する社傳(看板?)の記述を信頼するとして,請田神社は石穂(イワホノ)神社となるのであるが,『南桑田郡誌』「古来,松尾神社とも称せられる」という情報の根拠の方が妥当なように思われたりする。とにかく,一度,社傳(看板?)の記述とできれば,その根拠も知りたいところである。

 Google Earthで,京都府亀岡市請田神社で検索すると,保津町立岩4のそれにヒットした。保津川峡谷の亀岡盆地側入り口にあってかなり危なっかしい。保津川開削の記念碑的なものと見るのは納得の行くところである。亀岡市篠町桑田神社で検索すると,2件の桑田神社が現れる。その様子を示したのが図1である。篠町市街地内部にも桑田神社(篠町馬堀東垣内3-1-1)が現れている。保津川峡谷入り口右岸に見えるのが,『南桑田郡誌』に見えるものである。谷口のものの住所は篠町山本51である。

図1 保津川峡谷入り口と請田神社,桑田神社2社

1.2 神祗志料  

 京都通百科事典というものがある。ここに式内社:桑田郡桑田神社というページがある。興味深い内容で,小学校の時に習った内容に似ている。このページには,「明治26 (1893) 年刊『大日本神祗志』によると,市杵島姫命,大山咋神は,鍬山神社の祭神とともに,かつて湖であった亀岡盆地を開拓するため,自ら鍬鋤を持って保津峡を開削して水を流し出したと言われる。保津川対岸の左岸には,同じく丹波開拓伝説の請田神社がある。」などとあった。

 この文献を知らなかったので,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「神祇志」(じんぎし)を見ると,

————————————————
『大日本史』の志類の一つ。 23巻。青山延于 (のぶゆき) らによる編纂を栗田寛が補成したもの。 明治26 (1893) 年刊。神祇の沿革,神社,社殿,神宮,斎服などについて記述している。

————————————————

とある。

 国会図書館デジタルコレクションを検索してみた。転載時表記例は,

栗田寛著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497 (参照 2025-10-05)。

 著者の文献表示様式では,

栗田寛, 明治9 (1876) 年- 明治20 (1887)年. 『神祇志料』 Vols. 15-17, 温故堂.国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

となる。

 ダウンロードしたPDFには,第十五〜十七巻がこの順序で入っていて,丹波國七十一座は,見開きページでp. 41から始まり,その最初が桑田郡十九座(〜p. 44)である。出雲神社,桑田神社,三宅神社,小川月神社,三縣(ミアガタか?)神社(情報ゼロ),神野神社,山國神社,阿多古神社,小幡神社,走田神社,松尾神社,伊達神社,大井神社,石穂神社,與能神社,多吉神社,村山神社,鍬山神社,薭田野神社,計十九座である。

 桑田(クワタノ)神社の記述の一部を紹介したい。わかりやすくすべく表現を一部変更している。

————————————————

今,山本村字桑田にあり。浮田明神(今,請田とかけり)といふ。大山咋命を祭る(請田社傳記,土人伝説。)。傳云ふ,上古,此國湖海なりし時,出雲大神御伴の神八神を率て,此に至り,水を治むる事を議り給ふ。大山咋神即ち鋤を以て山を鑿ち,磐を劈き,水を決給ひしかば,湖涸れて國成き,後人,其の鋤を霊形(補記:霊璽に対応するものであろう。「みたましろ」と読むのだろう)として,之を祭る。大山咋神は所謂,お供八神の一也。(鍬山神社記,請田社傳記,◻︎山文集,土人傳説。)

————————————————

 桑田神社は保津川峡谷入り口右岸のもので,しかも浮田明神(今,請田とかけり)といふ,とある。「篠村史によると,馬堀の方を元宮としている。篠村七郷(篠町)の氏神さんとして信仰されている。」とあるが,誤りである。小幡神社同様,山から平地に神社が降りてきたと考えて良いだろう。この『神祇志料』には,保津川峡谷入り口左岸の宮であるはずの「石穂神社」については名は挙がっているが説明は欠落している。

1.3 「丹波湖」干拓と繋がる二社

 

 図1の請田神社と桑田神社はそれぞれ,延喜式に登録されている石穂神社と桑田神社とすることに問題はないだろう。「丹の海」

注記:

亀岡中学校校歌(作詞南江治郎,作曲橋本国彦)の一番に,
春まだ浅き 丹(に)の海の
赤き血潮に 凝りなせる
正義の旗旄(きぼう) 空高く
紀綱(きこう)を創る 雲の峰
あゝあゝ亀岡中学 その名もたかし

とあって,「丹の海」が見える。

 

 作詞者の南江治郎(なんえじろう)氏は亀岡市出身の詩人である。亀岡高校校歌も氏が作詞している。亀岡中学は,昭和22年5月5日 新学制により男女共学の中学校として開校(京都府南桑田郡亀岡町立亀岡中学校 生徒394名 通学区:亀岡町・吉川村)しているので,戦後の作品である。

 「旗旄(きぼう)」は皇帝の使節に任命の印として与えられた権威の象徴の旗であるが,正義の旗旄(きぼう)とあるので,戦後の平和と自由に期待を込めたものであろう。彼は戦前戦中の国粋主義から距離を置いていたようである。小学校を卒業してはじめて生徒手帳なるものを支給されて何となく誇らしかった。その手帳の表紙か裏表紙にはこの校歌が記されていた。中学生には難しい歌詞ではあったが,🎵「春まだ浅き 丹(に)の海の 赤き血潮に 凝りなせる」という出だしは新鮮であった。

を通じて,二社の和銅二年四社とのつながりを強く筆者はいま感じている。丹の海の歴史的成因については余りに長くなるので,ここではこのテーマを回避するが,生きた伝説としての丹の海は,ここで取り上げる神社の分布と深く繋がっていると,この研究を通じて,筆者は感じるようになった。

 現請田神社と現桑田神社はいずれも,主祭神として,大山咋命と市杵島姫命を標榜している。御神体を鋤とし,鍬山神社では保津川開削で使用した鍬が山積みになっていたという(『神祇志料』)。開削で使用した鉄器である。

 京都通百科事典には,【丹波湖開拓伝説】というのが掲載されている。『風土記』由来の情報なのか。風土記編纂の命を出した元明天皇の時代(和銅6 (713) 年)に丹波国から丹後国が分国され,それぞれで風土記が編纂されたのは確実なのだが,現在では丹後国風土記の逸文のみが残されている状況という認識なのだが。

【伝承がある神社】として整理されているので次に。

————————————————

【伝承がある神社】  

[ 徳神社 (東別院町神 原宮ノ前)] 亀岡市 の南部の 東別院町神原の谷間の集落にある神社  祭神:大山祇命(大山咋神 )  大己貴命 が、こ の地を治めていた八柱を集めて、開拓の相談が行われた地といわれる。

[ 樫船神社 (大阪 府高槻市田能)] 丹波国 南部の明神ヶ 岳の尾根の下の方の標高約360mのところにある神社  祭神:大国主命 と樫船明神  ここで、開削を行ったときに湖に浮かべた樫の舟が作られたといわれる。

[ 請田神社 (保津町字 立岩)] 保津峡 入口の左岸 にあり、桑田神社 と保津川 を挟んで向きあう  祭神:大山咋神 ・ 市杵島姫命  ここで、鍬入れが行われ開拓工事を請け負った(うけた)地とされる。  

[ 餅籠神社(もちかごじんじゃ) (所在不明)] ここから、籠で土砂を運び、豊かな農地に変えたといわれる  持籠神社(かごもちじんじゃ)とも称される  

[ 桑田神社 (篠町山本北絛)] 保津峡 入口の右岸 を走るJR山陰本線(嵯峨野線) の奥にある  祭神:大山咋神  式内社  開削を始めた地とされ、大山咋神 が開削に使った鋤と短剣が納められ祀ったとされる。

[ 鍬山神社 (上矢 田町上垣内)] 市街地南部の高槻街道の入口にある  祭神:大己貴命 (大国主命 )と誉 田別尊  式内社  開削に使った鍬が山積みにされた地(鍬山)とされる。

[ 大井神社 (大井町並河)] 市街地西北部のJR山陰本線(嵯峨野線) 並河駅と保津川 の間にある。祭神:月読命 ・市 杵島姫命 ・木俣命 (キノマタノミコト)。丹波湖の水が乾き残って「大いなる井戸(大井)」となったといわれる、境内 に「丹の池」が残っている。

[ 出雲大神宮 (千 歳町千歳出雲)] 北東部にある丹波国 一の宮 で「元出 雲」と称される  祭神:開削をした大国主命 と、その妻神 三穂津姫命を祀る  式内社 名神大 社、丹波国 一の宮  天照大御神 の天孫 邇邇芸命 との国譲り により、大国主 命 は、ここから島 根 出雲大社に遷られ祀られるようになった。

————————————————

2. 五社の海抜高度分布

 上記リストアップされた神社のうち,ここで問題にしてきた全六社のうち,請田神社,桑田神社,出雲神社,鍬山神社の四社が含まれる。ところが,残りの薭田野神社と小幡神社もこの文脈に繋がっているのではないかと考えているのである。

———————————————— ————————————————

上記の記述を中断して,鍬山神社と形原(かたはら:本当は「かたのはら」であろう)神社との関連を考える。京都通百科事典の形原神社から次に引用する(一部簡略化と追記)。

——— 引用〜鍬山神社と形原神社との関連

【形原神社の歴史・経緯】
寛延元 (1748) 年:形原松平家(かたのはらまつだいらけ)の松平信岑(のぶみね)が、丹波篠山から亀山藩 五万石(維新後の旧亀岡藩は現米2万8380石(表高5万石)で現米5万石未満の旧・小藩に該当)に移封される。
明治13 (1880) 年 :元藩士達の呼びかけで、松平信岑を主祭神として創建され、歴代藩主が祀られる。

【形原神社の境内】

亀山城 の三の丸にあった亀山藩 の政務を執り行っていた御館 (おやかた)と称される藩庁の南、大手門の東側に位置する。

【祭】

<神幸祭> 毎年10月20日:鍬山神社 から、鍬山宮と八幡宮の2輦(れん: 手車)のお神輿が氏子域を巡幸し、御旅所 として形原神社拝殿に出御される。
<本祭>毎年10月25日:2輦のお神輿が、城下町を巡幸し鍬山神社 へ還幸される。
引用〜おわり ———

 形原松平のかつての拠点は三河国宝飯郡形原である。これは,現愛知県蒲郡市形原町であるが,ここでも,「かたはら」と読んでいる。かつては「かたのはら」とされるが。

 筆者の小学校高学年ごろ(昭和35年ごろか),神輿の担ぎ手が得られず,いわばリアカーに神輿を載せる形に変わった。そのことが,「2輦(れん: 手車)のお神輿」という表現になっているようである。父が今の若者はひ弱になったと嘆いていた。

 亀岡中学校に接して,形原神社があって,毎年,二連の神輿が形原神社に飾られていたので,小学校時代には友人たちと観入ったものであった。神輿が鍬山神社から形原神社へそして戻るのはなぜかと質問したら,祭りは毎年繰り返すことが大事で,過去の事績を繰り返すことで確認するのだという。

 最後の藩主信正は、明治2 (1869) 年版籍奉還により亀岡藩知事に任じられ,明治4 (1871) 年の廃藩置県まで藩知事を務めた。明治2 (1869) 年の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると形原松平家も大名家として華族に列した。明治17 (1884) 年の華族令の施行で華族が五爵制になると、旧小藩知事として信正は子爵に列せられた。上記のように,「明治13 (1880) 年 :元藩士達の呼びかけで、松平信岑を主祭神として創建され、歴代藩主が祀られる」のである。江戸時代の100年近く,形原松平家が鍬山神社を支援してきたとしても,果たして,主祭神の神輿を形原神社に毎年移動することが可能だろうか。

 八坂神社に関わる祇園祭山鉾巡行の御神体は、各山鉾独自の祭祀対象であり、祭りの華やかさと厄除祈願を象徴しており,八坂神社の御神霊は神輿に遷座されるため山鉾とは異なる役割を担っている。つまり,山鉾巡行は露払いであって,八坂神社の御神霊がどこかに遷座される訳ではない。

 そのように考えると,鍬山神社の御神体が短期間にしろ,遷座されることが可能なのは,かつては,この形原神社のいわば前身というか,かつて鍬山神社の御神体が祀られていた地に戻る場合のみと考えられる。鍬山神社はかつて形原神社付近にあって,何らかの理由で,竜ケ尾山の上矢田山麓部に移動したと考えるのが自然と言えるのではないか。維新後まもない時期までは社傳にこの種の情報があって,初めて成立するものではないだろうか。

 そのように考えて,形原神社の海抜高度を調べてみると,期待通り,かつての丹の海の湖岸線に対応することになったのである。

3. 丹の海の湖岸線

 GrassGISで作成すれば良いのだけど,長く使っていないので,GrassGISに復帰するのには数日かかってしまうかもしれない。他の要件もあってどっぷりと浸かる時間はない。そこで,国土地理院の「地理院地図で見ることのできる地図や写真一覧」の「自分の作る色別標高図」を利用することにした。

 段彩図(図2 丹の海湖岸線に立地する五社)の高度設定であるが次のような観点で設定した。亀岡盆地から保津川峡谷入口付近の盆地底海抜高度は85mで,峡谷入口の峡谷開削の伝説を持つ請田神社と桑田神社が立地する狭い段丘面高度は105mほどであった。それで,丹の海の湖底高度のうち最も低い場所に対応するのがおよそ海抜85m,かつての湖岸線はおよそ海抜105mと考えた。段彩図は単に等高線だけから作成するものであるので,いわば隣接する等高線幅域で,表現することになる。残念ながら「自分で作る色別標高図」の凡例の色と地図上の色は一致しない。105m-110mの赤色はえび茶色だ。

 とはいえ,亀岡盆地が保津川峡谷の入口に向かって高度が低下してゆくのはよくわかる。さしあたり,注目したいのは100m-105m帯と105m-110m帯の境界,つまりは105m等高線付近である。前述のように,「峡谷入口の峡谷開削の伝説を持つ請田神社と桑田神社が立地する狭い段丘面高度は105mほど」であるが,その高度にほぼ一致する形で,和銅二年「創建」の二社,薭田野神社と小幡神社が位置している。実はこれは予測していたことで,実際に分布高度を確かめて,この予測があったことに感謝したのである。和銅二年「創建」の残りの二社,出雲神社と鍬山神社はより高い位置にある。出雲神社は丹波国の一宮神社である。もちろん,神社は必ずしも湖岸線に立地する必要性はない。

 峡谷入口の峡谷開削の伝説を持つ請田神社と桑田神社が当時の湖岸線に立地する意味は大きい。この2箇所が開削工事の拠点であったからである。小幡神社の祭神は開化天皇である。かつては高熊山の巌窟そばの上古小幡神社址に立地していた。何らかの理由で里に降りたのであるが,それが高熊山の峰続きの末端であった。そこに湖岸線があったからこその立地である。言わずもがなではあるが,現在と同様,台風などで大量に雨が降れば,湖面は上昇するし,汀も陸域に進む。冬の乾季には水位は下がり,汀は後退する。

 薭田野神社の前身がどこにあったのかはわからないが禊(みそぎ)の関連での湖岸立地であった可能性はある。後掲の図?には,本殿に拝礼軸を入れているが,薭田野神社と小幡神社はいずれも西方に向いている。和銅二年「創建」四社のうち,出雲神社を除く三社はいずれも拝礼軸は西方である。なお,出雲神社の拝礼軸は北方であり都の大極殿と同様とも言える。三社については,西方からの水系下流に神社が立地しているという観点も可能とは思われる。

 「2. 五社の海抜高度分布」でこだわった鍬山神社と形原神社のつながりからすると,鍬山神社は和銅二年には形原神社付近に立地していたのではないかと思われるのである。社傳では,鍬山神社には多数の鍬の山があったという。「峡谷入口の峡谷開削の伝説を持つ請田神社と桑田神社」とこの鍬山神社が,開削工事を通じてつながるためには,水運の上からも鍬山神社の前身が形原神社付近に立地したと考えるのが妥当なのである。このすぐそばには,現大本本部天恩郷が立地しかつては天守閣のあった船岡山がある。湖岸線のすぐそばには,船岡山,鍬山神社前身の立地する島,そして現亀岡小学校の桜ヶ丘が湖面に浮かんでいたのである。図2では湖岸線に立地していた五社を⚪️で表現している。開削の時代は,遅くて飛鳥時代のものであろう。

図2 丹の海湖岸線に立地する五社

 

4. 神社の拝礼軸

 作業時間をここにかけることができず,長期的中断をする。次に,図3 和銅二年「創立」神社の拝礼軸,を示す。現場に現場に出かけていない神社がほとんどであり,訪問の後に修正するつもりである。

図3 和銅二年「創立」神社の拝礼軸

5. 流域洪水緩和機能からの離脱

 国土交通省近畿地方整備局
淀川水系河川整備計画における取り組み
https://www.kkr.mlit.go.jp/river/iinkaikatsudou/yodo_sui/index.html
3.7.2 亀岡盆地について
https://www.kkr.mlit.go.jp/river/iinkaikatsudou/yodo_sui/qgl8vl0000007l7e-att/091113sono4.pdf

 などに見えるように,亀岡盆地に隣接する京都盆地桂川流域のとっては,亀岡盆地での洪水常襲環境は好ましくても,亀岡市民にとっては耐えられず,府さらには国への対策を要望してきた。

 昭和三十六年八月の十六号台風での被害は甚大で,国も動かざるを得なくなってゆく。その流れを簡潔にここに示したいとは思っている。図面も合わせて示すが,あくまでも,丹波の初代国司赴任よりもはるかに前,とは言っても,保津峡谷の開削が認識されていた時代について,ここでまとめたいと思う。

 GrassGISを使う可能性が大であるが,簡便なQgisはより便利になっている可能性があり,Qgisで実行するかもしれないが,峡谷筋と横断面図を作成して,台風16号以降の近代的な工事と,過去の工事をできれば,峻別したいと思っている。文字や画像のスペース配分と,締切との兼ね合いもあって,このGISによる作業には至らない可能性もある。

 で,図2の凡例には,文字「1961年台風16号」を追加しているが,これは海抜92mの等高線に対応するものである。この海抜92m付近の南郷町の住人の記録を踏まえた結果である。

 海抜92mコンターがいわば,丹の海の105m汀線に対応するのか。昭和三十六年当時では保津川の水は河道内に止まっている。つまり,保津峡入口では海抜85mよりも低い。それが台風時には,92m-85= 7mよりも水位が低いのである。丹の海と対照してみると,92mコンターよりも高い水面であった可能性もある。丹の海の低水位の場合である。

 大井神社は和銅三年に「創建」とあるので,大山咋神による工事のあとに,立地していて,すでにこの時には,昭和三十六年当時の亀岡盆地の環境が実現していたと考えても良いのだ。

 

 とにかく,ここで中断する。

以上 2025年10月10日。十三日。

 

 




タニハでの初めての独寝と折り畳みベッド注文 the first night sleeping alone in Taniha, and ordering a folding bed at Amazon

はじめに

 暑夏と論文作成でタニハには永く出かけなかった。茫茫たる夏草と急遽浮上した論文テーマなどで亀岡市立図書館に行く必要性もあって,10月18日(タニハ開所五十一周年)に泊まった。18日は亀岡市立図書館で資料収集,泊まった翌日は,まずは刈払機で1回,その後,また亀岡市立図書館に出かけた。

1. ハードな宿泊を踏まえてベッド注文

 タニハで眠るというのはハードルが高かった。一昨年か,川口さんがきて,一緒に四泊した。そして,この日が最初の独寝である。亀岡市立図書館での徒労的なお仕事のあと,駅裏のスタバで夕食。亀岡で食事する気がしないので,相変わらずスタバだ。駐車場が1時間内,無料だが,信じられないけど,1分過ぎたのか,220円。

 スーパー松本に入って,夜食のおにぎり,朝食用のフランスパン,プレーンヨーグルト,三色サラダを購入。まあ,何とか,タニハでの宿泊の決心がついた。

 モンベル一色をコタツ敷きの上に乗せて,後に睡眠に入ったのであるが,クッションが無いので腰が痛い。これが日曜日で今は火曜日の夜だけど,まだ痛いのだ。

 枕はコタツの掛け布団にした。インナーには枕を入れる袋があるが,全然入らない。膝掛け用の毛布を入れたのであるが,どうにも落ち着かなかった。自宅でも眠れないが,タニハではさらに眠れなかった。

図1 モンベルの寝袋とインナー

 昨年春に買ったベルメゾンのセットを購入するべく注文したら,ベッドは送料無料のはずだが,送料も請求される。クレームの電話をして,回答者に騙されて,翌日電話して,対応を求めたが,回されて,嫌になって,買い物かごから削除した。

 火曜日深夜には,新たにアマゾンで物色して,ベルメゾンより少し高いがエムールのすのこベッドを購入しようとした。しかし,耐荷重がなぜか90kgに過ぎない。いろいろみて,結局,ベルメゾンの半額で,「タンスのゲン」の折り畳みベッドとソファーを注文した。火曜日の夕刻には届く予定で待っていたが,水曜日に延期の連絡があった。

 なお,月曜日には枕も注文した。今の自宅の枕が気に入っているが近所のジェットで一万七千円だったので,アマゾンで物色していたら三千円弱のがあった。火曜日の午前中に到着した。思ったよりも薄かったがまあ許容範囲か。

2025年10月22日深夜記。

IKSTAR 枕 肩・首・頭をしっかりと支え まくら 肩がラク 独自の中空設計 低反発 安眠枕 ポリウレタンフォーム 通気性 ピロー プレゼント 洗えるカバー ライトグレー 54×42cm 格子縞

タンスのゲン 組み立て“超ラク” 折りたたみ すのこベッド セミダブル 天然木 ベッドフレーム フレームのみ 四つ折り 組立簡単 17620122(96996)
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タンスのゲン マットレス セミダブル 厚さ10cm 「純」高反発(R) 密度25D 硬さ190N 三つ折り 洗える カバー付き 高反発マットレス 敷布団 折りたたみ メッシュ ベージュ 13810092(101602)
¥8,999

 タニハ経由で亀岡市文化資料館から自宅に戻ったら,組み立てベッドとマットレスが届いていた。昨春,ベルメゾンから購入したものに比べると容積が小さく,価格も半額だ。明後日かなあ,タニハに運ぶだろう。「タンスにゴン」と勘違いしていた。右の大きい方がソファか?

以上,2025年10月22日。日が変わる前。