亀岡市1万分の1地形図『埴生』 1:10,000 Topographic Map of Kameoka City: “Habu”
はじめに
昨日(2026年9月7日),草刈りを中止して,資料整理を始めた。亀岡市1万分の1地形図『埴生』があった。他の同梱物の一つの新聞の抜き刷りの日付からすると,これは1972(昭和47)年頃に父が亀岡市役所で得たようだ。タニハの開所は,1974(昭和49)年10月18日だから, ほぼ二年前のことだ。工事開始直前にあたる。
当時の1万分の1地形図は,この頃発行が始まった二万五千分の一地形図よりも精度は高いとは言えないようである。父がこれを取得した頃はまだ新しいこの地の二万五千分の一地形図は発行されていないのだろう。
1. 『埴生』図幅
図1の市役所職員のメモからすると,『埴生』(はぶ)図幅になる。メモでは「図副」とあるが正しくは「図幅」(ずふく)である。図2のインデックスの4番にあたるが,この範囲は不思議なことだが,かならずしも亀岡市にはあたらない。このインデックスの範囲は何なんだろうか。図4のように,中世の埴生(はぶ)城がある場所にあたり,前の船井郡園部町,現南丹市に位置している。発行年月は図2の地図枠の右手に見えるように,1968(昭和43)年11月である。
図3には×印がある。父が記した日本タニハ文化研究所の設置予定場所である。等高線間隔は10mで設置予定場所は谷壁の狭い水田域であったことがわかる。×印の南西部には農業用溜池がある。この南西に伸びる谷筋を上流に辿ると355.9mの標高点をもつ山塊がある。この谷筋こそ,原谷だろう。タニハの住所は亀岡市本梅町平松原谷の由来になる。



埴生は,「はぶ」と読む。埴生城は,はぶじょうと読む。「神尾山城」の支城のようだ(図4)。奈文研のデータベース(図5)や日本歴史地名大系26『京都府の地名』(平凡社,1981: p. 452)では城主の名をとって野々口(ののぐち)城と呼んでいる。江戸時代の史料では埴生村・大谷村付近は本目(ほんめ)と呼ばれていたと同大系に記されている。図5の最も大きなオレンジ色で塗られた場がその城跡でこの北側が埴生村の集落域で,図5の中央を南東流する川は現本梅川にあたる。本梅川沿いの一般国道は372号線である。「本目」地名は埴生付近から由来したようである。なお,「埴生」地名は土器(埴輪)の材料になる土の産地を意味している。


以上,2026年9月8日。
2. 亀岡市域の地形図について
5万分1,2.5万分1地形図の新旧緯度・経度対照表(索引図:京都及大阪)には,図6が示されている。図2の1〜7の区画は図6の地形図区分とは異なる区分になっているようであるが,この図6と図2のインデックスを比較対照して,図2のインデックスが亀岡市域をカバーしていることが明らかとなった。亀岡市域は,図6の二次メッシュである2万5千分の1地形図の図幅名称でいうと,行(緯線方向)単位で北から南へ,殿田,埴生,亀岡,京都西北部,妙見山,法貴,京都西南部,高槻,の8図幅,にまたがっているのである。

2万5千分の1地形図『埴生(はぶ)』図幅が初めて生まれたのは,1920(大正9)年測量(初版)で,ぼくが知っているカラーが使用された2万5千分の1地形図は,1978(昭和53)年7月資料修正・改刷(昭和50年代の主要な部分修正版)にあたるようで,これが発行されておれば,父は京都駅北の東本願寺の北隣の小林地図でこれを購入したことであろう。小林地図はすでに現在,解散している。ぼくも帰省すると学生時代よく出かけたものである。
3. 地名「本梅」の由来
日本歴史地名大系26『京都府の地名』(平凡社,1981)でみると,「本梅町」も「本梅村」も存在しない。
本梅村(南桑田郡)の成立は,1889(明治22)年4月1日(町村制施行に伴い、西加舎村・東加舎村・井手村・平松村・中野村が合併して成立)である。そして,亀岡市発足に伴って昭和30年(1955年)1月1日には本梅町となった。
さて,「本梅」地名の由来が気になるところである。上記地名辞典にはなぜ「本梅」がないのか。この辞典の「全巻の凡例」の六(ページ凡例4)には,次の記述がある。
——— 引用〜全巻の凡例の六
近世には,全国に約六万五千の村々が存在した。その村名の多くは今日まで,大字名として残っている。本大系はこの近世村が基本的な行政単位として分布していた事実に基づき,これを過去と現在をつなぐ最小の地域項目として,全国一律に採用した。項目名は,全国の村名を網羅する天保郷帳を一応の基準とし,地域によってはより妥当と思われる資料によって修正することを原則とした。
引用〜おわり ———
国立公文書館デジタルアーカイブの,丹波国郷帳を参照した。辞典に掲載された郷名は必ずしもこの郷帳の順ではないが,辞典に掲載された郷に対応している。亀岡市については,平松村などは存在するが,「本梅」は見られない。
上記のように,明治の本梅村は天保時代の5郷から構成されており,新たな名称「本梅」村が創出されているのである。「本梅」(ほんめ)は「本目」(ほんめ)に由来するのは確かなことであろう。父から,ある時,ポツッと,「本梅は元は本目と称した」と言っていた。それを受けて,漢字の確認などしたが詳細は覚えていない。
『国語大辞典』(小学館1981,p. 2213)には,
——— 引用〜本目網(ほんめあみ)
こま結びによる結節によって網目を構成する網地。またそれを用いた魚網。
引用〜おわり ———
とある。本目(ほんめ)は,網地の結節の一種。細結(こまむす)びによる網目。編みやすく,結び目がかさばらない,という。前述のように,「江戸時代の資料では埴生村・大谷村付近は本目(ほんめ)と呼ばれて」いたそうだが,何故そう呼ばれていたかはわからない。図5には周囲を河川に囲まれた丘陵が見える。こういう地形は環流丘陵と呼ばれているが,上流からの河川がまとまって合流する結節点を評したものかもしれない。
AIさんに相談すると次のような推定があった。
——— 引用〜「本梅」地名
明治22年(1889年)の町村制施行に伴い新設された「本梅村(ほんめむら)」の名称は、自然発生した単一の地名ではなく、明治の大合併時に新しく作られた合成・佳名地名です。
名称の成り立ちには、主に以下の要素が関わっています。
- 地域の象徴としての「梅」 合成地名を作成するにあたり、地域に古くからある縁起の良い文字や名物、あるいは菅原道真を祀る天満宮・菅原神社にちなんだ「梅」の字を取り入れたと考えられています(本梅町東加舎・井手などには菅原神社が鎮座しています)。
- 「本」を関した中心性 周辺の地理的・歴史的繋がりから「本梅」と命名され、その東側に隣接する村が「東本梅村」、さらに北西の船井郡側が「西本梅村」と名付けられました。
また、この地域を貫流する本梅川(犬飼川の上流部)の名も、自治体名である本梅村に由来するか、あるいは川の旧称・地域呼称にちなんで村名が採られたものとされています。
引用〜おわり ———
AIがどこからか引っ張ってきた情報である。「江戸時代の資料では埴生村・大谷村付近は本目(ほんめ)と呼ばれて」いたことについての言及はない。河川名はそれぞれの地域で別の呼称があったと思うが,河川の結節点としての本目という地名から本目川が生まれ,埴生周辺が水運の中心的役割を果たしていたのであれば,呼称「本目川」が現在の本梅町でもそう呼ばれていた可能性がある。
「本目」から「本梅」への漢字表記の変化についてはわからない。音は「ほんめ」で変化がない。さて,またAIさんに質問した。その回答を次に。
——— 引用〜本梅を「ほんめ」と発音することに対する違和感は
関西弁(近畿方言)の音律や撥音化の観点から見て、「ほんうめ(Hon’ume)」を「ほんめ(Homme / Honme)」と発音・表記することに違和感はまったくありません。
むしろ、地名としての歴史や方言学的な変化の流れに非常に適った自然な発音です。
1. 関西弁における「N + U」の撥音・連声現象
関西弁をはじめとする日本語の音韻変化では、「ん(n)」の後に母音「う(u)」が続くと、音が引き寄せられて融合・撥音化(または連声化)し、「ん・う(n-u)」が「む(mu)」や「め(me)」に変化する現象がよく起こります。
- 例:観音(かんおん → かんのん)、天皇(てんおう → てんのう)などの連声と同様の機序
- 地名・語彙の例:「ほん・うめ」の「N+U」が縮約・滑らかに発音され、「ほんめ(Hon-me)」と口語化するのは日本語の母音脱落・音便として極めて自然です。
2. 実際の地名・行政名の読み
現在、亀岡市の「本梅町」や旧「本梅村」の公式な振り仮名は「ほんめ(Honme / Homme)」となっています。
- 本梅町:ほんめちょう(Honme-cho)
- 本梅川:ほんめがわ(Honme-gawa)
つまり、「Hon’ume(ほん・うめ)」と真面目に一音ずつ区切って読むよりも、関西の地元で日常的に発音されて定着した「ほんめ(Homme)」こそが正式かつ自然な標準の読みとなっています。
ですので、「ほんうめ」と書かれていても地元感覚や関西の発音で「ほんめ」と読むのは、ミスではなく極めて理にかなった読み方です。
引用〜おわり ———
まあ,本梅町を「ほんめちょう」と呼ぶ違和感はぼくにもなかった,のではあるが。さて,誰かが「本目」を「本梅」と表記して,それが気に入られた可能性は高いとは思う。
地形図『埴生』図幅との出会いから,「本梅」地名の由来に及ぶことになった。
4. 図幅名として『埴生』が何故選ばれたか
AIさんに聞いてみた。次の回答はすごく納得できるものであった。そして,本目川という名称はこの下流域にも浸透していたと解することができるのではと思った。
——— 引用〜図幅名『埴生』
国土地理院(旧・陸地測量部)が発行する1/50,000地形図「埴生(はぶ)」図幅(亀岡図幅の西隣)において、主要な城下町や集落ではなく「埴生」が図幅名として選ばれた背景には、当時の陸地測量部による図幅名の選定基準と、当地の地理・交通上の位置づけが関係しています。
1. 交通の要衝・山陰街道の宿場(立場)としての知名度
埴生(現・南丹市園部町埴生)は、古くから京都と山陰・摂津(能勢・池田方面)を結ぶ山陰街道(摂丹街道・西国街道への分岐点)の要衝でした。
- 周辺は西本梅村の中心地であり、峠越え(はにゅう峠・天引峠等)の手前に位置する宿場町(立場)として、徒歩・街道時代の旅行者や測量方にとって広く認知されていた地名でした。
2. 陸地測量部における図幅名選定の規則
明治から昭和初期にかけて陸地測量部が5万分1地形図を整備した際、図幅名には以下の明確な命名優先基準がありました。
- 図幅内での中心性・代表性:図幅の中央付近に位置する大きな集落や重要な地形。
- 知名度と歴史的拠点:主要街道の宿場や郡役所の所在地など。
- 混同の回避:隣接する図幅や主要都市(例えば「園部」や「篠山」など)と重複しない、かつその地域の中心を示す地名。
「埴生」図幅の範囲は、東側が亀岡市西端(旧本梅村・東本梅村)、西側が篠山盆地東縁、北側が船井郡(旧西本梅村周辺)に跨がっています。この矩形(図幅)のちょうど中央付近に位置し、街道上の拠点として存在感があったのが「埴生」でした。
3. 「園部」や「篠山」が選ばれなかった理由
- 園部:「園部」の町自体は、北隣の図幅(5万分1「園部」図幅)の中央に位置するため、「埴生」図幅の名前に使うことができませんでした。
- 篠山:西隣の図幅(5万分1「篠山」図幅)の代表地名として採用されたため、この図幅の名称には使われませんでした。
その結果、亀岡図幅と篠山図幅の間に位置するこの地域の図幅名として、地域を代表する街道上の中心集落であった「埴生」が最適として選定されたという経緯があります。
引用〜おわり ———
おわりに
父が購入した『埴生』図幅から「本梅」地名の由来に及んだ。大阪都心の梅田は,もとは埋田であった。湿地帯そのままの地名であったが,字面の悪さを避ける江戸時代の地名選定意識(好字化)によって生じたものという説がまあ妥当だろう。本目から本梅への好字化は,記録される地名としてはなかったのであろうが,江戸時代には音として普及していたのかもしれない。隠語表現として「本目(ほんめ)」という表記を用いれば、「サイコロの出目」「賭場での真剣勝負・本命の目」といったイメージを十分に想起させるため,農村で普及していた博打的用語が忌避された可能性もある。さらに,野々口城から本目地区をみると,河系の集まる交通の要衝であり,軍事的観点で本目と呼ぶことは大いにありえたと思う。中世からそう呼ばれた可能性が高いと思われるのである。
以上,2026年9月9日。2026年9月11日修正追記。