古い水屋の引き出しに (2): 小幡神社の絵はがき in the drawings of the old cupboard for tea-things (2):picture postcards of the Obata jinja Shrine

はじめに

 開化天皇を祭神ウブスナさまとする小幡神社の絵はがきも,引き出しにあった。一応掲載しておいた方がいいだろうと思った。この絵はがきを父が手に入れたのは昭和二十年代であろうが,撮影年次の情報がない。小幡神社では,宮司邸の改築と,拝殿以外は,境内そのものを大きく改変するという工事は行われていないと思っているので,この絵はがきが果たす歴史的役割は小さいと思っている。

絵はがきカタログ

図1 絵はがき袋

図2 表書き

図1には絵はがきを包む袋を示している。図2は絵はがきの表書きであり,個々の絵はがきに小幡神社の手押しの捺印がある。おそらく小幡神社と関わる花などから印形が決められたと思われるが,ぼくには今のところ,わからないが八角形らしく,かなり珍しいと思う。

図3 正面入り口

図4 拝殿

図5 本殿

図6 高熊山巌窟

図7 応挙奉納絵馬

図8 王仁三郎奉納絵馬

図9 丹波穴太鎮座神明社

図10 愛宕山上より見た西穴太

 図10は,京都市と亀岡市の市境の愛宕山からの眺望というが,かなりの望遠レンズを使っての撮影なのか。この写真での建物の特定はぼくには難しい。

 なお,何故に愛宕山から撮影されたのか。それは穴太と愛宕山に繋がりがあるからだと思う。図12の北部には高校時代の友人が経営する西田歯科医院がある。彼の父は穴太の神社の宮司であった。彼の兄は全国の愛宕信仰の総本山愛宕神社に居るようだ。
 図9は現在の郷神社に当たるようである。

図11 京都盆地と亀岡盆地間の愛宕山から見える小幡神社,高熊山岩窟方面

図12 小幡神社と郷神社

 図11の赤い目印は,愛宕山である。図12の小幡神社の北に隣接して郷神社が見える。

 小幡神社から西へ嶺伝いに行くと高熊山岩窟に届く。小幡神社は,上古には巌窟そばの,多少広い岩棚にあった。その復元を次のページの図22〜図24に示している。

図12 巡礼ルートに関連して

 

図13 

 高熊山と出口王仁三郎ゆかりの地ポストカードとして,図13が掲載されている。図6とおよそ比較すると破壊程度に違いを感じない。図13の撮影アングルはこれまで見たものからすると,なかなか斬新である。「明治31年(1898年)旧2月9日、富士浅間神社の祭神木花咲耶姫命の神使に導かれるままに、この郷里の山の岩窟に篭り、七日七夜にわたる霊的、肉体的ご修行をなされた」というから,旧2月9日は新暦3月1日にあたり,そういう季節に撮影されたものであろう。

 この写真も図6でも,この巌窟周辺の岩壁を見ると,3段階の弧状の削剥が見える。図13では,この岩壁の最上部が明るく輝いているがこれが破壊前の岩壁の可能性が最も高い。祭壇上のロウソクで点された2本の献灯を挟む場のすぐ上に磨崖仏があった凹みが見えるが,これより下方に見える2回の弧状の削剥は聖師修行の折より後のものかも知れない。

図14 聖師による修行の再現 

 図14は,愛善苑の霊界物語成立前夜の状況,から抜粋した写真であるが,霊界物語の修行の記述からすると,巌窟内に端坐されていた訳では無いと思う。松葉からの雫が唇に落ちるという記述はありえない。図13や図6の巌窟は聖師修行のみぎりには,弧状の2回の削剥が無かったとしても,図14のようなものでは無かったのではないか。図14は聖師さまの修行らしく見せるサービス精神からでたものではないか。なお,図6の木立の陰影からも見えるが,巌窟はおよそ南面している。

 図14の巌窟入り口の屋根部分と図13の屋根部分は類似しているようだが,図13の祭壇が設置された場は直接岩盤ではなかったかと思う。次回,巌窟に参拝した際に,埋没面であるか,岩盤であるか,一応再再度,確認したいとは思っている。

 図7と図8の絵馬はいずれもあざやかな彩色画で,ぼくが少年の頃は図5の本殿に向かって右の小屋に掲示されていたが現在は,写真が置かれている。父が盗られるのではないかと参拝の度に心配していた。応挙は穴太の出身で里に帰ると里人にせがまれて作品を提供していたようで,作品が穴太の家々によく見られたという。王仁三郎は応挙の子孫と言っており,その一つの証拠品として図8の絵馬を奉納したのではないだろうか。モンゴルの草原を彷彿とさせる。

図15 応挙の絵馬

図16 郷神社

図17 2020年現在の展示

図15は,円山応挙の生誕地“穴太”を歩く,から,図16は,どこでも大佐 Hideyuki Sakamoto 2017年,のGoogleの投稿からえている。後者は,大木は伐採されてしまったが,図9丹波穴太鎮座神明社,に一致している。図17は2020年現在のコピー展示のようすである

改めて高熊山巌窟について

 この章はMay 2, 2021に挿入した。

図18 高熊山巌窟への疑問

 図18に四枚の巌窟の写真を掲載している。上段右の長男とその妻が入る写真だけが新たなものである。〇マークで対応関係を示している。聖師の写真を除くと対応関係は比較的容易に取れる。上段二枚の写真には,神棚が設置されている。外形からするとサイズは同じ可能性が高い。上段両写真だけでなく,下段左の天声社のはがきについて,青色と黄色の〇マークからすると,神棚の土台は,上段左の小幡神社の絵はがきより低かったと考えるのが一番妥当かも知れない。この視点での詳細な観察が必要かと思われる。なお,この地の地質は,20万分の1地質図ではジュラ紀混在層か整然砂岩相に対応しているが,チャート相であったように記憶している。確認する必要がある。

 さて,図18の聖師が端坐される写真であるが,洞穴入り口の右にシダ類,左に笹が見える。洞穴内にもシダ類が生えているようである。この洞穴入り口右手の比較的上方には,節理が左下手に走るのが見える。この方向の節理は図18上段の二枚の写真の白色から橙色の〇の方向には,対応している,図18下段左の天声社絵はがきには見えない。下段の2写真では,赤〇白縁マークを敢えて記したのであるが,この対応関係には無理がある。というのは,第二次大本事件の前の聖師の写真では,壁面がカットされていて,これに対して最近の写真である天声社の写真では岩石域が増えていることになる。この洞窟は高熊山では無い可能性が高い。この丹波周辺にはこの程度のマンガン鉱山が多く,その跡地である可能性が高いのである。

おわりに

 小幡神社では,父の計らいで宮司上田正昭先生を斎主として,ぼくと家内で,両親四名も揃って,結婚式を挙げることができた。さらに2020年には正昭先生の長女のご子息を斎主として,長男の結婚式を,両親四名も揃って挙げることができた。父は聖師から「あなたの産土様は小幡神社の祭神である」と聞いている。

以上,May 1, 2020記




古い水屋の引き出しに (1): 二代様の時代 in the drawings of the old cupboard for tea-things (1): the second hierarch of Oomoto

はじめに

 旧亀岡町横町1番地の大阪控訴審裁判事務所(家主はぼくの同級生の中田嬢のお婆さんだった)にそのまま父が住むようになって(追加図1 家賃金領収通),母と結婚して,敗戦を迎えた。この事務所には聖師が中矢田からお一人で父に会うべく時々お訪ねになった場(父の昇天のあとで,父の著作『新月のかけ』,を読んで,ぼくは知ることになるが)であり,この借家を離れるに際しては,家主の中田さんから購入したいと洩らしていた。母のそんなお金がどこにあるのという反論が茶の間でくり返されたことがあった。ぼくの大学時代の頃である。

 この家は横町と西竪町と京町,そしておそらく古世町の交差点にあり,外から見ると隣接の畳屋さんと写真屋さんの建物の間の狭い平屋にしか見えなかったらしい。この角の三軒が中田さんの所有だったようだ。母によれば,近所ではわが家は三角の家と評されていたらしい。母がこの話しをした時に,父はワハハと笑って,住んでいる家族は誇らしいのだからそれで良いというニュアンスの反応があった。この会話は,ぼくの中学生時代のことだったか。

 高校の時だったか,友人がどうして暮らしているの,というような質問をしたことがあった。二階が畳屋さんの上にあって,台所や井戸などは写真屋さんの裏に続いているというような回答をしたのではなかったか。四人の子供たちは両親を尊敬し,姉は学校で一番の成績を取るほど優秀だったし,亀岡市と大本が協賛する文化祭みたいな場では,姉は,日本舞踊,2弦琴の演奏などで目立っていた。一少年として姉が誇らしかった。

追加図1 家賃金領収通

 1948年(昭和23年)1月19日には,聖師は満76歳で昇天,そして二代様だけの時代が始まったのであるが,4年後の1952年(昭和27年)3月31日には,二代様は満69歳で昇天されている。すみ子の母である開祖が満81歳での昇天であるから,治安維持法による取り調べと獄中環境のなか,健康を害された故であろう。

 三角の家の茶の間に置かれていた小さな水屋には最下部に二つの引き出しがあったが,この水屋は,大本職員アパートの追加的建設にともなって横町から引越した際に,おそらくその頃に,タニハに運ばれて父の物置になった。その水屋の二つの引き出しから,2カ月ほど前だったかに書類などを回収した。その引き出しの中味は,昭和二十年代に父が適当に突っ込んだままになっていた。

 父はゴミを捨て得ない人で,割り箸の袋とか使い古した幣紙といった全くのゴミと言えるものもかなり入っていた。全くの未整理状態で積み重なっている。それを整理して,ぼくの現在の目からみて半分ほどか残した。そのうち,もっとものお宝は,父が二代様から聞き書きしたノートであった。全5冊ほどで,第一冊がない。これが,如是我聞『おさながたり』の元原稿であった可能性が高いと思っている。同郷出身で友人の虎雄さんに提供したのではないかと思っている。この引き出しは昭和二十年代の父のタイムカプセルと言えるのである。

 隅田さんと山崎さんがタニハのゴタゴタの荷物を整理したいと申し出があって,もちろんお願いした。隅田さんは,二代様から如是我聞の原稿が出てくるのではないかと期待されていた。父は二代様のおそばに居て可愛がられていたことを聴いていたので,そう期待しておられた。いま,ぼくはタニハの掃除を少しずつ進めているのであるが,明らかな父の未使用ではあるが全く役に立たないフィルムや印画紙や万年筆のカートリッジなどなど,段ボール箱に改めて詰め替えられたとおぼしきものがあって,これは隅田さんと山崎さんの仕業と考えられる。ぼくのように不要なものは捨てるという発想ではなく,散らばっているものをただまとめるという遠慮がちの姿勢であったようだ。そういうゴミを大量にぼくは今捨てている。隅田さんらが木庭の自宅から運ばれた水屋の引き出しを開けて整理するという姿勢はなかったのであって,その姿勢からは,到底この二代様からの聞き書きには出会い得なかったのだろう。

 この引き出しのものは,大本の事務的なもの,教えに関する父の原稿,手紙類,写真などからなる。簡単に整理して茶封筒に区分する作業をしているが,この報告の第1回目では,他の方には全く関心がないであろうぼくを中心とする記録と,二代様を中心とする冠島沓島参拝の写真を中心に,ここに示したい。

1 元晴の記録

図1 元晴誕生の電報

 この引き出しが物置に使われた時代を反映してぼくの出生の電報が出てきた。昭和24年4月3日付けの「今朝 男生まる 元気 畑谷」である。畑谷一郎が,出張中の岡山の桐原トシユキさん方の父への電報である。ぼくが小学校四年生の頃,この水屋のそばに座っていた母と,柱を背もたれにしたぼくが,雑談している時に,母が,4月3日は旧の女の子の節句だというようなことを言い,更に,ぼくが4月1日に生まれていたら,早生まれで学校が大変だったと言った。ぼくの出生を遅く届けたというような印象をぼくが持ったので,ぼくは4月3日に生まれたのではないのか,と問いただしたことがあり,そんなことは無いと否定されたのであるが,それ以来,ぼくは4月1日生まれではないか,という疑念を心の片隅に持っていた。

 この電報を見て,その疑いは晴れたのである。そして,出産の際には,畑谷一郎が尽力してくれたことを理解した。父が長期出張で不在のことが多く,また家庭を重視する姿勢を持たなかったので,一郎がよく母のサポートをしていたのだと思う。一郎の役割は,母から聞かされていたことでもあった。

  次の3枚の写真のうち,図2と図3は,隣家の写真屋さんであった南陽彦さんの撮影ではないだろうか。母の裏書きがあり,図2は「昭和二十五年十月四日晝すぎ,一年七ヶ月」とある。図3も同日の写真で,母の裏書きには「表にて」とある。図4の裏書きには「昭和二十五年七月 二階にて 一年四ヶ月 (橋本さんに撮ってもらった)」とある。橋本さんは,父の部下でよく自宅に遊びに来ておられた。写真が趣味であった。何となく撮影当時を思い出す? そばのセルロイドのだるまさんは好きなおもちゃであった。

 図5は何故か母の写真。父が持っていたことになるがいつの写真かわからない。母はこの掲載を嫌がるだろうけど,ぼくとしては捨てることはできない。

図2 自宅前で乳母車と元晴
図5 何故か母の写真

図3 図2と同日

図4 自宅2階の神棚前

 引き出しからのものではないが,この当時の父と母。

図5’ 丸物にて s.26.3.5 満二歳になる前

図5″ 父33歳,もとはる1歳9ヶ月 1950.1.1

図6 入園許可証

 これは亀岡保育園入園許可証である。昭和28年4月4日入園だから,満4歳になったばかりで入園したことになる。三年保育であった。赤組,桃組,藤組であったが,赤組の担任を覚えていない。桃組は中田?友子さん,藤組は波多野なんだっけ,忘れたなあ。園長は出口光平さん。大本が社会活動の一環で経営していた亀岡唯一の保育園であった。当時幼稚園はない。

 玄関は広くて各自の下駄(靴)箱があり,正面には職員室と園長室に向かう階段,その下には紙芝居が収納されていて,よくこの紙芝居を広げて見ていた記憶がある。入ってすぐ左手が赤組の教室,右手に行きほぼ上から下までガラスが張ってあった通路を通って右手が桃組,玄関から真っ直ぐ入って奥の左手が藤組であった。抜けると,運動場が展開していた。

図7 表書き

図8 入園式案内

 図7と図8は,入園式の案内の表書きと裏書きである。保育用品代200円が見える。横町には何十軒かはあるが,ただ横町で届いている。当時のハガキ5円からすると現在の63円はかなり安い。

 保育園と亀岡高校の間には,段丘崖があって,保育園は一段低くなっている。その崖裾に水路が続き,ニセカシアの並木が続いていた。いま,手許には,藍染めの「1988年竣成記念 社会福祉法人 愛善信光会 亀岡保育園」がある。タニハに何枚かあった。それゆえ,現在の保育園は,ぼくの頭の中のものとは異なる。ただ,この外観を見ると,敷地に大きな違いを感じないのであるが。

 さて,副園長の川島先生は怖かった。玄関を入って右手の一番奥に,遊戯室があり,ヤマハのグランドピアノがあった。ここで川島先生の指導のもと,子供たちの会話が録音された。その時の情景ははっきりと覚えている。その後,母は川島先生に道で呼び止められて,録音を聴いたらぼくの高い声しか聞こえないというおしかりであったらしい。母はぼくに「恥ずかしかったあ」と小言を言ったのであるが,ぼくとしてはかなり遠慮をしていた記憶があり,もう途方に暮れるしかなかったのである。

 波多野先生の名前が出ていないかと,亀岡保育園のWebサイトに初めて入った。
http://www.kameho.info/enkaku/rekisi.html
このサイトでの歴史の取り扱いは制度に偏り,卒園生にとってはあまり参考になるものではない。ただ,そうなのか,という記事があって一部,引用したい。

 1 創立に至る迄の経過: 昭和22年の学制改革で、府立亀岡高等女学校を廃し、これを府立亀岡高等学校(ぼくの出身校)とする事となり、女学校が、補習科学生訓練の場の一つとして附設していた、幼児の保育施設を廃止することとなり、旧亀岡町に幼児の保育をする揚がなくなってしまうこととなった。もともと、昭和10年12月の大本第二次事件まで、大本は「愛善幼稚園」を開設して、亀岡町の幼児保育を行って来たが、事件のため破壊されて、前記高等女学校に移されていたという経過もあって、大本としても、保育園を再建したい意志をもっていた。
大本が、昭和20年12月に再出発し、次第にその形を整えて来つつある時でもあった。

 2 昭和26年度より〔創立と建設の時代〕: 昭和26年4月1日、児童福祉法による保育施設として誕生。5月12日、開園式を挙行することになり、大本社会事業団の経営で、出口光平園長以下職員11人を任命、当時の定員は180名であった。(中略)第3年目、昭和28年を迎えたが、8月には二階建本館落成、定員も280名となる。(後略)

 ぼくの入園は,新制亀岡保育園の3年目に当たっていたのである。いわゆる第一次ベビーブームに対応しえた亀岡保育園であった。

図9 姉の保育証書

 姉祝子(のりこ)の証書も引き出しの中にあった。これによれば,昭和25年11月には姉は入園している。上述の「児童福祉法による保育施設として誕生」前に,「昭和24年になって大本は、大本婦人会に全国募金をもって施設づくりを訴え、昭和25年に、古材をもって木造平屋建、一棟6教室 320㎡の建築にかかり、昭和25年11月に完成した」とあって,この時に祝子は,幸い入園できたようである。

2 二代苑主すみ子の冠沓島参拝

 次の図10〜図13(プリントサイズは,図10と図11 50mm x 70mm,図12と図13 69mm x 94mm)は,参拝者に配付されたものらしい。写真の裏書きは印刷されている。

図10 冠島(大きな島)と沓島

昭和二十五年七月二二日 五十周年記念 冠沓島参拝写真 冠島の全景と沓島の遠望

図11 乗合船

舞鶴湾を出発間際の参拝者一行

図12 二代苑主 沓島上陸の刹那

図13 開祖御修行場附近を御徒行の二代苑主

 図13の写真のほぼ中央に,二代様が歩いておられる。顔を日差しから覆う左手が白く光っているのでわかる。お生まれが1883年2月3日だから,67歳5ヶ月余りである。険峻な岩場をお一人で歩かれており,健康な日々をお過ごしの頃である。この1年8ヶ月後には昇天されてしまう。

3 第二期教習生

 新生大本の息吹を感じる写真である。図14は昭和二十五年十月八日午前十時過ぎに撮影,図15と図16は同年十月二十五日撮影されたものである。父が講師となっての集まりで,裏書きは父本人のものである。二代様はこの1年5ヶ月後に昇天される。早すぎる昇天であった。

図14 高熊山巌上にて 第二期教習生一同

図15 月宮宝座

図16 二代様,総長,教習生第二期一同,於瑞祥館

 父は,図14では人群の最後尾の谷の部分に,図16では最後列左端に見える。図16では中央に,二代様と内丸さま,そしてその間に女の子が見える。現在74歳ぐらいになっている方か。曙さんではないか?

 二代様は1952年(昭和27年)3月31日に昇天された。その十日祭の連絡メモもこの引き出しにあった。差出人は「家祭 山川」とある。ぼくの小学生時代の記憶では,山川さんは三代教主と秀麿さまがおられた朝陽館の受付をされていた。おそらく,二代様の近侍としての連絡であったろう。教主といえども,一連のお祭りは出口家の行事という認識で,山川さんが家祭担当ということであろう。二代様の葬列の順序(昭和二七,四,一〇付)のガリ版刷資料も残っているが,この中の「二八 側近者」の中に,米川喜代子,米川清吉,谷前清子,などとともに,山川日出子がある。この方は上の山川氏の奥方である。ぼくの面識がある方としては,森清秀,三浦くに子(同級生の母),南尊福,南陽彦(隣家の南写真店)などの名が見える。

本文を書き出すと,

左記 決定につき,その心得にて手配下さい。
    九日 二代教主 十日祭(於瑞祥館) 月次祭に引き続き
    十日 葬祭遥拝 午後一時(於瑞祥館)
      尚,十日の葬祭執行当日は道場講座は休みとする。 
                 葬祭本部 サイン(読解不可)
道場 木庭主事殿

 もちろん,ここでの九日,十日は,4月9日,10日のこと。

 図17 連絡メモ差出人 

図18 連絡メモ本文 

 この連絡網での位置づけから,先の「2 第二期教習生」での講師としての認識に誤りがないことがわかる。

 二代教主御葬祭参列記念資料一枚の両面をスキャンしたものが追加図2と3である。

追加図2 参列記念: 二代教主のお歌 

追加図3 参列記念: 辞世歌など

図19 宣霊大祭行事表

 図19は少し重いファイルである。ぼくの知る宣霊社の竣成そして遷座祭の際の名簿である。祭務係の欄に主任木庭次守の次に1祭員として山川石太郎という名が見える。この方が先のメモの発送者であろう。なお,大道場係の主任として木庭次守の名もある。

4 父は注射していた

図20 聖師筆か

 引き出しシリーズ第1回を一応はまとめることができた。

誰の筆跡? 図20の原稿が聖師のものかどうか,字体では,ぼくにはわからない。ただ,右上欄外に〔海潮〕原稿用紙とあるので,聖師のものと考えざるを得ない。引き出しのゴタゴタの中に埋もれていたので,父の行動からするとおかしいとは思っているが,もし聖師のものであるなら,二代様から頂いたのものであろう。書き損じとして。父は決して誤魔化さない人だから。

 この文章を書いて後に,雑誌「海潮」というものの原稿用紙にも巡りあった。これでは,左下に,雑誌「海潮」とある。

 次の図21と図22は,予防接種手帳である。父は注射をしていないものと思っていた。この腸チフス・パラチフスは,かつては,法定伝染病の一つになっていた。この予防接種を受けるのは,かつては,市民の義務であった。『新月のかけ』には,聖師が信者を直そうと思ったが,「注射をしてしまったかあ」と言って助けることができなかった,というようなエピソードがある。ぼくはこれを信じて,父もこれを信じるから,西洋医学の薬も飲まない,注射も受けないと思っていた。実際,ぼくが知る限り,全く頑なに治療拒否によって亡くなったという印象があった。

 第二次大本事件での十代の時に厳しい取り調べを受けたために,その体験が高齢になって体力が弱ったが故に,現在のストレスに耐えきれず,吹き出した。なにゆえ,頑なに薬剤を拒否したのか,改めて多少奇異な印象を受けるのである。父の父はスペイン風邪で父が5歳ほどの時に亡くなっている。西洋医学を信頼しても良かったのではないか,と思う。

図21 予防接種手帳おもて

図22 予防接種手帳の内容

以上,Apr. 28, 29, 2021記

おわりに

 第二次大本事件が権力によって引き起こされたことで,熊本の一介の師範学校の生徒であった父も検挙され,熊本から京都中立売署に護送された。そして,裁判資料を作成する過程で深く教えを理解するようになる。そして父の母との亀岡での出会いがあり,ぼくらが生まれて,ぼくの子供たちが生まれた。ぼくたちは大本事件に感謝せざるを得ないのである。

以上,Apr. 30, 2021記




刈払機の使用 using a brush saw

はじめに

 西田さんが何回かタニハで草刈りなどをされて,その際に購入されて放置されている刈払機に注目している。昨年の5月の連休だったかに,野田君が生け垣やサクラの伐採に来てくれた際,彼がこの刈払機を使って,生け垣を刈った。その際に,初めて使用の始動を受けた。

 ぼくは振動に弱くて,5分ほどの作業の後,2時間ほど,手が痺れていた。これで懲りたし,怖いのではあるが,このマシーンについて調べてみた。

1 BIGM 刈払機 BK233RS 丸山

図1 刈払機全景色

図2 原動機と機種名称

 倉庫のものを引っ張り出して図1のように撮影した。図2は原動機付近のものである。この機種名は,丸山製作所のサイトにはない。西田さんはたぶん,亀岡市のアヤハディオで買ったものだろう。DIYでの販売機種名はメーカーには無い可能性もあり,実際にない。2サイクルエンジンのもので,ナイロンロープでの草刈り機能もあるが,その部分を本日,箕面クリーンセンターに出してしまった。

2 機能などの説明

 2サイクルエンジン用として,イントロのpdfが次のように提供されている。

 http://www.maruyama.co.jp/instruction/pdf/230896_08_hosoku_brushcutter_2cycle.pdf

これを,イメージ画像にして次に示す。

図3 はじめにお読みください 1/2

図4 はじめにお読みください 2/2

ホーム>安全作業のために>メンテナンス(映像) BIG-M丸山ハウツーガイドVol1,2

ハウツーガイド Vol. 1 ハウツーガイド Vol. 2

安全作業のために: https://www.youtube.com/embed/B-cTHSskWZw

分割式草刈り機 丸山製作所BCW233S 1年半使用後のレビュー

以上,Apr. 20, 2021記

3 動いたよ

 昨日,Sun., May 23, 2021,梅雨の晴れ間にタニハに出かけた。この丸山刈払機が動くかどうか。結果的には,上のハウツーガイド Vol. 1の案内通りにやって,問題なく動いた。僅かに残った燃料はガラス容器に廃棄して,西田さんが10年前ぐらいだろうか購入していた混合油を使った。有効期限3年と書かれていたが,問題なかった。この工具一切が見当たらない。今後,メンテする必要があるから,買い足せば良いだろう。

 廃油については,万博公園南のコスモ石油が灯油を無料で引き受けてくれたけど(運搬中,6つのタンクのフタが風化していて大量のの灯油が車内に入って,対策費に30万円余りを使った。今もまだ臭っていて,タニハに来た時には窓を全開している),コロナ関係で受け取らないという。市町村がやっているという情報を貰って箕面市に電話したが,その制度がない。クリーンセンターでも液体は一切受け付けない。オートバックス牧落に電話したら,受け容れるという助かった。

以上,May 24, 2021記

4 交換丸ノコなど

 切れなくなってきたので,ネット検索して,このBK233RSの現行機種は,BC233Mと考えられ,その取説が次のものである。

http://www.maruyama.co.jp/instruction/pdf/236060-07_BC233M_BC263M.pdf

現物を測ったら径23cmだったので,BC233M チップソー 230mm (224624)らしい。

高儀 TAKAGI 斬丸 JIS草刈チップソー 二段刃 230×36Pをヨドバシから注文した。純正の1/3ぐらい。1080円。

六角レンチ(径12mm)も紛失されていて,これはコンビボックス スパナ(210418)らしい。他の器具もあるので,六角レンチセットをヨドバシに注文した。「大橋産業 BAL バル No.506 [40PCS.ソケットレンチセット] 配達希望日:2021年06月02日 合計 1 点  1,900 円

以上,May 31, 2021記

追記 Oct. 5, 2023:

高儀 斬丸 草刈チップソー チップガード 230mm×36P Oct. 5, 2023アマゾンに注文した。1207円。ヨドバシでは商品が無かった。

一般草刈・畦刈・雑地用,雑地・荒地・石の多いところでもチップをしっかりガードするのでチップがかけにくい,刃先部に耐摩耗・耐衝撃用のタングステンカーバイトチップを使用し、長く使える4面フル研磨で切れ味アップ,チップが飛びにくい強力埋込型,軽くて疲れにくメッシュタイプ,外径:230mm,刃数:36P,内径:25.4mm,エンジン式刈払機20~25ccにおすすめ。




タニハの鬼門に取り組み開始 attacking the demon gate in Tania

はじめに

 タイトルが大げさで何がテーマかわからないのであるが,タニハ敷地の丑寅の荒れた二部屋の掃除などの初日を迎えることができたという意味である。この二部屋は,六畳と八畳の和室で,父昇天の後,亀岡市古世町の借家を家族が引き払う必要ができて,母は元晴の自宅へ,姉祝子とその一人娘夏江は,このタニハに引っ越した。

 ただ生活には余りに不便であること,ぼくは知らないが,今思えば,タニハの人々から何らかの忠告を受けたかも知れない。それで二人はここから出た。その後,隅田光さんと山崎由美子さんがタニハ訪問の際の寝室になった。すでに隅田さんは昇天されているが,いまだに両方の蒲団類などはそのままになっている。

 隅田さんと山崎さんが来られなくなってから,急激に荒れた。まずは2メートル近い長さのミツバチの巣が二つ天井裏に作られて,そこから流れ落ちる蜂蜜が土壁から沁みだしてきた。そこで本梅町の農協を通じて蜂退治の業者に依頼して,屋根裏に入って貰った。その結果,ミツバチの巣の存在がわかったのである。ミツバチ業者の箱の中の網板のような外観であり,ミツバチの巣が全くの無防備であることを知った。

 その後,天井板の一区画分が何故か,外れて,そこから,大量の蜂(ミツバチではない)が吹き出して,タニハに行って,この部屋を嫌々ながら観察する度に,沢山の蜂の死骸が畳に落ちていた。障子には蜂がぶつかった後が無数に残っていた。天井や壁の隙間からは蜂の子の死骸が洩れていた。いくら掃除をしても,その死骸の堆積が続いてきた。

 というわけで,僕にとっては鬼門になっていた。この文章って誰宛てに書いているんでしょうねえ。昨年春退職後,タニハの建物の不具合については,少しずつ解消させてきた。最初,気になったところは,玄関の鍵の開け閉めがうまく行かない,玄関の花崗岩の敷居上の真鍮レールが曲がっている,そして,雨戸が動かない,ガラス戸の鍵が壊れている,などなどの問題があって,少しずつ,解決してきた。そして,鬼門とも言える東端の部屋に昨日,辿り着いた訳である。

 昨日は,文子さんが重い腰を上げてくれて,一緒に出かけた。ぼくが天井を覗く際に天井裏の大型?動物に攻撃される可能性もあったので,到底一人では天井裏を覗く勇気がなかった。文子さんは主に母の総桐の箪笥中の着物などを処分を担当してくれた。ほとんど廃棄することになって,本日,箕面クリーンセンターで受け取って貰うつもりである。追加 Apr. 16, 2021: これまでの重量よりかなり重く,料金は二倍余りになった。燃えないゴミや家具などよりも衣類の方が,小さな車に占める容量が同じ場合,重いのである。

1 天井の破れについて

図1 天井の穴

 図1のように蓋を開けたように破れがある。脚立で上って観察したら,ノコギリで切り取られていた。これはぼくが業者さんの考えに了解した結果であろうが,失念していた。ここから人は出入りできない。おそらく,蜂退治の業者さんが観察のために切り取ったものであろう。

 天井板を切り取ったために,蜂が室内に放出されてしまったのである。この図1に見えるように,天井板や壁との隙間から蜂の子が溢れて,黒くなっている。これは金ヘラで擦れば図2のように,簡単に取ることができた。

図2 切り取り後

 図2はノコギリなどで天井板二枚分を切り取った後の映像である。畳起こし用の金属ヘラで擦り取ったので,黒ずんだ蜂の子は無くなった。蜂蜜の染みはもちろん消えない。

 この穴をどのように埋めるか,まだ決めていない。天井裏にはもう蜂は居ないよう?なので,今後は蜂の死骸が落ちることはないのではと楽天的に考えているが。

追加 Apr. 16, 2021: 修理材を棧幅ギリギリで切り取ってのり付けするのがベストと考えたが,また蜂の巣ができる可能性があり,観察窓として扉を作る発想も必要だと考えた。下記のサイトには蜂の巣を作らせない薬剤も紹介されているが,ここで就寝する?場合にも害がないものでないと行けない。下記のような殺虫剤スプレーは3〜4m飛ぶので,何とか図3のような場所でも何とか薬剤が到達可能である。10秒ほど吹き付ける必要性があり,効力は1カ月ということなので,4,5月の巣作りの前に毎年噴霧することで予防効果があるのではと思い,2本,購入することにした。
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今後の参考にしたいウェブページ: 蜂の巣を予防する!ハチの巣を作らせない方法を解説 公開日 2019.08.09

図3 天井裏 蜂の巣跡 北方を見る

図4 天井裏 西方を見る

 図3には蜂の巣の痕跡が見られる。ミツバチの巣は丸々,業者さんが取ったのでその痕跡は小さいが,スズメバチ,アシナガバチの巣跡も見える。蜂蜜が大量に流れ出したのは,スズメバチの攻撃の結果ではないかと想像している。漆喰と柱の隙間から蜂の出入りが可能で,蜂の営巣にはいい場所であったろう。しかも人気もなかったタニハだからとも思われる。

 図4で見られるように新聞紙はこの穴周辺に限られる。業者が敷いたものであろう。これがボロボロに分解して,蜂の死骸とともに,天井の穴から大量に落ち続けてきた。掃除機などを使って,新聞紙は何とか除去したいと思っている。

 このページには,今後,実施するであろう作業内容を綴っていきたい。この東端の二部屋とその周辺だけで,3カ月ほどかかるのではないだろうか。外の草木も伸びてきた。5月になると蜂が活発に活動し,作業中に攻撃されるので,日程の組み立てが難しい。

以上,Apr. 15, 2021記

2 第2回の予定: 蜂対策などをまずは

 明後日,Mon., Apr. 19, 2021,にタニハへ出かける予定。その想定される手順を次に。

A 東南隅の部屋1

a 母の残った2箪笥のうちの一つを廃棄する。嫁入り道具の本桐箪笥をサンドペーパーがけして,本来の白い木肌が出るようであれば,これを残して,いわば現代式の箪笥を廃棄したい。母の着物と畑谷一郎の形見の紋付き一式などを一昨日に箕面クリーンセンターで20kg廃棄している。

 残さない方の箪笥の引き出しの底板を使って,天井裏観察用の枠域に添える板としたい。神饌室出口のそばの天井板もここから確保したい。以前,この東南隅の部屋のミツバチ密洪水騒ぎの前に,神饌室出口でも同様な騒ぎがあって,業者を呼んで,ミツバチの巣を取り出した。その際の出入り口にした天井穴で,そこはガムテープで応急的にふさがれている。この場も,天井裏を見える形の窓を作りたいと思っている。ここの大屋根は10メートルになるだろうか,凄く高くて,到底,蜂の巣作りの防御措置はできそうにないが。

 さしあたり,東南隅の部屋の天井板のサイズを求めたい。幅は棧間で,長さは現在の穴よりも長くして,年に1回程度の観察が可能なように,工事することになる。計測したら,幅43.5cm,長さはおよそ90cmでいいだろう。

b 屋根裏のミツバチの巣があった場所に業者によって敷かれた新聞をすべて集めて廃棄したい。プラスチック箒と電気掃除機で何とかしたい。顔の防御が必要である。

図5 バズーカジェット

 c フマキラーの,ハチ・アブ バズーカジェット 550ml をコーナンでみつけた(図5)。アマゾンが1077円(別途送料410円)。コーナンで1078円。「屋外専用」とあるが,フマキラーのサイトによれば,火災と汚れの件だけで,これを天井裏につかわざるを得ない。毎年4月初めに,天井板を外して,これを噴霧すれば,蜂の巣予防になるだろう。
 噴霧の前に,通用玄関と東南隅の部屋は開放する必要がある。夜間が最も効果があるというが,当方の都合では,開放時間をできるだけ多くするべく,到着後,できるだけ早く,実行する必要がある。 

B 東北隅の部屋2

a タニハは築五十年,太陽光に曝されてきた東の雨戸ながら,3枚はよく耐えてきた。もう十年前だろうか,別の大工さんに一つを更新してもらったが,一年もたたずに歪んでしまった。それもぼくは放置していた。今回,この更新されたものをぼくが何とか修理したいと思っている。まずは,雨戸の真鍮のレールが外れているようだ。その原因を究明したい。

C トイレ前の照明の更新

 すでに購入している人感照明を設置したい。

追加 Apr. 17, 2021記

3 第2回, Apr. 19, の実際

 まずは,東端2室の東面窓下の草刈りと思って開始したが,結局,東北コーナーとこれに続く東端2室の東面窓下,の草刈りで4時間ほどを費やした。倉庫から草刈り道具を持ち出す過程で,ハリアーに載せていたカー用品関係と,娘の学習机付きの椅子などを車に乗せたり,余ったウィンドウワッシャー液をカローラツーリングにセットするなどのことで終わってしまった。

 引っ掛けシーリングの交換と天井灯の設置

図6 既存天井灯

図7 既存の角形引っ掛けシーリング

 トイレ前の図6のような従来型天井灯は,以前から勝手が悪かった。暗い廊下にあり,物も置いているので危険であった。

 用意していた人感センサー付きの天井灯を設置すべく,図6の天井灯を外して見えた引っ掛けシーリングが図7である。

 トイレ前の廊下に,以前より用意していた図8の人感照明(アイリスオーヤマ 小型シーリングライト 導光板 750lm 人感センサー付 電球色 SCL-75LMS-LGP)でも付けようと思って,天井を掃除するなどして,設置しようとしたら,図7の角型引っ掛けシーリングは五十年前のもので,対応していなかった。電極が外に出ており,物理的にもセットできない(もちろん電極の位置は更に重要であるが)。図9,図10のパナソニック(Panasonic) フルシリーズ角型引掛シーリング/P WG1000P 【純正パッケージ品】(コーナンで95円),などが対応しているようである。コーナンで,現在使用されているシーリングを購入する必要がある。

図8 アイリスオオヤマ人感センサー付き天井灯

図9 角形引っ掛けシーリング(ボディ) 内側

図10 その外側

 設置法であるが,生活110番「引掛けシーリングの工事は意外と簡単?工事手順と注意点を把握しよう」が参考になる。
1 この部分のブレーカーを切る。
2 電線の絶縁被覆を剥いた部分を引掛けシーリングボディの穴に差し込む。このとき、「接地側」と書かれた方の穴に白線を差し込むようにする。もしも失敗した場合は、「電源はずし穴」と書かれた部分をマイナスドライバーなどで押し込みながらケーブルを引っ張ると、安全に取り外すことができる。
3 引掛けシーリングボディを天井にビスで固定する。

 残す箪笥の選択について

 母の箪笥のいずれを廃棄するか,迷っている。試しに古い方をサンドペーパーで擦ったら,手垢などは簡単に消すことができたが。取っ手がすり減っているので,交換する必要があるなど,かなりの時間が必要だ。ぼくの残された人生の使い方の選択でもあるなあ。

図11 古い本桐の箪笥

図12 比較的新しい擬似桐箪笥

4 第3回, Apr. 21, の実際

 まずは,トイレ前天井灯の交換を実施した。そこにあった天井灯には50年の埃が溜まっていた。水洗いして乾かしている様子を図13に示している。電気工事にあたって配電盤で該当部分がわからない(図14)。そのため,メーンブレーカーを切った。それで設置できた人感センサー付き天井灯を図15に示している。

図13 天井灯を洗って

図14 配電盤

図15

図16 点灯モード切替説明部分

図16のモード2を採用した。意外と人感範囲が狭くて,説明書によると,中心からの鉛直線から40度の範囲なので,高さが2.4mの場合,鉛直点から半径2mの範囲に入る必要がある。暗い場所なので,感知範囲が広ければと思う。

 トイレ前にあった天井灯は洗ったのであるが,それを回廊南西隅に設置することにした。長く照明していない場所である。ところが角形シーリングが割れている(図17)。それで予備に買っていた新しいボディに交換して(図18),この天井灯をここに設置した(図19)。この過程で種々の廃棄対象物が眼について,車に運ぶなどして時間を費やした。

図17 壊れた角形シーリング

図18 新たなシーリングをセット

図19 天井灯を設置した

 本日の次の課題であった天井裏の掃除(図20,図21)とフマキラーの殺虫剤を撒いた。どうしても首を突っ込んで噴霧するべく強いられたので,麦わら帽+マスク+サングラス,の出で立ちであったが,眼にも多少入ってしまったようだ。噴霧量が足りなかったかもしれないが,もう1本を追加的に噴霧する気にはなれない。1本しか用意してなかったが。この部屋の雨戸を開けて,近くの通用玄関を開けていたので,風が結構通っていたので良かったと思う。

図20 天井の西方向を見る

天井の南方向を見る

図22 東北隅室の窓枠周辺

この二部屋の窓のうち,東北隅の窓の敷居をタワシで水洗いした。ガラス戸と雨戸も敷居側の部分をタワシで洗った(図22)。帰る1時間前ぐらいの作業だったので,濡れたまま,ガラス戸と雨戸を敷居に戻すことになった。この部屋の窓の雨戸の一つは破損していたので,泥砂などが敷居に溜まっていた。真鍮のレールの釘が腐っている。次回,敷居が乾燥していたら,釘の打ち直しをしたいと思っている。

 次回はまずは,二部屋の窓のガラス戸と雨戸を外して,全面的に掃除をしたい。その後,雨戸とガラス戸,そして窓枠の歪みに対処すべく,戸車を外して,その高低で,鍵がかかるようにしたい。鍵の交換も必要だ。戸車を一つ外して商品名などの情報を得る必要がある。

以上,Apr. 21, 22, 2021記

5 第4回 Apr. 23, 2021

 主に鬼門2室の窓の掃除などを実施した。茶道の水屋内のゴミも全部出した。懐石料理のプラスチックケースが20枚ぐらいあっただろうか,何か解らない液体が詰まった壺などもあった。図23は南側から北側を見たもので,奥には友愛園の白い事務所も見える。図24はガラス戸と雨戸のレールで,釘が錆び切っており,次回,全部交換しよう。図25には戸車とその釘を示した。コーナンで同型のものを明日,8個購入することにしよう。

図23 東面2室窓外して掃除

図24 雨戸,ガラス戸のレールと釘穴

図25 戸車とその釘

 ガラス戸の鍵がかからなくなっている。その理由は,窓枠の南方向への回転である。建具に問題はないようである。東南隅に当たる部屋の方が東北隅の部屋より歪みが大きい。図26〜28は東南隅の部屋のガラス戸を外から見たもので,図26〜28はそれぞれ,南側,中央,北側の様子である。南側では窓枠が反時計回りに回転していて,上方で隙間が大きくなっている。言い換えるとガラス戸が時計回りに回転している。中央でもガラス戸が時計回りに回転しているので,鍵がかからない。右ではガラス戸と窓枠に隙間がない。結局,南側の窓枠と敷居が反時計回りに回転していることになる。

図26 東南隅部屋窓のガラス戸南側

図27 中央部

図28 北側

以上,Apr. 23, 2021記

 対策としては,両室の南側のガラス戸の北側の戸車を2〜3mmほど高くすればいいことになるのだろうと思う。今日,コーナンで戸車を購入するのであるが,既存のものと,戸車の固定面と戸車の底面の長さが少し高いものを購入してみようかと思っている。6個は従来型,2個は少し高いものを。

6 第5回 Apr. 26, 2021

 箕面クリーンセンターでのゴミ出しを今日して,Apr. 26 月曜日にはまたタニハだ。ガラス戸などの大工仕事のスペース確保のために,通用玄関一帯の掃除を何十年かぶりにして,戸車の交換と十年ほど前の雨戸の修復予定である。

以上,Apr. 24,2021記

図29 ミニパトか

 昨日,Apr. 26, 2021,タニハに出かけた。その帰りの途中,野間の見通しの良い高速道路のようで,かつ,通行量のほとんど無いバイパスで,ミニパトにやられた。Apr. 23に目撃した場所での罠であった。

 目撃した時間も昨晩と同様午後7時半ぐらいであった。目撃した際に違和感があった。理由がわからなかった。スピード違反である。

図30 やられた場所

 図30の1で示した地黄の交差点ではタニハから到着後,まもなく,青信号だった。交差点周辺には車はなかった。そして,タニハ方面からの車はなかった。確認している。掴まった場所は,旧道沿いの豊能警察署のほぼ西に近い477号線上である。

 おそらくミニパトは地黄(じおう,1地点)の交差点そばの能勢町立児童福祉施設北地黄児童館付近に隠れていて,ぼくが勢いよく発信したので,「さて,鴨だ」と追跡したのだろう。

 警官によれば,ぼくの後から赤ランプをつけて追随していた。なぜ,気がつかなかったのか,と「親切心」のアドバイス?があった。

 なにか,ぼくが何故に警官の親切心に応えなかったのか,ぼくが不法行為をスピード違反に加えて更に罪を犯したというような印象だったので,「蒲団を一杯載せていて後がほとんど見えない状態だ」と伝えた。一人の警官が車内を覗いて納得したようで,もう一人の警官に蒲団が一杯載っているから見えなかったんだって,と,納得したようなことを伝えていた。

 減点2で罰金15000円。ゴールド取り消しって。コロナの事態に別の働き方があるだろう,と言いたかったがもちろん,ご苦労様,と伝えただけである。

 タニハ鬼門での作業は北東隅の部屋の窓に限定された。レールの再設置とガラス戸の戸車更新の試行であった。

 図31に示した古い釘は全体形が残るものと腐朽したものである。新規のものはSPフロア釘(玄関真鍮レール補修の際に購入)である。センターポンチは玄関真鍮レールの補修のために購入したが,SPフロア釘の頭の凹みにこのセンターポンチの先が対応していることにこれまで気付かなかった。金槌で叩いてしまうとレールも凹んでしまう。とは言っても,素人は,この脆弱な薄っぺらなレールを叩きつぶしてしまう。SPフロア釘をそのまま使うと敷居に入らない。既存の釘のサイズにペンチ(とハンマー)で切り落として,使った。

図31 釘の更新

図32 センターポンチとSPフロア釘

 次の図33と図34はそれぞれ,レールを外したところと,再設置したところを示す。

図33 レールは外したところ

図34 レールを再設置したところ

 さて,肝心の外からみて左手のガラス引戸(今後,左ガラス戸とする)の反時計回りの回転をするための戸車設置である。まだ発展途上にある。向かって左のガラス戸のその回転がまだ小さい。8個のうち,2個は固定部と戸車底部の距離が少し高いものを購入した筈であるが同じであった。左ガラス戸の左手の戸車の固定部をノミで掘り下げているがまだ足りない。これ以上掘り下げると,敷居とガラス戸底部が擦ってしまうがその場合にはカンナで削り取ることになる。右ガラス戸は戸車の設置部の掘り下げはしないつもりである。左ガラス戸を反時計回りに回転することで鍵部が右ガラス戸の鍵穴に比べて少し高くなっている。これを解消するには左ガラス戸の右手の戸車の固定部も掘り下げる必要がありそうで,それをしてしまうと,左ガラス戸の左の戸車も更に掘り下げる必要がある。とにかく,右ガラス戸はさわらず,左ガラス戸で右ガラス戸の鍵穴に合わせるということになる。この作業を次回することになるが,天気と家庭のお仕事があって,次回は月曜日になるか。今日は箕面クリーンセンターに,布団を持って行く予定である。

以上,Apr. 27, 2021記

7 第6回 May 4, 2021

図35 May 3下弦の月

 深夜散歩して,自宅に戻って,午前1時45分の下限の月をみた。手前の白バラはSchneewitchen

 今日は,ミニパトで殺られた場所のパトの待機場所を確認した。図30のLoc. 1附近には待機場所がないことがわかった。児童福祉施設の場所は荒地になっていて柵がされていて入れない。Loc. 1に近い脇道からだろうと思う。次回,見てみたい。帰りは午後8時半を過ぎたがビビって,Loc. 1地黄の交差点から旧集落の道を通った。ここは30km/h制限で,道が狭く,危険なので,今後通過するかどうかだ。豊能警察署はなかなか大きい。能勢町唯一の拠点のようだ。

図36 ガラス戸南端下辺を削る

図37 戸車セット

 図36ではこの作業で使用した大工道具をガラス戸の上に置いている。図37では削ったあとで戸車を設置している。これにも使用した大工道具をガラス戸上に置いている。

 北東隅の部屋の窓枠の南側のガラス戸の南側の戸車の高さをより低くする必要があった。戸車の設置面をガラス戸により深く入れると,ガラス戸の下辺を敷居に引きずり,動かなくなった。そこで削ることになるが,側の竪棧部分のカンナ削りが結構難しく,種々の工夫をした。竪棧下辺の溝が消失したので,ノミで新たに溝を作ったりした。その結果が図36である。図37には戸車をセットした様子を示している。木ねじの使用をやめて,ベニア用の釘を使った。溝深くには釘が打ち込めないので,三角ヤスリとハンマーを使って押し込んだ。

図38 鍵のセッティング

図39 南端の隙間

図40 北端の隙間

 結果的には既存の鍵穴が一致し,鍵がスムーズに掛けることができるようになった。ただ,真鍮中折捻締りの指を載せる面積が小さいので,道具箱に買っていた新品と交換した。図38の鍵部と穴部の位置をスティックで刺して決めた筈だが,うまく行かない。図38が完成図であるが,穴部の2本の木ねじは完全には締めていない。締めてしまうと鍵と穴が「大きく」ずれてしまう。

 ガラス戸と窓枠の関係が変わった。図39では下方に小さな隙間ができた。図40では元は隙間がなかったが,下方に南よりは小さいが隙間ができた。まあ,問題はない。

 次回は,南東隅の部屋の窓のガラス戸にチャレンジしたい。より簡便な方法が見つかればいいが。

0: 30, May 5, 2021記

8 第7回 May 6, 2021

 この日に予定。図38の鍵付けがうまくいかなかったのは,彫り込みしたからだったと思う。軸がうまく定まらない。素人としては彫り込まずに竪棧に引っ付けるのいいかと思う。両引戸の隙間が許せば。

Mar. 5, 2021記入。

 確定申告を失念していた。豊能税務署に電話して,昨年2020年に関して来週木曜日に予約した。準備しないといけない。今日は途中の東ときわ台郵便局で罰金15000円を支払った。地黄の交差点手前のミニパト待機場所を探した。「みちくさ」入り口には格好の待機場所があった。ここから追跡されたことに間違いない。7時半すぎの帰り道では,ビビって50km/h未満で走った。後の車の追い越しを許した。今日は,後ばかり見ていた。今日は「みちくさ」に居なかった。この「みちくさ」は,図30の「みちくさ能勢」という字の「みち」と書かれた附近から西に上るとある。この地図は間違っている。

図41 南東隅の窓のレール

図42 外からみて左ガラス戸の中央側の戸車

ベニア板の下駄を用意した。

図43 戸車設置済

設置済。

 南東隅の窓枠の3本のレールのうち,図41のように最も外側の雨戸用レールは簡単に外れたので,釘を全部交換した。ガラス戸のうち,外からみて右手は,戸車設置のために軽くノミで削って設置完了。左手のガラス戸はかなり上方が時計回りに回転しているので,外から見て左端の方は結構深く彫り込んだ。結果として,敷居に少し擦る感じとなった。右端つまり鍵の方は図42と図43のようにベニアの端材を使って下駄を履かせた。その結果,図44のように多少は反時計回りに補正できたように思う。隙間が少なくなった(図26と比較)。とはいえ,以前では何とか鍵が掛けられたが,全く引っかからなくなった。次回に新品鍵を設置する予定である。

図44 南東隅部屋の窓枠の南端の隙間

図45 シャッタースペース

手前の窓は南東隅部屋のもので,奥の小さな窓は北東隅部屋のもの。

図46 神饌用炊事場そばの蜂蜜害の場所

 これまでの文脈と違うが,図45は両部屋の窓枠の上の狭い白壁を見ている。雨戸の戸袋を設置するスペースがなく,この部屋を寝室などとして利用する場合には,シャッターを設置することになるだろう。

 図46は,南東隅部屋と同様の蜂蜜が大量に流れてきた場所である。この天井板はガムテープで閉鎖されているが,これを外して,中が見えるようにスライド型の天井板に替えたいと思っている。

 次に行く前に,コーナンにて,戸車8個,中折れ捻締め鍵を3本,購入すること。ノミの刃こぼれがあり,砥石とともに自宅に持参した。次回は,南東隅の部屋の,2ヶ所の,高さ6尺のガラス戸枠の掃除から始めて,4個の戸車の交換,1個の鍵の設置ができればいいのだが。明日は箕面クリーンセンターにタニハからの布団を持参する。山崎さんのは終了,隅田さんの毛布とシーツだけ回収した。

May 6, 2021記

 箕面クリーンセンターに布団30kgを出した。箕面市に固定資産税を支払い,コーナンプロにて,ヨコヅナの鉄製戸車8個 206円x8,Niメッキの中折れ捻締め鍵を3本 657円x3,購入した。戸車はやっぱりプラスチックよりも鉄製がいい。しっかりしているし,安いし。次回は,日曜日かなあ?

May 7, 2021記

 次回,Sun., May 9, の6尺ガラス戸の外庭は草が茂るので,まずは草刈りから始めなければならない。狭い場所であるがこれで日が暮れるかも知れない。できても,ガラス戸二枚の枠一つの水掃除だろうなあ。

May 8, 2021記

9 第8回 May 9, 2021

 次のポスティングに示している。なお,このページでの作業は,草刈りと伐採のために一時中断する。

タニハでの草刈り

May 10, 2021記

10 ちょっと覗いた Jul. 6, 2021

 夏が迫って屋外に傾注して,鬼門を放置。漏電検査の際にちょっと覗いた。こわい。

図47 天井の穴をちょっとみただけ

図48 天井の穴の下の昆虫だあい

以上,Jul. 6, 2021記。

追記 Dec. 2, 2022: 長くブランクがあったが,このテーマに戻ってきた。続タニハの鬼門に取り組み に続く。




タニハ神饌用炊事場の掃除 Cleaning-up of the kitchen for offering to God

はじめに

図1 一月ぶりのタニハで

図2 コバノミツバツツジ zoom-in

図1には玄関に自生するアカマツとコバノミツバツツジとカローラツーリングであり,図2はコバノミツバツツジの花で,枝が三分岐するのが特徴になっている。撮影は4月10日である。

まさに,里山の植生が現出している。

図3 ミツバ

図4 小葉の裏

図3と図4いずれも4月14日撮影のものである。図3から,コバノミツバツツジの名称が理解できる。この小葉は,夏みかんの皮肌のように,組織が小さく分割されている。

 図3と図4はいずれもレベル補正によって強調されており,裸眼では注意しないとこの構造を見ることはできない。比較的,図4のように裏面が観察しやすいように感じる。Apr. 14, 2021記

神饌用炊事場付近の掃除

 神殿横の神饌用炊事場の掃除は50年間一度もされなかったであろう。道具はただただ玄関まで溢れていた。フィールドワークの前後で考えると一月を隔てて漸く,昨日完成した。窯場からの陶磁器が結構あったが,試し焼きのものが積み上げられてもいた。今後使わないものは全部廃棄した。

図3 サンダーで磨いた古い神殿棚

 図3は,亀岡市横町一番地の時代の神棚の上部である。下部の収納箱は箕面クリーンセンターで処分すべく,今は車中にある。カンナで削ったら板目の部分で深掘りしてしまい,電動サンダーを購入して削り直した。上段の木箱には火打ち石を収めている。この棚はカビも加勢したか真っ黒であったが,甦った。ベニアではこうは再生しない。下部を占めていた収納箱は,神饌用の炊事場を片付けたので,不要となった。

図4 糊の除去

 電話がどこでも取れるようにと,電話線が縦横に走っていた。電話線収納ケースを外しても,ヘラやサンダーなどを使ったが,その糊が剥がれない。Locktiteの「シールはがし」を使って言わば浮かせて?,ヘラを主に使って剥がした。最初はシールはがし無しで2時間近く格闘したが不可能だった。

図5 神饌用炊事場とその周辺

図6 三宝周辺

 図5の左端近くの写真は王仁三郎の等身大のものである。廊下そして玄関にまで広がっていた道具などもこの神饌用炊事場の棚に収めることができた。これまでは,皿類は神殿下の収納箱に入れて,お宮の前に置く三宝や陶器類はこの炊事場に置いてきた。お宮それぞれの陶器は,未分類で置いてきたが,図6のように,分類して配置することができた。

 タニハには,お宮が6宮ある。神殿は広い中央枠,比較的小さな枠がその左右に。中央には,向かって右から,開祖,大天主太神,聖師,そして小幡神社の産土神である開化天皇である。順位としては,大天主太神,開祖,聖師,産土神である。祝詞奏上の神号奉称の際には,大天主太神(おほもとすめおほみかみ),惟神真道弥広大出口国直霊主命(かむながらまみちいやひろおほいつきくになほひぬしのみこと),瑞霊大神(みづみたまのおほかみ),産土大神(うぶすなのおほかみ)を,神号に「守りたまへ幸はへたまへ」を加えて,二回ずつ称える。器には墨またはマジックインクで,それぞれ,大大(大天主),大(天主),主神,小,とある。神殿の右枠には祓戸四柱神,左枠には木庭次守をお祀りしている。父の生前中,左枠は物置になっていた。その付近の廊下に木庭次守のお宮を置いていたが,ぼく元晴が皆さんにお願いし,左枠にお宮を配置させていただいた。木庭の祖霊宮では無い。

 父の生前中,中央のお宮は産土さんを入れて3宮であったが,三代教主昇天に合わせて?というか,四宮になったように思う。タニハの賛同者の皆さんはその意味を聞いておられたかも知れない。聖師によれば,「惟神真道弥広大出口国直霊主命」は,開祖の神名とされているが,父に別の機会に尋ねた折りには,少し考えて三代教主もそのなかに入ると答えたと思う。「惟神真道弥広大出口国直霊主命」は,開祖以来の教主の集合的表現なのであろう。

 なお,図7では,左枠内には祓戸四柱が祀られ,木庭次守のお宮は外に配置されている。

図7 隅田光斎主 Jan.19, 2007

おわりに

 父昇天の後,隅田光氏と山崎由美子さんが中心になって,十五年間,お祭りが年に数回,挙行された。ぼくはお客さん的立場と勝手に感じていて,カワラケに大天主とか主神とか書かれていることに疑問を持ち,皆さんに尋ねたこともあったが,納得行く回答は得られなかった。父の文献を読む中で,お宮の意味が自然とわかるようになった。

以上,Apr. 11, 2021記